邪魔者
「神は全てを赦されます」「私も赦します」。マリアがよく使う言葉だ。
自分が誘拐されて、商品にされようとした時にも言っていた。自分を追いかけ、捕えようとしていた者たちに演説をし、そうして最後に赦しを与えた。私がマリアの父を目の前で撃ち殺した時も、まず私を赦し、そして義妹にしたのだ。
今いるのは皇国の施設の一つ。先週、マリアの初儀式が〔赦しの舞〕に決定され、その文様を見せてもらうことになったのだ。私は学園生のため、今回は何の役割もないが、将来のために見ておくように言われている。
普段なら島口さんが待ってくれているそうだ。だけど昨夜、急に時間が変更になったと伝えられ、代理だと言う別の人に文様の部屋まで案内してもらうことになった。黒いズボンに白いシャツ、黒い上着、そして腰に下げられた剣。島口さんとあまり変わらない服装なのに、どこか違和感を拭えない代理の人の後ろを歩きつつ、こそこそ話しかける。
「ねえ、マリア。こういうことってよくあるの?なんか、おかしくない?」
「いえ初めてよ。だけど、担当が変わったところで、私たちが学ぶ内容は同じよ。」
せっかく小さな声を出したのに、マリアはいつもと変わらない声量で返事をした。きっと代理の人にも聞こえている。しかし、その人は気にした様子もなく案内を続けた。
「ここが〔赦しの間〕です。」
開けてくれた扉をくぐり、マリアに続いて部屋へ入る。最後に入った代理の人はランタンに火を灯し、扉を閉めると文様のほうへ歩いていく。マリアはそれについて行き、足元の文様をしっかりと確認している。そうやって文様の意味を知り、肌で感じることが、舞の意味を理解することに繋がるそうだ。
私も文様を踏んで良いのか。少し迷うけれど、私も知っておいたほうが良いというせっかくのオルランド様の配慮だ。少し遅れて、私も彼らの後に続いた。
部屋の中はなぜか他の明かりを点けられず、窓もないせいで非常に暗い。けれど、見える範囲の床や壁は白っぽく、文様は黒で描かれている。かつては読めなかった文様の文字も、今なら読める。部分的にだが読み取れば、それは赦しに関する宗教詩。「神ハ赦ス」「罪深キ人ノ為」など、マリアが好きそうな言葉たちだ。
それらを眺めていると、突然足に痛みが走る。崩れ落ちれば、左足から血が流れているのが見える。顔を上げれば、代理の人が紅い雫を滴らせた剣を片手に、立っていた。そうだ、島口さんはいつも、剣を持っていない。騎士でも兵士でもない官吏は通常、剣を携行しないから。
私の怪我も気にせず、マリアは冷静に、代理の人に向いた。
「なぜ、このようなことをするのですか。」
ほんの少し悲しそうに感じられる声色。それは私が斬られたから、そうあってほしいと願った私自身がそう聞かせているのかもしれない。それとも、このようなことをしなければならなかった代理の人に同情したマリアが、本当に哀しみを露わにしているのか。
「なぜ?不思議なことを聞くのですね。〔聖女〕様に纏わりつく不届き者を排除して差し上げたのですよ。」
褒めてもらえると信じて待っているかのように、期待に満ちた目をマリアに向けている。
「優しい気持ちでの行動だったのですね。ですが、それは誤解です。私が望んで、彼女に傍にいてもらっているのです。」
そう、マリアも私といたいと思ってくれている、今はまだ。だけど、私のほうを見てくれはしないし、相手に怒ることもない。
「騙されているのです!そんな暗い碧で、黄金とは程遠い色で、〔聖女〕様の傍に侍るなど、赦されるはずがありません!」
知っている。マリアはずっと聖女様に相応しい。黄金の髪と瞳で、本物の〔聖女〕様になった。〔名も無き神〕のように何でも赦して、平等であろうとしている。
私は違う。髪だってありふれた栗色で、雰囲気もマリアのように清らかではない。瞳に至っては、周りが晴れ渡る空の色なら私は曇天、周りが全てを洗い流す清廉の色なら私は降り積もる悲哀。両親でさえそう表現した。その上、マリアとは逆に、マリアだけが特別で最優先、マリアのためなら他はどうなったって良い。
マリアは罪なんて犯したことないだろう。私は何人だって傷つけて、殺してきた。
「〔聖女〕様!私の声は、届きませんか。」
「届いています。ですから、貴方も聞いてください。なぜ、見た目だけでラウラを不届き者だと思ったのですか。」
