充実した日々
私が〔シキ〕としての活動に参加し始めて、ただのマリアとして急激な成長を始めてもうすぐ三年。ラウラやエリスさん、愛良と共に歌うことにも、ただのマリアとしての時間を過ごすことにも、もう随分慣れた。
ラウラも私の聖騎士としての立場と私の妹としての立ち位置で安定したのか、慶司さんとの対立も鳴りを潜めている。度々口論はしているけれど、殺してやると物騒な言葉を吐くことも、手が出ることもなくなり、ただの口喧嘩で済ませてくれている。
エリスさんと杉浦さんは相変わらずだけれど、愛良に心配をかけるようなことはあれ以来起きていない。愛良に見えないところでは異なり、互いに蟠りを抱えたままではあるけれど、どちらも言えないとしか教えてくださらないため、私にも手の出しようがなかった。
愛良ももう十七歳、学園では高等部の二年生になった。それでも、その純粋無垢な心と、天真爛漫な性格は変わっていない。
今日も順調に進んでいる〔シキ〕としての活動のため、皇都で演奏を行っていた。いつもは愛良の送り迎えなどのため、お兄さんのどちらかが来ているのだけれど、今日はどちらも不在。エリスさんの専属騎士も、別件を任せているということで見えていない。
そんな日もある。愛良は少し寂しそうだけれど、私は今まで通りただのマリアとして演奏することを楽しんでいた。
歌っているうちに、愛良も寂しさより楽しさが勝ったようで、終わる頃にはいつも通りの笑顔になっていた。
「ありがとうございました!」
大きな拍手が返される。これもただのマリアが知った楽しさ。その思いを持ったまま、聞いてくれた方々を見送り、他愛もない会話をしつつ、片付けを済ませる。
「お疲れ〜。今日もいっぱい来てくれたね!」
「私たちの歌声で喜んでもらえるのは嬉しいよね。」
興奮気味に愛良とラウラは話す。ラウラの言葉には私も同意するけれど、私にとってはそれ以上の意味がある。
「立場を気にせずにいられるってのは、本当に良いものよね。」
〔聖女〕ではないマリアの活動だと、今は多くの人が知ってくださっている。そのため、信者の方でもこの時ばかりは私を〔聖女〕と呼ばない。私がそれを望んでいると、もう知ってくださっているから。
「本当に。気が楽よね。目の前で反応が見られるのも素敵だわ。」
きっとエリスさんも、ただのエリスさんとしてのこの時間を、大切にされている。
慰労の意味を込めた晩餐を済ませると、いつもは解散になるけれど、今日は愛良からの提案があった。
「ねえねえ、この後って空いてる?」
「空いてるよ。どこか行きたいの?」
私もこの日のために、少しお願い事をしてきた。〔聖女〕として大切な儀式を抱えているけれど、ただのマリアの時間だって、同じくらいに大切だから。
エリスさんと私も止めなかったことで、愛良は嬉しそうに言葉を続ける。
「綺麗なとこ見つけたから、一緒に行こうと思って。猫もいっぱいいたんだよ!」
「へぇ、じゃあ行こうか。」
愛良の先導で、暗い林を進んでいく。以前は好きだと言った場所に行けなかったけれど、もう自分で案内できるほど、愛良も成長している。
彼女が綺麗だと表現する場所。素直な彼女は真っ直ぐに風景を受け止められる。きっと美しい景色が待っている。そんな期待がラウラも抑えきれなかったのか、辿り着く前に問いかけてしまう。
「どこに向かってるの?」
「えへへ、内緒!」
決して明かさない愛良のおかげで、より期待に胸は膨らんだ。
月の光が照らす水面、静かに浮かぶ葉、静寂に包まれていた場。
「到着!ここ。昼間だと猫さんがいっぱいいて、池もキラキラしてて綺麗なんだ。今は…」
夜は夜の美しさがある。けれど、愛良が見せたかったのは、陽の光で輝く美しさと、そこで寛ぐ猫の愛らしさ。
「まぁ、また今度、時間がある時に来れば、ね?」
今は今の美しさを楽しもう。人の気配のないここは今、木の葉の音すら静謐な夜の美を彩ってくれるのだから。
「それにしても、よくこんな所見つけられたね。」
「お散歩してる時にね、猫さんが案内してくれたの。」
導かれるように、愛良はここを見つけた。それは愛良がその猫を信じてあげたから。私も一度、そんな風に歩いてみると新しい発見があるかもしれない。
もっとこの時間を楽しみたい。けれど、エリスさんは現実的な安全を考えられていた。
「そっか。今日は残念だけど、あんまり遅くなると心配されるでしょう?」
「うん。だから伝えてあるの。迎えに来るって。」
「「え?」」
愛良の手を引いて歩き出すエリスさん。抵抗なくついて行った愛良だけれど、その言葉には驚かされた。今日はどちらも来られないという話だった。来られるならお待たせしてはいけないと、私も愛良の手を握り、足を速める。
ラウラも愛良の前から話を聞き出している。
「誰が迎えに来てくれるの?どこで待ち合わせてるの?」
「友兄。広場の噴水の前だよ。人がいっぱいだし、分かりやすい所だから、そこなら一人で来れるだろ、って。」
人目があるほうが危険は少ない。そんな判断も働いているのだろう。愛良や杉浦さんが住む地区は少々危ないようだから。
「すみません、こんなに遅くまで連れ回してしまって。」
「いや、むしろ送っていただいてありがとうございます。」
表面上はにこやかな二人。愛良はそれを信じて、もう彼らの心配をしていない。
「そんなに心配しなくてもいいのに〜。」
