家族は
家族は傍にいない。それが当たり前だった。
代わりに、教会付属の孤児院の子たちがいてくれた。
午前に毎日のお勤めを済ませて、孤児院の子たちと触れ合う。
「マリア様ー!ご本読んでー。」
「はい、今日は何を読みましょうか。」
「『最初の聖女様』!」
「えー、『聖女様の奇跡』がいいなー。」
『聖女様の奇跡』は始終凄惨だ。絵本という都合上、可愛らしい絵柄だけれど、戦いに傷ついた人々を癒して回る少女が描かれている。女の子のエヴァが好きなお話だ。
「そうね、この前はエヴァの好きな本を読んだから、今日はピーノの好きな本にしましょう。」
「やったー!」
「はーい。」
男の子のほう、ピーノが本棚まで駆けて行き、剣を片手に勇ましく立つ女性が表紙の絵本を持って来る。
「はい、読んでー!」
「やっぱり、マリア様と聖女様ってそっくりね!」
エヴァももう『最初の聖女様』を聞く気分になったのか、わくわくした表情で待っている。
「エヴァちゃん、お話の時、あんまり喋らないでよ。」
「分かってるよー。お喋りしながら聞くのも楽しいのに。」
「マリア様のお話が途切れちゃうから!」
「分かったってば。」
言い合う様子は微笑ましいけれど、このままでは始められない。
「じゃあ、良いですか。」
二人は首が折れそうな勢いで頷いた。
「『最初の聖女様』。」
文字通り、最初にこの世に現れた聖女とされる女性の話だ。
最初のページには、森の中にいる黄金の髪と瞳の少女、それから彼女を囲む栗鼠や小鳥、蛙、蝶、鼠など、多くの人が好む生き物も好まない生き物も、たくさん描かれている。
「昔々、美しい女の子が森の中に一人で住んでおりました。
お父さんもお母さんも見たことがなく、他の人に会うことも稀でした。
けれども、女の子は寂しくありませんでした。森の動物たちがいてくれたからです。」
次のページには、少女に木の実を差し出す栗鼠、果実を差し出す鳥、跳んで見せる蛙、飛ぶ蝶、木を削る鼠が描かれている。
「女の子は彼らから多くを教わりました。
栗鼠からは食べられる木の実を、鳥からは果実を。
蛙からは跳び方を、蝶からは飛び方を。
鼠からは物の作り方を。」
一枚捲れば、虎と戦う少女、それを眺める狼や熊、鷲、蛇といった生き物たちが現れる。
「女の子は戦い方も教わりました。
虎からは素早い身のこなしを、
熊からは大きな相手の躱し方を、
鷲からは空中への警戒心を、
蛇からは気配の感じ方を。」
嬉しそうな少女の前では、貰った木の実や果実がたき火で焼かれている。
「女の子はそんな動物たちが大好きでした。
そんな風に、幸せな毎日を送っていました。」
次には、鼠を押さえつけた鷲と、動かない鼠、泣く少女が描かれる。
「そんな時、女の子は見てしまいました。友だちが友だちを食べるところを。
けれど、それは仕方のないことなのです。生きるためには、他の生き物を食べる必要があるのですから。」
森に背を向ける少女。森の動物たちはそんな少女を見送っているけれど、その中に鼠と鷲の姿はない。
「女の子は森にいるのが辛くなりました。だから、同じ人間がいる町に行きました。」
石畳の道の上で、細く白い女の子が尻餅をついていて、大きな男が剣を向けている。
黄金の髪と瞳の少女はそこへ走っている。
「人間は人間を食べません。それなのに、争っていたのです。
黄金の女の子は、目の前の白い女の子を助けました。
けれど、争いはここだけの話ではありませんでした。
黄金の女の子は、困っている人を助けたいと、森の動物たちから教わったことを試していきました。」
剣を片手に少女は、剣や槍を構える兵の前に立ちはだかる。
「黄金の女の子は、争う人々を止めました。そうして、巻き込まれるしかない人々を救ったのです。」
ページには、砂埃舞う土地と緑豊かな大地が、対比的に描かれている。
「黄金の女の子は全ての争いを止めることはできませんでした。