相手の話を聞いて、それから赦しを与える。いつからか始まったマリアの手法が。神ならぬ身の自分では話を聞かないと何があったか分からないから、知らないのに赦すなんて言っても説得力がないから、そうするのだ。
これが、マリアの在り方。信仰と、マリアにとっての信仰の中心である赦しと。それを何よりも優先している。今私が血を流し倒れていても、一瞥もくれないほどに。
「こんな所で何をやってる?」
いつの間にか開かれた扉の所には島口さんが立っていて、代理の人が焦ったように叫んだ。
「貴方も!〔聖女〕様にその女は相応しくないと思いますよね!?」
その女、と私を指差す。倒れた私の足から流れる血を認めた島口さんは驚きを露わにする。そして、素早くこちらに駆け寄ってくれる。
「大丈夫か。今、止血する。少しだけ我慢してくれ。」
上着を脱いで足の傷口より上で縛り付けると、お姫様抱っこでどこかへ連れて行ってくれる。
その間、マリアは私を見なかった。
「あの、どこへ?」
「医務室だ。外傷ならしっかり手当てしてもらえるから。」
ズキズキとした痛みが、少し引いた気がした。
医務官に私の手当てを任せて、自分は警備を呼んでくると言って、島口さんは部屋を出て行ってしまった。
治療を終えてほどなく、マリアを連れた島口さんが戻って来る。
「ラウラ、代理の人の誤解は解けたわ。」
それだけ告げて、マリアは黙ってしまう。包帯を巻いている足を見て何も思わないの、どうして大丈夫かって言ってくれないの。私が聞きたいのはそんな言葉じゃないのに。
「そっか。」
でもこれも仕方のないこと。だってマリアは信仰を貫く〔聖女〕様で、私はそのおかげで救われた人間だから。マリアが父の死を悲しんで見せることなく、私を赦したから、今の私がある。だから、同じことをされたら嫌なんてただの我が儘。私の感じた溝を埋めることなんて、できるはずがない。なぜか滲む涙を、俯いて隠す。扉近くに立ったままのマリアには見えないだろうけど、傍によって来てくれていた島口さんには気付かれてしまう。
「他に言うことがあるでしょう。」
ここに来る途中、私にかけてくれたのとは違って、マリアには厳しい声を向ける。
「他に?ああ、心配してくれてありがとう。歩きながらおかしいと言ったのは、代理の名乗った人が斬りかかって来るかもしれないと分かったからよね。」
感謝の気持ちも忘れない。マリアが〔聖女〕らしくあるために必要なことだし、マリアはきっと本心から思っている。だけど、今立っているマリアと椅子に座る私の距離が、思いの遠さを表しているような気がしてしまう。私にとってのマリアは家族で、マリアにとっても同じでも、その家族に対する想いが、きっと大きく異なるから。
「ううん。これが、私の役目だから。」
それでも、マリアを守るのが私の役目。最初に、オルランド様に言ったのと変わらない。今回はマリアが狙われたわけじゃなかったけど。マリアの赦しを邪魔してはいけないから、痛くても我慢したの。
声を震わせないように、言葉少なに返す。簡単なことだ。ラウラになる前の私は何も持っていなかったのだから。あの時に比べれば、かなり贅沢な悩み。
「余計なお世話かもしれませんが、」
「良いんです。私は、これで。」
声は震えなかった。けれど、涙は零れた。さりげなく拭って、信仰が全てのマリアを見る。
「マリア、私のことは気にしないで。マリアにはやるべきことがあるんでしょ。〔聖女〕様なんだから、こんな小さいこと、気にしてちゃ駄目だよ。」
「……ええ、そうね。」
皇国に来てから学ぶことが多くなった。それも実践ではなく座学で。離れている時間が長くなった。一緒にいる時も同じことをするわけではなく、それぞれが学んだことの共有が主になっている。
「マリアさん、今日はもう見学はできません。申し訳ありませんが、先にお帰りください。」
「ラウラは、」
「歩ける状態ではありませんので、後から送らせます。」
しっかりと見ていないから、私の破れたズボンや巻かれた包帯に気付かない。先に、という言葉の意味にも気付けない。そんなマリアに返された島口さんの苛立ちが透ける声にも反応せず、微笑みを見せる。
「ではお願いします。ラウラ、またね。」