大切だから心配にもなる。何か遭った時のことを考えれば、ラウラかエリスさんの専属騎士が送ることが好ましいけれど、今日はそれができない。今のラウラは私の妹で、エリスさんの専属騎士はおられないから。
愛良が安心して過ごせているのは良いことだけれど、それが誰のおかげかは忘れてはいけない。彼女も大切にする人を不安にさせたくないだろう。
「あんまり心配かけないようにね。」
「次会えるのを楽しみにしてるよ。」
手を繋いで帰る二人を見送り、エリスさんとも別れを告げた。
翌週、いつものように公演の達成感を〔琥珀色の時間〕にも持っていく。
「でね、迎えに来てくれるって言うのに、愛良ったらきちんと待っていないのよ。驚いてしまったわ。」
「少しくらいなら、という気持ちがあったのでしょうね。」
身近な人だから甘えてしまう。それは罪ではないけれど、約束を守らないのは罪。
「もう、困った子ね。愛良へのお説教はエリスさんが主にしてくださるから、私は黙っていることが多いのだけれど。今回ばかりは私も何か言おうかしら。」
「マリアさんにまで怒られたら反省するでしょうね。」
「いつもだって反省しているのよ。それに私は、お説教はしても怒らないの。」
楽しい話は何度だって、何人にだってしたい。だから今日、杉浦さんにもお話ししたかったのだけれど、そろそろ帰ろうかという時間になってもお見えにならなかった。
「明日の夕方、お時間はおありですか。」
「ええ、もちろんよ。そういえば、今日は杉浦さん、来られなかったわね。」
「いつも同じ時間に来られるわけでもありませんから。マリアさんがいらっしゃるから、この時間に来られることが多いだけですよ。」
いない週だって何回もあった。今日は会いたいと思っていたから気になってしまっただけ。特別な要件もないのだから、またの機会を楽しみにしよう。
同じ時間を共有した人とも、公演の高揚を思い出す。
「マリアは相変わらずね。」
「大切な思い出は忘れたくないもの。何度も話せば、それだけ覚えていられるでしょう?」
エリスさんは楽しい時間をあまり人に話されないようで、いつも私が話すことを聞いておられる。だけど、同じように感じられているとは、その微笑みから読み取れた。
「いったい何人にその話をするつもりかしら。」
「予定では、あら、何人かしら。エリスさんでしょう、ラウラに、慶司さん、杉浦さん、それから、」
一人ずつ名前を挙げては指折り数えていく。
「どれだけ話すつもりなの。」
「二桁には達しないわ。あ、でも、杉浦さんには話せなかったの。今週は来られなくて。」
また来週ね、と他にもただのマリアが経験した話をしていく。一つ一つが大切な記憶だ。どれだけ積み重ねても、それは変わらない。大切であることも忘れたくないから、この思いと共に、言葉にして、心に刻み込む。
「お話を聞いてくださってありがとう。」
「私も聞けて良かったわ。人の思いは聞かなければ分からないことも多いもの。」
とても単純なことだけれど、人がつい忘れてしまいがちな事実を、エリスさんはしっかり覚えられている。
見送っていただき、自宅へ帰る。オルランド様にもたくさんお話をさせていただいたけれど、何度だって話したい。ラウラとだって、たくさん互いの思いを話さなければ、また不安にさせてしまいかねない。
「お帰り、マリア。本当にお出かけするの好きだね。」
「ただいま。だって、たくさん会いたい人がいるのだもの。もちろん、ラウラとだってたくさん一緒にいたいわ。今日はこの後ずっと、一緒にいましょうね。」
お部屋でしっかり、大切に思っているという話をする。いつも思っているからわざわざ言うことではないなんて言う人もいるけれど、そんなことはない。そうやって伝えることを怠れば、いつの間にかすれ違ってしまうから。
「マリアはずっとそう言ってくれるね。もうそんなに子どもじゃないから良いのに。」
「大人でも子どもでも、大切な人に大切だと伝えるのは大事なことよ。いつだって、私はラウラを大切だと思っているもの。」
「もうマリアを取られるって喚いたりしないって。まあ、時々文句は言うけど。」
今でも口論はしている。二人で出かけた後に会った時には、特に激しい言い合いになる。
「私は二人には仲良くしてほしいのだけれど。」
「マリアには心配させるようなことはしないよ。だけど、マリアの心にいるんだから、少し意地悪するくらい良いでしょ?」
意地悪も罪。私は赦すけれど、して良いわけではない。
「もう、ラウラ。あんまり困らせちゃ駄目よ。」
「良いんだって。あれは少しくらい困らせたって。なんであんなにマリアと仲良くしてるのに無事で済んでると思ってるの?」
もしかして、ラウラが何かしてくれているのだろうか。それともオルランド様が何かされているのか。
「ラウラは何か知っているの?」
「〔聖女〕様はお赦しになるけれど、誰も責めることができないから、その苦しみをただ一人抱えられるのです、ってね。そこから救い上げることのできる唯一の人を、あなたは敬愛する〔聖女〕様から奪うのですか、って。まあ、相手によって色々だけど。」
私は多くの人に愛されている。多くが〔聖女〕としてだけれど、中にはただのマリアを愛してくれている人もいるだろう。〔聖女〕のマリアは全てを等しく愛しているけれど、ただのマリアは誰かを特別に愛してしまう。
「ありがとう。ラウラもただのマリアにとって特別な一人よ。」
「知ってるよ。もう、そんな調子だから心配なんだけど。」
この日常の中に潜む幸せを、私は忘れない。