しかし、争いのない場所も生まれました。」
焦土の立つ一つの墓標。
「こうして、黄金の髪と瞳の女の子は、人々を救い、希望を遺したのです。」
「かっこいいな、聖女様って。」
「うん、それにとっても優しい。マリア様みたい。」
キラキラとした目で見てくれる二人。
「私はそのような者ではありませんよ。」
「私、お祈りしてくる!マリア様って聖女様みたいにとっても素敵なのよ、って。ピーノも行こう!」
勢いよく立ち上がるエヴァはピーノの手を掴み、礼拝堂へと駆けて行く。
「まだ行くって言ってないよ!」
文句を言いつつ、ピーノも引きずられるようについて行った。
ソンブラの教会は決して裕福ではない。建物の修理も住民に協力してもらって、自分たちで行うほどだ。
そんな所々にボロの見える礼拝堂で祈りを捧げるピーノとエヴァ。彼らは幼くとも教えを理解していて、神に救いを求めることはしない。ただ、私たちにお話ししてくれるように、祈りを捧げる。
彼らにとっての神とは、どのような存在なのだろう。父や母のような存在か、兄や姉のような存在か。少なくとも、私たちより身近に感じているらしい。こうして、唐突にお話しようとするのだから。
膝をつき、手を組み、静かに目を瞑る二人。彼らの後ろには他にも昼の祈りを捧げている人が数人いる。ここにいない住民も含めて、いったい何人が教えを理解できているのだろう。私たちが法や規則を守るのは神に与えられたからではなく、神は救いを与える存在ではないのだと。
彼らの祈りを見守っていると、頭上からボンッボンッという何かが爆発するような音がした。
「みなさん、外へ出てください!」
祈りを捧げていた大人たちが扉に殺到する。大きな扉の両側を素早く開けば、彼らは難なく通り抜ける。けれど、ピーノとエヴァは気付いていないのか、まだ膝をついている。
駆け寄り、腕を掴んだ時には、既に天井からパラパラと石の破片が落ちてきていた。
「ピーノ、エヴァ、こっちに。」
通常の礼拝では見ることのない彫像の裏側。そこには小さな扉が隠されており、その中の階段を下りれば、ドゴンという大きな音と衝撃が幾つも響く。
「マリア様、大丈夫ですか。」
「ええ、別の出口から出ましょう。」
震えた声のエヴァも、何も言わないピーノも不安でいっぱいになっている。私が、支えてあげなければ。
薄暗い地下を蝋燭の頼りない灯りで進む。両手をピーノとエヴァと繋ぎ、少しでも明るくしようと歌声を響かせて。
「母よ、感謝します。私をこの世に生み出してくれて。
父よ、感謝します。私の歩む道を指し示してくれて。
神よ、感謝します。愛と赦しを私たちに与えてくれて。」
家族の愛を謳う曲。一般的によく知られたもので、誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
「マリア様はその歌が好きなの?」
「ええ、とても優しくて、残酷な歌ね。」
家族のない子にとっては残酷だ。別の箇所では、家族は生まれた理由で、生きる意味で、失えば立っていられない、とまで言っているのだから。
その家族から不要と捨てられ、存在を否定されたことすらある教会の孤児にとって、これは残酷ではないか。私たちが新たな家族だと思わせてあげられれば良いけれど。
「どうして、残酷なのに好きなの?」
「あなたたちと出会えたから。あなたたちを産んだ人がいなければ出会うことはできず、あなたたちがどこかからやって来なければ、やはり遠い所で互いに知ることなく過ごしたでしょう。」
彼らとの出会いは私にとって救いだ。母のことは朧気で、父とも交流は少ない。そんな時、傍に在ってくれたのはこの子たちだ。
私の答えにエヴァは難しそうな顔をしたが、ピーノには何か伝えられたのか、先ほど私が歌ったのと同じ旋律で歌い出す。
「マリア様、感謝します。私を神の家に連れ帰ってくれて。
