叶わぬ願い
〔聖女〕としてのその日の活動を終えた私がただのマリアの服装に替えて向かうのは桐山商会。二人とも目的はどこかに行くことではなくお互いに会うことなのだから、と落ち着いて話せる場所として、彼が提案してくれていた。
「待っていました、マリアさん。」
「お邪魔するわ。」
ラウラは任務で家を離れているため、今日も同行していない。同行していても外で待っているため、一緒に話すことはないけれど。
家に上がると、桐山商会会長の正寿さんとその妻と思しき女性も歓迎してくださった。
「少しお話しに来ただけなの。そんなに畏まらないで。今の私は〔聖女〕ではなくてただのマリアなの。」
「ええ。私たちは邪魔でしょうが、挨拶だけと思いまして。こちら、妻の賀代です。」
「賀代と申します。私も一度、マリアさんとお話ししてみたいと思っているのです。またいずれ、四人で話せる日をお待ちしております。」
丁寧な挨拶に返せば、賀代さんがお茶を淹れてくれただけであっさりと彼らは上がって行き、一階には私たちだけが残された。
「今日もお美しいですね。会いたかったですよ、マリアさん。」
「ええ、私もよ。同じように思っていただけて嬉しいわ。本当はもっとたくさんお話しする機会を作りたいのだけれど。」
「それは俺もですよ。なかなか時間が会わず、ゆっくり出かけられないのが残念です。」
商会を継ぐために、正寿さんに付いて色々と学んでいるそうだ。喫茶店のほうに立つ時間も減っているとか。
「大変ね、慶司さんも。」
「俺のしたいことでもありますから。同じことを続けているだけでは、周りに潰されるだけですよ。」
商売のことも分からないけれど、私の赦しや宗教的な罪の意識とは全く別の次元の思考が必要だという程度なら分かる。
「マリアさんもこれから忙しくなるのでしょう?いかがでしたか、愛良の演奏は。」
「とても心を打たれるものだったわ。あれをまた、大勢の前で歌うのね。」
「緊張しますか、マリアさんでも。」
「どちらかというと楽しみね。」
あの愛良の作ってくれた曲を、多くの人に聞いてもらえる。私と同じ感覚を共有してもらえる。そう思うと心が浮ついてきた。だけど、その後の時間を考えると、少し心は落ちていく。
「慣れていらっしゃいますからね。」
「ええ。夜会には慣れないけれど。」
あれは貴族特有のものだ。私もまだ二回目で、前回はラウラたちが攫われるという事件も起きた。会話を楽しめればそれで良いとの助言は受けていたけれど、それを最後まで実行できたわけではない。途中からは不安だらけだった。
「ああ、前回は色々あったそうですね。」
「そうなの。それに知らない人と踊るのも難しくて。」
お話しならよくしていても、踊ることはまずない。踊っている間は、周囲にどれほど人がいても、二人きりで話しているような感覚にまで陥ってしまう。それも、懺悔などとは全く異なった雰囲気で。
「パートナーにくっついていれば、他の人との誘いは躱しやすくなるとは聞いたことがありますが。」
「交流事業なのよ。たくさんの人と関わりたいわ。」
「必ずしも踊る必要はないでしょう?」
踊らなくとも会話はできる。だけど前回は、アリシアはもちろん、ラウラや愛良まで、とても多くの人と踊っていた。私が一番踊っていなかっただろう。
踊りたくないわけではない。踊りたい相手がいるだけだ。
「そうなのだけれど、踊りたいと思ってくれているなら相手して差し上げたいわ。だけどね、踊っている時の特別な感覚も覚えているから、特別な相手と踊りたいと思ってしまったの。」
「その相手が誰か、聞いても良いですか。」
「もちろん貴方よ、慶司さん。」
前回、私がパートナーとして会場に入ったのは、アリシアさんの専属騎士である秋人と言う子。アリシアさんと愛良、ラウラと友幸さんという組み合わせで会場入りをした。その時、アリシアさんは曲の印象もあって、男装だった。
だけど次はアリシアさんがどういった格好になるか分からない。男装なら前回と同じだけれど、男装しないなら愛良は相手を探すことになるだろう。私やラウラもどうなるか分からない。どちらもサントス邸の人に相手をしてもらっていたのだから。
