歌は
歌は祈りだ。言葉では表せない思いも、伝えてくれる。
大陸北東部。そこは一応、エスピノ帝国の領土になっているが、実質無法地帯だ。管理する者が派遣されるわけでも、税が課されているわけでもない。同時に何の庇護もありはしない。
そのため非常に治安は悪いけれど、そんな場所でも教会は存在する。否、そんな場所にこそ、救いを必要とする者がいる。
「お父様はいつもこのような場所においでになっているのですか。」
「ええ。救いは恵まれない者にこそ、与えられるべきですから。」
かつては多くの人々が行き交い、賑やかだったのだろう。数多い石造りの建物はそのほとんどが崩れており、その役割を果たしていない。一部で雨風が凌げる程度だ。
道の真ん中を進んでも人影一つなく、これぞ廃墟、といった風景が続いている。
「本当にこのような所に人が住んでいるのですか。」
「もちろんです。人は案外強く、どのような所でも生きていけるものです。」
お父様が目的地に辿り着いたと言わんばかりに立ち止まる。けれど、そこに建物はなくて。
「お父様?」
「ここがヴィネスの教会です。……お久しぶりです、リエト様。」
「お待ちしておりました、イーヴォ様。」
人の背丈ほどの壁の影から現れた男性。今は汚れているけれど、白で統一されていただろう服装から、彼も聖職者であることが伺える。ここには教会に欠かせない者はいる。けれど、物はない。
「ここには何もありません。彫像も、蝋燭も、説教のための机も、何も。」
「救いを与えるのに、それらは必要不可欠ではありません。祈りに何も必要でないのと同じです。」
お父様とリエト様は、以前は教会であったという白い壁で四角く囲われた部分を整え始められた。私も戸惑いつつ、囲いの中の瓦礫を除ける。そして、祈る先として大きめの石を選び、本来であれば神を模した彫像を置く場所に乗せた。
「これで教会の体裁は整いましたね。マリア、行きましょう。これが、救いの一つです。」
そう言ってお父様は教会の奥へと足を進めた。
瓦礫の海が広がっているだけ。何も見つかるはずはない。けれど、数分進めば、比較的形の残った屋根のある場所に着く。それでも壁は幾つも穴が開いていて、柱が残っているだけの箇所もある。
「お父様、ここに何があるのですか。」
「私たちの向かう先にいるのは、救いを必要とする者なのです、マリア。」
そのお父様の視線の先には一人の少女。ぺたりと座り込み、俯いたまま動かない。彼女が見つめている先には、同じ年頃の少年が倒れている。どちらもこれ以上ない程に痩せ細っており、衣服もボロボロだ。
「おいで。私たちは君に危害を加えない。」
お父様の声に、少女は顔を上げる。のっそりと、どこから入手したのか、拳銃を構えた。
次の瞬間、パンッと乾いた音が響き、続いてカランカランと弾が転がっていく。お父様の左胸からは紅い液体が流れ出し、少女は反動で後ろ向きに倒れた。
この少女もまた、赦すべき人間だ。
神よ、私は薄情な人間なのでしょうか。大切なはずの血の繋がった父親を目の前で殺されてなお、少女を赦すべきだという考えが真っ先に浮かぶのですから。
見つめれば、起き上がった少女は私に銃を向けた。少女は引金にかけた指に力を込め、銃弾が私の肩に吸い込まれた。
「マリア様!」
後ろに来ていたリエト様が、少女に向かって走り出そうとするのが感じられる。
「リエト様。」
私はそれを手で制する。そして、碧い瞳の少女に向けてゆっくりと歩き出す。
少女はただこちらに顔を向けているだけで、その表情からは何も伺えない。
「貴女の名前は?」
「……」
話すことのない少女。このような場所では私の常識など通じないのだろう。もしかすると、名前がないのかもしれない。
この少女は罪を犯した。一人の人間を殺し、別の人間には怪我を負わせたのだ。
「私が赦します。貴女は今日から、ラウラです。」
〔ラウラ〕。月の精霊の名だ。闇から生まれた夜に残る光、静謐の時間に漂う希望。言葉を持たず、暗い瞳の彼女の成長を祈って。いつか伝えられると良い。
「ラウラ、私の義妹。共に、生きましょう。」
栗色の髪に、碧の瞳。光を宿さないその瞳が私のすべきことを教えてくれる。
ラウラの瞳に、意思が宿った気がした。
既に息のなかった少年を教会とした場所の裏手に葬り、ラウラとの共同生活を始める。リエト様の手を借りつつではあるが、きちんと育てられるはずだ。
「ラウラ、ご飯にしましょう。」
返事はなくとも、声を掛け続ける。
「今日のご飯は薬草スープよ。」
畑も、豊かな自然もないこんな場所だ。それでも教会の周辺にちらほら生える野草を選び、食事を作ることができる。サラ様に感謝しなければ。
貧しい食事を終えれば、教会を整える作業が続く。