マリア様、感謝します。私の進む先を思い悩んでくれて。
マリア様、感謝します。家と友を私たちに与えてくれて。」
ピーノは私が初めて拾った子だ。碌な服を着ておらず、痩せ細ったこの子が、村の入り口に座り込んでいたのだ。
捨てられた子の気持ちは分からない。ただ想像するだけだ。だから、詩を替えて歌ったピーノに返す言葉が見つけられず、ただ黙って繋いだ手に力を込めた。
そうして代わる代わる歌いながら歩けば、二人とも泣き出すことなく、非常通路の先へと辿り着く。ソンブラよりも古びた扉だが、まさか同じように崩れることはないはずだ。
「少し待っていてください。」
「「はい。」」
ただ歩くよりも疲れただろう。へばり込んだ二人を置いて、教会内の様子を伺う。
人の声も衣擦れの音もない。隣村でも子どもの足では一人の時より遅くなる。相当な時間が経過していると考えられるため、教会を利用するような時間ではなくなっているのだろう。
「大丈夫、行きましょう。」
眠ってしまったエヴァを背負い、礼拝堂を出るともう星々が瞬く時間で。隣を歩くピーノも非常に眠そうに目を擦っている。
ピーノには頑張ってもらい、すぐ近くの司祭様の家の戸を叩く。ごそごそという音の次に、扉が開かれた。
「……はい、どちら様でしょうか。」
記憶にあるよりもさらに年老いた男性が姿を現した。
「ソンブラのマリアです。お久しぶりです、ステファノ様。」
「大きく、なられましたね、マリア様。」
目を瞠った彼は、隣の男の子と背の女の子を認め、招き入れてくださった。
一つの寝台に二人を寝かせ、蝋燭の小さな灯りで事情を説明する。
「ソンブラでそのようなことが……」
「それに関連してなのですが、しばらくの間、あの子たちを預かっていただけませんか。」
ソンブラの教会では今、あの二人のみを預かっている。彼らの安全さえ確保できれば、随分と動きやすくなる。
「マリア様もこちらに滞在いただければ、向こうに知らせをやりますが。」
「いいえ、ステファノ様。これは私のすべきことなのです。ソンブラの人々を救うことが、ソンブラ教会で仕える私の勤めです。」
このオスクロ村は小さい。教会にも司祭が一人いるだけだ。つまり、知らせを出すということは村人の誰かに伝言を頼むということだ。彼が親切心で言ってくれているというのは分かるのだけれど。
「マリア様もまだ庇護されるべき子どもです。後は私たち大人に任せてくだされば良いのです。」
「ソンブラの礼拝堂も古びています。ですが、突然崩れてしまうほど脆くなっていたわけではありません。それはお話した通りです。」
数年前、ソンブラ村には移住者がやって来た。あの村には似つかわしくない品の良い身なりの男性トマスさんだ。村の中ではかなり良いほうのお家に住んでいて、使用人や私兵を抱えている。
「ですが、貴女が戻る必要はありません。安全なここで私と一緒に待っていましょう。」
「いいえ、私も聖職者です。ですから、原因を調べるのです。私なら探りを入れられます。」
彼らは使用人に至るまで、上質な物を身に着けている。
ソンブラは小さな村だ。互いに支え合い、日々を生きている。盗賊なども村人たちが協力して何とか退けている程度の村。そんな村に力ある呪術師がいるとされ、何度か狙われたこともある。いずれもその呪術師を特定できず、村人にも大きな被害はなく失敗に終わっている。けれど、トマスさんの私兵を用いて襲われればなす術はないだろう。
証拠も何もないけれど、誰もがあの男を怪しんでいる。
「危険です。それならなおさら、マリア様を帰すわけには、」
「いいえ。これは私にしかできないことで、あまり広めたい話でもないのです。」
しばしの沈黙。見つけ続ければ、ステファノ様は諦めたように口を開いた。
「分かりました。娘も友だちが増えたと喜んでくれるでしょう。どうか、お気をつけて。」