人々の懺悔
今の私は〔聖女〕。儀式の練習にも力を注ぎ、〔赦しの聖女〕として懺悔に訪れる人々に神の赦しを伝え、私自身も赦すと伝える。罪は赦されるためにある。ただ赦されることが、人々にとっての救いだ。
「〔聖女〕様、嘘吐いちゃった。」
「どのような嘘を吐いてしまったの?」
「あのね、昨日、お母さんに、歯磨いたのって聞かれてね、磨いてないのに眠たかったから、磨いたって言って、歯磨きせずに寝ちゃったの。」
他人から見れば小さな出来事で、罪とも思わない者だってきっといる。けれど、これが彼女にとっては大きな罪。おそらく嘘を吐いたことに対して最も強く罪の意識を抱いていて、その次に眠る前に歯を磨かなかったことに罪の意識を抱いている。
「あっ、でも、ちゃんと朝起きてから磨いて、朝ご飯食べてからも磨いたんだよ。でも、その時も、お母さんにどうしたのって聞かれて、昨日嘘吐いたのばれちゃうからって、返事しなかったの。」
昨日と今日で幾つも罪を犯してしまったから、彼女はこんなにも必死になっている。償いにいつもよりきちんと歯を磨いたけれど、罪を隠すために、別の罪を犯してしまった。
「大丈夫、神は赦されているわ。もちろん、私も。だけど、貴女はお母さんに赦してほしいのよね。」
「うん。怒られちゃうかな。」
「正直に言えば、きっとお母さんも赦してくれるわ。怒るのは、無条件で赦すことが難しいお母さんが貴女を赦すために必要な行為だからなのよ。頑張ったわね、罪を抱えるのは辛かったでしょう?」
「うん。もう嘘吐かない。」
可愛らしい罪人を見送れば、また次の罪人を迎える。
「〔聖女〕様、僕は酷い暴言を吐きました。」
「赦すために、私に話してくれるかしら。」
今度は友達と喧嘩してしまったと言う少年。その中で暴言を吐いたと。
「背が低いって馬鹿にされて。だから、お前は家の手伝いもせずに遊んでばっかの癖に、いたって意味ないな、って。」
「大丈夫、それを酷いと認識できた貴方なら、同じ過ちを犯さないでしょう。神も私も、貴方を赦しています。」
「ありがとうございます、〔聖女〕様。」
赦すだけならこれで良い。だけど、私は正しいか分からないまま、いつも言葉を紡ぐ。
「一つ、聞いても良いかしら。」
「何でしょう、〔聖女〕様。」
「貴方は、意味のある人間と意味のない人間がいると考えているのかしら。」
「はい。何のためにもならない人間はいても意味がないと思います。」
この子は教義を十分に学べていないか、喧嘩のせいで忘れてしまっている。
「神は全てを愛される。」
「はい。神は全てを愛され、全てを赦されます。」
「それなら、なぜ、意味のない人間という言葉が出て来るのかしら。」
「それは、えっと。そんな人間でも、神は愛されているから、存在することが赦される、という意味だと思うからです。」
何のためにもならないと判断された人間は、存在することが罪。そう思っているから、赦されるかどうかという観点になっている。
「貴方は誰かを愛しているかしら。」
「え!?えっと、そんな、僕にはまだ早いです。」
「家族や友を愛しているかしら。」
「ああ、それなら。愛しています。」
愛を知らない人間ではない。家の手伝いも頑張っているこの子は、誰かを愛し、慈しみ、誰かのために動ける人間でいられる。
「そんな愛する人がいなくなれば、どう思うかしら。」
「悲しいです。とても、寂しい。想像するだけで泣きそうなくらい。」
「それが存在する意味よ。神が愛しておられる。それが、全ての人間の存在する意味よ。だから、意味のない人間なんて存在しない。たとえ貴方から見て、いなくても良いと思えても、その人が本当に消えてしまえば神は貴方と同じように感じられる。」
神は全てを見ておられる。彼らが喧嘩して、仲直りして、その先を生きる姿だって、全て。
「喧嘩も同じよ。お父さんとお母さんが喧嘩していると悲しい気持ちになるでしょう?神も、人同士が争う姿を見て嘆いておられる。だけど、自分たちで乗り越えてほしいから、見守られる。大丈夫、貴方たちなら乗り越えられるわ。」
「僕、ちゃんと謝ります。本当は愛しているよ、って伝えます。」
また罪人を見送る。こうして懺悔に訪れる人はただ赦しを求めているのではない。赦されている実感と、問題の解決を願っている。だから、赦します、だけではなく解決の糸口となるような話をするよう努める。私にも正解は見えないけれど、何か手掛かりになりそうな話を探す。結果も彼らは教えてくれるから、私も次に生かせる。
今度はラウラと同じ年頃の少女が罪を告白した。
「〔聖女〕様。私は罪を罪とも思っていませんでした。それがいずれ、自分の首を絞めることになるとも、知りませんでした。」
「お聞きしましょう、貴女の罪を。」
初めて見る子の時は、いつもより緊張感が増す。いつだって真剣に聞いているけれど、普段は来ないのに懺悔に来た人は、特に深い罪を犯したと思っているから。強く救いを欲して、ここに来られている。
「私は子どもの頃、母と一緒になって、人を痛めつけて遊んでいました。それが当然だと思っていたのです。ですが、知られると問題のある行動であることには、自分で気がついたのです。だから隠し続けていました。ですがつい先日、それを突き付けられてしまったのです。」
彼女は痛めつけたことに対して、罪の意識を抱いている。だから、自分で気付けた。だから、隠していた。
「隠し続けることは苦しかったでしょう。」
「最初はそうでした。いつ知られるかと怯えていました。ですが、一年、二年と経つうち、もう誰も覚えていないだろうと思い込んでしまったのです。」
罪の意識を忘れた人間。もちろん、そのような人間だって赦され、神は愛しておられる。
