第十九章その1 世界最高のマッチ
「うっわ、すごい大歓声」
土曜夕方のイーデン・パーク。つい先週俺が熱戦を繰り広げたスタジアムには、今日も5万の大観衆が押し寄せていた。
しかも今日の興奮は先週と比べ物にならない。まだ試合開始までの時間はかなりあるのに、あちこちで歌い出したりハイタッチしたり、男女でキスをしたりとすでにお祭り騒ぎだ。
「そりゃオールブラックスとワラビーズだもん。盛り上がらないわけがないよ」
いっしょに来ていた和久田君がほとんど騒音と呼ぶべき応援団の大合唱には耳を押さえながら、ため息交じりに吐き出す。2019年のワールドカップ日本スコットランド戦を日産スタジアムで観戦した俺にとっても、これほどの熱気は初めてだ。
今日は南半球6か国対抗戦、そのニュージーランド代表とオーストラリア代表との大一番だ。
この対抗戦はかつてのザ・ラグビーチャンピオンシップの規模を拡大したもので、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチン、日本、フィジーの6か国が総当たり戦を行って順位を決定する。
俺は和久田君、キム、ニカウの1年生4人組に、南さんも加えた5人で試合の観戦に来ていた。せっかくだからと全員が黒一色にシルバーファーンをあしらったオールブラックスのシャツを着用して気分を盛り上げてきたものの、想像をはるかに上回る空気にすっかり気圧されてしまった。
「私、ナショナルチームの試合観戦は初めてなんだけど……これが普通なの?」
「いやぁ、今日は特別だよぉ。このカードはいつもこうなんだ」
南さんの質問にニカウが苦笑いで返す。両チームはいずれもこれまでの3戦で全勝を収めており、ここで勝利した方が一気に優勝に近付く。昨年のワールドカップでも優勝と準優勝という対戦カードであることから、実質的な優勝決定戦と評してもよい。
俺たちは5人で横一列になって、チケットに指定された席に座る。良い席はお値段が高いので手頃な価格の2階席だが、コートが一望できるので普段テレビには映らない他の選手の動きも一目でわかる。
「いい席じゃねえか」
キムがぐるりとスタジアムを見渡す。すでに陽は沈んでいるものの、ナイター照明のおかげでスタジアムは昼間のように明るい。
そんな俺の前列の席では、ニュージーランドの黒のジャージを着たおじさんと、隣に座ったオーストラリアの黄色のシャツを着た若い男性が楽しそうにおしゃべりしていた。
ラグビーでは野球やサッカーのように、応援するチームごとに観客席が区切られることはない。敵サポーターも味方サポーターも、同じスタンドでごちゃ混ぜになって応援するのが流儀だ。
そんな馬鹿な、サポーター同士で小競り合いが起こるだろうと不安を抱くかもしれない。だが不思議なことに、ラグビーファンの間ではそういった事件はほとんど起こらないのだ。むしろ互いの国や選手をリスペクトし合ったり、親しくなった人とプレゼントを交換したりしていっしょになって盛り上げていくのが当然という空気に包まれている。
そしてラグビー観戦のお供と言えば、何と言ってもビールだ。映画館のポップコーンや夜店の綿菓子と同じように、ラグビー観戦はビールを飲みながら楽しむというスタイルが今日定着している。
スタンドの大人は誰しもが黄金色に揺れるビールのプラカップを左手に持ち、周りの人と笑いながら飲み交わしている。中には相手チームを応援するサポーターに大量のビールを奢る人もいるくらいだ。
とある調査ではニュージーランドでは一人当たりのビール消費量が、日本の1.5倍以上という統計も発表されている。その理由のひとつにラグビー場での大量消費が関わっていると言われているが、この光景を見ればあながち嘘とは思えないだろう。
ちなみに世界で一番ビールを飲むのはアイルランド人で、一人当たりなんと日本の2.4倍も消費しているというから驚きだ。
今の俺は未成年なんでアルコールはおあずけだが、内心グビグビといきたくて仕方ない。オレンジジュースとコーラで我慢だ。
さて、いよいよ試合開始だ。
大喝采に包まれてゲートから現れた黒一色のジャージのニュージーランド代表オールブラックス。対するは黄と緑のジャージのオーストラリア代表ワラビーズ。
両国が国歌斉唱を終えると、キックオフのため両チームがそれぞれのサイドに移動する。
と、その前に。オールブラックスと言えばこの儀式をわすれてはならない。
ベンチ入りも含めた23人の選手が魚鱗の三角形に並び、雄叫びとともに力強く踊り始める。相対するワラビーズの選手たちは横一列で肩を組み、じっと睨み返していた。