最後まで怪我の状態を確認することなく、マリアは帰って行った。歩ける状態じゃない、って言っていたのに。いつもこうだったかな、もう少し気にかけてくれていなかったかな。信仰を優先するだけで、大切にはしてくれていたはずだから。
「……傷の具合はどうだ。」
「まだ痛いけど、安静にしていれば問題ないそうです。」
正面に屈んで、また状態を気にしてくれる。そういえば、優しい親や兄弟がいる子は、こうしてもらっているのを見たこともあった。
「そうか。なら、何があったのか、聞かせてくれるか。」
「マリアから聞いてないんですか。」
「それは兵士の仕事だな。俺も後で話をしに行くことになる。ラウラの所にも来るだろうな。」
ほとんど島口さんが見た状況だけで説明としては十分だ。私が斬られて、マリアと自称代理の人が話していた。ただそれだけ。
「……マリアは、信仰が一番なんです。」
「そうだな、狂信的だ。」
狂信、かな。リージョン教の神しか認めない、他人に害を為す人もいることを思えば、マリアは積極的に何かをしない分、周りに迷惑をかけない部類だと思うけど。他の何よりも優先して、誰かが犠牲になっていても赦す部分を見れば、狂信的と言えるかもしれない。
「〔名も無き神〕のようであろうとして、〔聖女〕であろうとして。〔名も無き神〕は全てを愛して、赦して、平等に扱うんです。マリアも、そうしようとするんです。全てを、平等に、赦すんです。」
平等は特別じゃない。誰も、何も。家族でさえも。
「いつもマリアは赦す側で、救う側なんです。なのに、私を救ってくれた人、って嬉しそうにしたんです。私にはそんな風に言ってくれないのに。」
私はマリアの信仰に勝てなかった、特別になれなかった。それは誰が相手でもそうで、そうあるべきだと思っていたから、認められていた。それなのに。
「〔琥珀の君〕は、マリアの特別なんです。私はあくまでマリアに救われた人間で、同じ位置には立てていないけど、〔琥珀の君〕はそこにいるんです。」
私は〔琥珀色の時間〕に行ったことがない。マリアはその時は一人で出かけるから。自分はなれなかったから、他の人もなれないと思っていたその場所に、いつの間にか親しくなったその人がいる。家族にとってすら特別になれなかった私は、きっと誰の特別にもなれない。そう思いついてしまえば、涙が溢れて止まらない。それをうまく伝えられなくて、自分でも何を言いたいのか分からなくなってきてしまっている。結論のない話を、ただしている。
それでも島口さんは聞いてくれていた。
「前はずっと一緒にいたのに。一緒にいるって言ってくれてたのに。」
今、同じことを聞いて、そう答えてくれるのか。
「……ラウラは、寂しかったんだな。」
そう。だけどそれを言える相手なんて他にいない。本人にはもちろん、リージョン教の人にも。だって、マリアは〔聖女〕様だから、私がその活動を妨げてはいけない。頭では分かっていても、心では納得できない。今声を出せば泣き声になってしまいそうで、黙って頷いた。私にとってマリアは、唯一の家族になれるはずだったから。
「今までずっと一緒だったのに、急にいられなくなったら不安になるよな。」
また何も言わずに頷けば、優しく頭を撫でてくれる。
「我慢せずに言ってみたら良い。一緒にいたい、って。役目だって諦めずに。」
「でも、マリアには〔琥珀の君〕がいるから。」
あんな風に笑って、なぜか内緒にする。それはきっと、マリアにとって特別だから。
「〔琥珀の君〕のことを本人に聞いたのか。」
「うん。素敵だって、救ってくれたって。恋よりももっと大切だって。」
私はマリアを救えていない。ありふれて、暗く、淀んだ色。恋よりも大切なんて、言ってもらえない。
「そうか……。」
「ねえ、〔琥珀の君〕がいなくなったら、マリアはもっと私といてくれる?」
マリアの特別だからと諦めないなら、そうすれば良い。そんな思いが伝わったのか、島口さんは黙り込んでしまう。多くの人は殺すことを罪だとしているから。私にとってはそんなの関係ないけど。自称代理の人にとって私が邪魔者だったのなら、私にとっての邪魔者は〔琥珀の君〕だ。
「〔琥珀の君〕と話してみたらどうだ?一緒にいるには、両方が一緒にいたいと思っていないといけないから。」
「でも、マリアが今も私といたいと思ってくれてるかは分かんないよ。」
「今までも一緒にいたんだろ?なら大丈夫だ。」
本当に?本当に、マリアは私を選んでくれる?