「ラウラ、これを運ぶの、手伝ってくれる?」
言葉を発しはしない。けれど渡せば私の願いを聞き届けてくれる。
陽が沈めば一日の終わりだ。ここには蝋燭すらなく、自然の明かりだけなのだから。
「今日はもうお休みにしましょう。」
地面に薄い布を引いただけの寝台、着ていた法衣の掛布団。そんな物でも、寄り添っていれば温もりは得られる。
毎日、同じ作業の繰り返し。食料を確保して、瓦礫を除けて。体が辛い部分もあるけれど、救いを与えることを忘れてはいけない。
「ラウラ、歌いましょう。」
作業の合間、声をかけ続けた。けれど、声のない相手と話すのは今回が初めてで、次第にかける言葉が見つからなくなっていく。その沈黙を埋めたくて、ラウラに伝えるべき何かがある気がして、歌を思い浮かべる。
「神よ、あなたは全てを愛される。神よ、あなたは全てを赦される。」
これはリージョン教の思想を伝える歌であり、私たちの信じる〔名も無き神〕の性質の一部を表す歌だ。
「されど、人は誰かしか愛せない。されど、人は罪を赦せない。」
見つめていたラウラはあの少年を愛していたのか、今何を感じているのか。そんなもの、神ならざる身の私には分からない。それでも歌えば何かを伝えられる気がして。
「人は何故、罪を犯すのでしょう。足りていても、足りぬと奪うのでしょう。
幾度となく繰り返す問いにも、あなたはお答えにならない。」
危害を加える様子を見せなかったお父様を殺したラウラは、次に武器すら持たない私をも撃った。
彼女なりの理由があったのかもしれない。けれど、それを伝える術を彼女は持たない。
「人は罪を赦さない。されどあなたは赦される。ならば我らは罰しましょう。
人が罪を赦せるように。神ならぬ身の我らが赦せるように。
神ならぬ身の我らが、罪を赦せるように、罰しましょう。」
ラウラはこちらの言葉を分かっているような素振りを見せている。けれどどこまで理解できているかは分からない。それでも歌おう、何かを感じてくれると信じて。
「あなたのように、赦せない我らを、どうかお見守りください。」
相変わらず、表情が読めない。一度礼拝堂へ戻ろうと立ち上がれば、ついて来てはくれる。
「ラウラ、帰りましょう。」
一瞬、頬が緩んだ気がした、自ら手を伸ばしてくれた。きっと、私に心を許してくれたのだ。
「マリア、ありがとう。」
初めての声は、私の名と感謝の言葉。零れそうな涙を堪え、感極まってその名を呼ぶ。強く抱きしめた腕の中にいるのは、間違いなく私の妹だ。
「マリア、悲しいの?」
「いいえ、いいえ。嬉しいのよ。貴女が話してくれて。」
彼女の表情はまた感情を伝えなくなっている。それでも少しずつ、けれど確実に彼女の心は動いていっている。
「ラウラ、貴女はここにいたいかしら。」
「うん。マリアのいる所にいたい。」
彼女の小さな手が、今まで以上に暖かく感じられる。彼女からも家族と思ってもらえていると良いのに。
「ラウラは、私の所にいたいのよね。」
「うん。マリアの所は安全で暖かいから。」
「危ないかもしれないわ。それでも、ついて来てくれる?」
「私が守るよ。」
頼もしいラウラの言葉。今までは話せないのではなく、話さなかったのかと思うほど流暢だ。
教会から歩いて1時間程度。体感のため正確ではないけれど、そこに目的の場所はある。
全体が白い遺跡。私の身長の何倍もある高い壁が一部には残っているけれど、酷く崩れていて、天井もほとんどない。床には瓦礫の隙間から文様が覗いていて、かつては何らかの宗教施設だったと伺える。
ほんの数段の階段を上ると、斜めからではあるけれど、おおよそ文様の全貌が把握できる。複雑な記号の羅列が曲線を描いていて、円を描いているようにも見える。そんな線がいくつも見え隠れしている。
振り返ればさらに上へと続く緩やかな階段。ここは比較的崩れておらず、左右のアーチも形を残している。壁に刻まれた創世の物語が読み取れるほどだ。
数mも進めば、彫像が出迎えてくれる。円柱の空間に一人佇む女神像。手入れされることもなく、祈る者もいない。
「よく、無事だったわね。」
「わざわざ壊す意味もないもの。」
長いローブ、腰で軽く締められた紐、大きく開かれた腕、フードもなく剥き出しの長髪、微かに上げられた口角、薄められた目。慈愛に満ちた女神が、全てを受け止めてくれるかのようだ。
人は神の姿を知らない。けれど、世界を生み出し、手を出すことなく見守られるその姿勢に、いくつもの姿を想像した。
「歌いましょう、ラウラ。」
彼女はまだ多くを知らない。神の愛も赦しも、何も。さっき何かを伝えられたことに味を占めて、また私は歌に頼る。ラウラには説教よりも伝わるみたいだから。
「救いを感謝します。ただ見守るという救いを与えてくださって。