これぞ試合前のハカ、しかも特別な試合でしか披露されないカパ・オ・パンゴだ。
試合前に円陣を組むのと同じように、オールブラックスは試合前に士気を高めるためマオリの民族舞踊であるハカを踊るのが習慣となっている。
現在、オールブラックスは2種類のハカを使用している。ひとつは100年以上の歴史を持つカ・マテ。そしてもうひとつが大一番の勝負の時にだけ見せるこのカパ・オ・パンゴだ。今日のオーストラリア戦を大事な試合として100%全力で挑む、そんな彼らの本気がこのハカからだけでも窺える。
「なんか涙出てきた……」
和久田君が目頭を押さえる。会場の熱気と勇猛な男たちのハカ。世界最強チーム同士の本気のぶつかり合いを間近で見られる喜びに、彼は我慢ができなかったのだろう。
かく言う俺もさっきからずっと身体の奥底から、興奮とか憧れとかそういう熱い感情が無限にこみ上げている。少しでも気を抜けば腹の底から叫んでしまいそうだ。
そしてついにキックオフで、試合が開始される。
目の前で展開されるは世界最高のタックルに世界最高のキック、そして世界最高のスクラム。凄まじい攻撃に対抗する鉄壁の守備、その穴を突かんと時折見せる意表を突いたキックなどのクレバーなプレー。
試合は両軍一歩も譲らない白熱したもので、観客の応援は常に最高潮だった。
「いてまえぇえええ!!!」
「そのまま走れ、トライだ!」
5人とも、息切れしても声を嗄らしてもニュージーランドを応援した。さっきまで抑えられていた感情もすべて開けっ広げにして、俺も腹の底からの声を上げる。
だが敵であるオーストラリアのナイスなプレーにも「すげえ!」と歓声と拍手を贈る。良いプレーには良い相手が必要なのだ。
そして80分の死闘が終わった。7-3の激闘を制し、勝ち点4を得たのはニュージーランド代表オールブラックスだった。
「いやあ、凄い試合だったねぇ」
「カッコ良すぎだろ、全員」
スタジアムからぞろぞろと去っていく人混みに紛れながら、俺たち5人は一塊になって歩く。まだ観客の興奮は冷め止まないのか、あちこちから国家の歌声が聞こえてくるが止めようとするものは誰もいなかった。
「オールブラックス、憧れるよなあ」
すっかり暗くなった空を見上げながら、俺は黒一色のジャージを着てハカを踊る自分の姿を夢想する。
ラグビーにおいてナショナルチームの代表選手となるための条件は、他のスポーツよりもだいぶ緩い。2024年現在、プレーする国における直前60か月の継続した居住、または累積10年以上の居住が認められれば、外国人であっても代表選手になれるのだ。
オリンピックの場合は出場する国の国籍が必要となるが、ラグビーは元々大英帝国の植民地で広まったという歴史的経緯があるため、国の代表というより各地の協会の代表と呼ぶのがふさわしいだろう。実際に日本代表には外国籍の選手も多いし、それはニュージーランドやオーストラリア、イングランドといった強豪も同じだ。
それはつまり、うまくいけば俺もオールブラックスの一員になることも理論上は可能ということだ。これまで日本人でオールブラックスに選ばれた人間はいない。日本人初のオールブラックスなんて、選ばれれば日本スポーツ史に永遠に名を残すほどの偉業だろう。
まあそんなの、ネス湖でネッシーが見つかった上に琵琶湖でビッシーが見つかるくらいの確率、夢のまた夢のそのまた夢なんだけどな。
「どうしたの? にやにや笑っちゃって」
隣を歩いていた南さんに突っ込まれ、俺は「いや別に」と顔を背けた。思わず表情に出てしまっていたようだ。
「大会は終わったけど、今日の試合見てるとどんどんやる気みなぎってきたよ。選抜チームでも負けないぞって」
誤魔化しついでに俺は自ら話題を持ち出す。それを聞いて和久田君も意気込んだ。
「だね、何せ火曜日も試合なんだからね」
そう、来週火曜日はいよいよ日本の中学選抜との試合だ。
選抜メンバーである西川君らは明日、日曜朝にオークランド国際空港に到着するそうだ。今頃もう成田空港に向かっているか、もしかしたらもう飛行機に搭乗しているかもしれない。
彼らがどこまで強くなっているのか、今から楽しみで仕方がない。
「あれぇ、キムどうしたのぉ?」
だがその話題に移った途端、すっかり落ち込んだ顔で黙り込んでしまったキムにニカウが話しかける。
「俺、フランカーだから試合出番無いもん……」
ぼそりと呟く彼に、他の面々が「あっ」と言葉を失った。
次の試合は日本チームに合わせて12人制のレギュレーションで行われる。フランカーとナンバーエイトはそもそもポジションが存在しないので、出場できないのだ。