「突き付けられた時、まさかという思いでいっぱいでした。私が知らないと訴えても、信じてほしい人も信じてくれませんでした。このままでは実家に帰らなければならなくなると、恐ろしくなりました。」
「貴女は貴女自身を信じられなかったのですね。」
そんな過去を持った自分では、信じてほしいと願った相手の傍にいられないと思ってしまった。深い罪を犯した自分は赦されないと思い込んでしまった。
「え?」
「信じてほしいと思っている相手を信じられなかったのは、自分自身を誰よりも信じられていなかったから。」
自分すら信じられない者には、他人を信じることが難しい。だから、今は彼女自身が信じられるように。
「ですが、私は人を傷つけました。」
「神は赦しています。貴女の罪を知った私もまた赦します。自分の罪を認めた貴女も、ご自分を赦してあげてください。貴女もまた、神の愛する人の一人です。それを傷つけ続けることも、神は悲しまれます。」
「ありがとうございます。〔聖女〕様、許してくれない人には、どうすれば良いでしょう。どうすえば、許してもらえるでしょう。」
神は赦され、私も赦す。けれど、人の心を操る術はない。彼女の罪を責めることも、何らかの罰を求めることもまた、赦されるのだから。
人に赦しを請う方法はたくさんある。けれど、必ず赦される方法はない。
「赦すかどうかは、相手の心一つで決まります。その心を変える確実な術はありません。私にできるのは、多くの方法を提案し、力になることと、貴女の罪を赦すことだけ。」
「方法を、教えてください。」
最も単純で効果的なのは心からの謝罪。けれど、わざわざ方法を尋ねる人間ならもう既に試し、赦されなかったという結果を得ている場合も多い。
次に思いつくのは、罰を受けること。罰は何も与える側や赦す側だけが求めるものではない。赦される側もまた、赦された実感のために求めている。
「相手の方は、何か罰を求められましたか。」
「いいえ。同じ家に居たくないと言われただけです。ですがその後、何度も会話をしていて。」
既に赦されている。ただ、罪を忘れてほしくないだけ。居たくないと言いつつ、同じ家での生活を続けているのなら。
「その方はきっと、もう貴女を赦しています。ですが、それを伝える術を持たないのでしょう。貴女もその方も、罪も過ちも犯す同じ人間ですから。」
「許されている、のでしょうか。」
罰を欲しているのは、相手の方ではなく、目の前の彼女。罰がないと思っているから、赦されていると思えない。
「一度責められたのでしょう?それが貴女を赦すための罰だったのです。貴女も貴女を赦してあげてください。そして、貴女を苦しめる一因となったその人もことも、赦してあげてください。」
責められたことを赦し、罰を与えられることを赦すのは、自分が罰を受け、罪を赦されることを認めるということ。
「そう、ですね。ありがとうございます、〔聖女〕様。身近なお人は許される方法を教えてくださいませんでした。私が罪を犯していると認識させるだけで、そこから救ってはくださいませんでした。」
「お力になれたのなら、私にとっても嬉しいことです。大丈夫、貴女は赦されているのです。何も心配することはありませんよ。」
最後の一人を見送り、私も帰路に着く。この後はまた、舞の意味の再確認が待っている。けれど、これらは無関係なものではない。私が舞うのは〔赦しの舞〕。普段はなかなか懺悔に足を運べない人々にも神の赦しを伝えるための、大切な舞。
懺悔は人々がどのような事柄に罪の意識を抱いているのか、それをどのように乗り越えるのかを知るのに適している。中には懺悔によって赦されると考える人だっている。そのような人たちには、懺悔の代わりに、私の舞を見せる。そうして罪が降り積もっているような錯覚を、舞によって消す。
〔赦しの舞〕は一年の罪を洗い流す儀式ではない。人々の意識を罪から救い上げるためのもの。だ
「こんにちは、島口さん。今日は私、新たな事実に気が付いたの。」
「それは良かったですね。どのようなことかお聞きしても?」
儀式の宗教的な深い意味は、ここでは学ばない。教義の問題はあくまでリージョン教のものであるから、宗教省では儀式の形式的な部分や皇国における意味を学んでいる。
「以前、〔赦しの舞〕は、人々が新たな気持ちで新年を迎えるための儀式の一つだというお話をされていたわね。」
「ええ、そうですね。一般の人々にとってはその程度の意味合いだというお話をさせていただきました。」
軽く扱われているようで悲しいけれど、それが現状での立ち位置。日常的に罪を意識しない人にとっては、赦される意識もあまり必要のないものだから。
「それを私は、一般の人々は降り積もった罪を洗い流してもらえると感じるから、だと理解したわ。だから必要なのは〔赦しの舞〕で赦すことではなく、既に赦されていると伝えることだと言ったわ。」
去年はそんな話をした。〔赦しの舞〕で赦すような舞を披露するのは、教義に反すると。既に赦されているのに、今から赦すと伝えるような動作は、まだ赦されていないのだという誤解を招く。
「ええ、覚えています。」
「だけど気付いたの。私にとって〔赦しの舞〕は、赦されない罪という錯覚から、人々を救い上げる儀式なのだと。」
これで何の懸念もなく、舞に臨める。私の信仰と、この儀式は矛盾しない。
「何か解決したようですね。」
「はい。〔赦しの舞〕は、自分を赦せない人々が、自分を赦せるようにしてあげる儀式なのです。」
前向きな気持ちで、儀式の言葉の理解に努め、覚えられる。
「その調子なら問題なさそうですね。早速、始めましょうか。」