地に這いつくばった夜、何故、あなたは助けてくださらないのかと、恨めしく思いました。
大空に放り出された朝、何故、あなたはお救いくださらないのかと、憎らしく思いました。
私は気付かなかったのです。あなたがいつでも、お見守りくださることを。
私は知らなかったのです。あなたがずっと、愛してくださっていることを。
そんな私すら、愛し、お見守りくださったあなたに、感謝を。」
ラウラはきっと厳しい環境で育っている。救いのないことを恨んだこともきっとあっただろう。それでも、神に見捨てられたわけではない。全てを愛されているからこそ、誰かだけに手を差し伸べられたりしないだけ。
「大地を踏みしめた夜、私を案じ、ひたすらに見つめられる、あなたの視線を感じました。
空を仰ぎ見つめた朝、私を愛し、吹く風で抱き締められる、あなたの温もりを感じました。
私は気付いたのです。あなたがいまでも、お見守りくださっていることを。
私は知ったのです。あなたがこうして、愛し続けてくださっていることを。
そんな私まで、愛し、お見守りくださるあなたに、感謝を。」
ラウラも気付いてくれると良い。愛し、お見守りくださる存在に。私も愛して、貴女を救うから。
「聖女様?」
「救いに来てくださったんだ。」
「聖女様!」
「お話の通りね!」
決意を胸に女神像を見上げていると、その影から可愛らしい4人の子どもが現れた。明るい茶色の目と、ラウラと同じ栗色の髪というありふれた容姿で、傷んだローブを羽織っている。
「ええ、無事で良かったわ、みんな。」
「私たちのこと、知ってたの?」
「いいえ。神ならざる身の私では、全てを知ることなどできないわ。けれど、ここにいるみんなが無事で良かったと思ったの。」
聖女らしく、穏やかに微笑む。果敢に戦う聖女もいたけれど、それは私には似合わない。
「ここを出て行った子もいるの。どうなったかは分かんない。でもいいの。だってあいつらは自分たちが助かるためだけに逃げ出したんだから。」
穏やかに出て行ったわけではないようだ。
「おいで。私たちと一緒にいましょう。」
「いいの?」
「もちろんよ。ラウラも、良いわよね。」
少し前まで彼らと同じ立場だったラウラの了承も得て、リエト様の待つ教会へと帰る。
「お帰りなさい、マリア様。」
「ただいま戻りました。この子たちもここで保護します。」
4人増えていようと彼は驚かない。そんな子たちを救いに来ているからだ。
道中でも話し続けた彼らにさっと自己紹介をしてもらい、他の子たちの話も聞き出したい。
年長の女の子ドライ、彼女によく似た男の子ゼクス、幼い男の子ノインと女の子ツィン。彼らはずっとここで生活しているという。助け合い、身を潜めて命を繋いできたようだ。
「ドライ、前にいた子たちがどうしたのか、詳しく教えてくれる?」
「うん。あのね、大人の人がいっぱい来て、みんなで隠れたの。でもね、あいつらは見つかって、他の子たちの場所を教えたら助けてあげる、って言われて、教えたの。でね、大人の人が私たちのほうを見た時にね、自分たちは走って行っちゃったの。」
大人が大人数で子どもを探していた。保護が目的なら手分けして探すだろうし、他の子の居場所を教えれば助ける、の意味も分からない。
「あなたたちは見つからなかったの?」
「うん。ずっとこっそり移動してたし、言われてからはこっそりささっと移動したから、大丈夫だった。」
この辺りではほとんど人の把握ができていない。住民同士ならいざ知らず、こうして救いに来た私たちではあまり情報も共有してもらえない。ラウラの話では、突然誰かがいなくなることも、死体になっていることも、珍しくないという。その割に死体がないのは、誰かが処理しているからだとか。処理の方法や場所までは教えてもらえなかったけれど、ラウラ自身も処理したことがあるとは言っていた。
子どもの死体は転がっていない。ということは、いなくなっているのは誘拐のせいか。子どもなら簡単に騙せるし、洗脳だってできる。労働力でも何でも、需要はある。
「私か、リエト様といるようにしてくれる?危ないから、ね。」
「「「「はーい!」」」」
4人の子どもたちが見たという人間。逃げることに必死で、容姿などは覚えていないということだけれど、子どもが集まっている所なら、また来るかもしれない。
「マリア、今日の子たちは救えたの?」
「いえ、まだこれからよ、ラウラ。それに、あの子たちを捕まえようとした悪い人も救わないとね。」
「悪い人を救うの?殺しちゃえば良いのに。」
ラウラはそういう世界に生きて来た。躊躇いなく、人に向けて撃てる子なのだから。
「それでは私たちも悪い人ね。救う方法も色々あるのよ。」




