夏の日の記憶
久しぶりにこの夢を見たので、勢いで文字に起こしました。
私の地元の町にはとても大きな病院があります。〇〇県病院という正式な名前のある、総合病院なのですが、古くから地元に住む人たちの間では、その病院のことを療養所と呼んでいました。
それは昔、その病院が戦争で重い怪我をした兵隊さんや、心の病気にかかってしまった人を隔離しておくための施設だった頃の名残だという話です。今でこそ清潔感のある、まるでホテルのような新しい建物ばかりの病院ですが、私が子供の頃には高い垣根に覆われ病院の敷地の中は見えず、森とよんでもいいほどの木々が生い茂り、昼間でも院内は仄暗い陰気な場所でした。
腕白だった私の幼少時代、怖いものなど何もなかった私は、院内にクワガタの取れる木があるという噂を耳にし、友達と2人こっそりと病院の敷地に忍び込んだことがあるのです。大人たちからは、あの病院はでるから、近づいてはいけないと、何度か注意されたことがあったのですが、あの頃は冒険心をくすぐられただけだったように思います。
あれは、夏真っ盛りの朝方だったと思います。クワガタを捕まえるために早起きして、私と友人は病院の敷地に忍び込みました。敷地の中は、朝日など寄せ付けないように薄暗く、クワガタを捕まえるには、絶好のコンディションのように思えました。友人と2人木の根元の樹液の出る場所を漁っていると、ガサリと少し後ろで誰かの歩く音がしました。夢中になっていて、誰かが来たのに気づかなかったのでしょう。私と友人は勝手に敷地に入って怒られるのではないかと恐る恐る後ろを振り向きました。
そこに立っていたのは、着物のような服、ずっと後から病院服だとわかった、を着たぼさぼさの髪の女の人でした。年の頃はわかりません。年寄りにも中年にも見え、ひどくやつれた顔をしていたのを覚えています。
気まずくなった私達は、消え入るような声でその女の人にこんにちは、と挨拶をしました。登下校のときすれ違った人とは挨拶をする、なんて指導されていた時代ですから、その癖が出たのでしょう。
私達の挨拶に対して、女は何も反応を返しませんでした。ただただこちらを何処ともしれぬ目でこちらをジッと見て、何事かをぶつぶつと口を動かしていたような気がしました。私達は気味が悪くなって目と目で合図し、女から離れようと後ずさりました。
その時でした、今まで無反応だった女がカッと目を見開いてあああっと大声をあげながら、こちらに迫ってきたのです。そこからはもう無我夢中で逃げました。叫びながら追いかけてくる女、あれは本当に幽鬼のようでした。どうやって逃げ帰ったのか、その時の記憶は今でも曖昧です。一緒に行った友人ともいつのまにかわかれ、自宅に滝のような汗をかきながらたどり着きホッと息をついたところからしか記憶がはっきりとせず、どれくらい追いかけられたのか、どのように逃げたのか、あれが本当に人だったのか、今となっては確かめようもありません。
それなりに長い時が経ち、今ではあの日の記憶がそのものが現実のものだったのか、あるいは子供特有の夢想の類いだったのかも曖昧となってきたように思います。
ただ、私はあの時から度々夢に見るのです。髪を振り乱し、叫び声を上げる女に追い回される夢を。場所は毎回違います。小学校の頃の通学路、長い廊下、終わらない歩道橋の上、幼い頃に戻った私は必死に女から逃げ、あわや捕まるかというところで飛び起きます。
未だにその夢で、女に捕まったことはありません。この夢が過去におきたことのフラッシュバックで、逃げ切った私が夢でも捕まることはない、そうであって欲しいと心から思わずにはいられません。
眠るの怖い。