蚊
一瞬の衝撃。
それからだんだんと頬が痛んできた。
私は呆然として床に尻餅をつき、先ほどひっぱたかれた頬を押さえていた。
目の前には、仁王立ちの武士。
彼は真っ直ぐに私を見据えて、一言こう言った。
「……いや、蚊がな」
ふざけんなよお前!
「秋口の蚊は厄介だぞ、大家殿! 噛まれれば大いに腫れ上がるからな!」
それは分かるけどね!
あれほんとなんでなんだろな。
いや違ぇよ。今はビンタしたことに対しての話だ。謝れ武士。
追及すると、ヤツはしれっと答えた。
「某は大家殿の頬を守ったに過ぎん。謝る必要は無い」
おうおう、私がいないとチロルチョコすら食べられない口で何をほざくか。
いよいよ摑みかかろうとしたその時、武士の側頭部に蚊が止まっているのを見つけた。
考えるより先に、思わずビンタ。
いきなり張り倒された武士は、目を白黒させ床に転がった。
「何をするか大家殿! やられたらやり返すのでは、永遠に戦は終わらんのだぞ!」
武士が言うとなんだか説得力があるが、こっちだって蚊がとまっていたのである。謝る必要は無い。
「ぐぬぬ」
ぐぬぬ言うな。
「……して、肝心の蚊は捕らえたのか?」
武士の疑問に、私は自分の右手を確認する。
しかし、残念ながらその手は綺麗なままだった。
「大家殿ー!」
うるせぇ! 賃貸物件で叫ぶな!
その後二十分に渡り奮闘した結果、無事蚊はお縄となった(私の功績である)。
どさくさに紛れて互いにしばき倒していたので、翌日の私の顔を見た後輩から「彼女と修羅場でもしました?」と聞かれた話は、墓場まで持っていく次第である。