「それは嬉しいことですが、難しいでしょうね。マリアさんが文化交流事業に出演する人として夜会に出席するとしても、そのパートナーは貴族やその身内で手配されることでしょう。俺はあくまで貴族と知り合っているだけの平民ですから。」
ここでも身分の壁が存在する。どうにかそれを潜り抜ける方法はないだろうか。
「私の相手をする適任がいなければ良いのよね。」
「まあ、そうですが。去年も参加されたのですよね?その時はどうだったのですか。」
その時の組み合わせを伝えると、希望を持てる情報を教えてくれる。
「基本的に、男装や女装では参加されないようですよ。それと、アリシア様と友幸さんもパートナーとして出席されるでしょうから、愛良とラウラも相手に困るでしょう。」
愛良と秋人は最近とても仲が良いという話だから、愛良ではなく私が相手を選べるかもしれない。そうなれば、夜会の相手として、慶司さんと出席したいと言えば叶うのではないだろうか。
「アリシアさんに頼んでみるわ。慶司さんと参加したいの、って。愛良は秋人と仲が良いと言っていたから、聞き入れてくれるのではないかしら。」
「そうだと良いのですが。俺がアリシア様の信頼を勝ち取れているかが問題ですね。」
慶司さんとアリシアさんに面識があるのか分からない。だけど、私の選んだ相手だ。アリシアさんだって悪い人だとは思わない。それとも、自分で確かめなければ安心できないだろうか。
「友幸さんも愛良も、慶司さんが悪い人ではないと言ってくれるわ。」
「学生時代の自分の行いは、自分がよく知っていますから。」
「あら、何か悪いことをしていたの?」
小さな嘘という罪を告白してくれる。鳥や蝶と話せるとか、空の川を泳ぐ人がいるとか。おおよその人が信じないであろう、夢のある話だ。
「素敵なお話ね。アリシアさんもきっと、それを受け入れられない人ではないわ。」
「そうだとしても難しいでしょうね。例外を認めれば出席者が膨大になってしまいますから。俺たちは衣装類で関わらせていただければそれで充分です。」
「私が慶司さんと踊りたいと言っているのだけれど。」
こんな我が儘が言えるのも、ただのマリアとして慶司さんと話しているからだ。
「マリアさんの説得力に期待します。」
「慶司さんも私と踊りたいと思ってくださるのかしら。」
それなら私も一層頑張りたいという気持ちが強まる。あまりアリシアさんに無理を言うのも悪いけれど、この願いが叶えば、私が嬉しいだけではなく、慶司さんまで喜んでくださるのだから。
「踊りなんてものより、今が近い距離でいられるでしょう?」
そう手を握られる。優しく手首をなぞるだけの指が、夜会では感じられない密やかな触れ合いの尊さを教えてくれる。
「そうね。だけど、私はどちらもほしいわ。」
なんて私は欲張りなのだろう。だけどこの罪もまた赦される。人は貪欲で、満たされて幸福を感じても、さらにまた求めてしまう。そんな自分を認め、愛し、幸福になっていくこともまた、神は喜んでくださる。それと同時に、犠牲にされた誰かのために、神は悲しまれる。
「ほとんど接点のない俺にはどうしようもありませんから。マリアさん、良い報告を期待しています。」
「ええ、任せて。アリシアさんにお願いしてみるわ。」
帰宅してから早速書いた手紙でのお願いに、アリシアさんは丁寧に答えてくださった。
――文化交流事業公演の後に控える夜会に、公演出演者は基本的に参加することになっている。しかし、公演出演者の多くは平民であるため、夜会には不慣れだ。各出演者を推薦した貴族がその相手を手配しているのは、夜会に不慣れな出演者を保護・補佐する意味合いがある。
貴女の提示した桐山慶司はどうだろうか。貴女は慶司という人物が信頼に足る人間だと手紙で伝えてくれたが、問題は信頼できるかどうかではない。確かに、貴族とのやり取りには慣れているかもしれないが、夜会への出席経験はないだろう。華やかな場の裏にあるものに気付かせないよう、貴女を楽しませると言う目的が達せられるかどうかは、疑問が残る――
私が楽しんで参加すれば良いと言われていた裏で、アリシアさんたちは政治というものを行っていた。
――こちらで信頼できる相手を用意する。貴女もラウラもその日を楽しみにしていてほしい。――
選ぶのはアリシアさんであり、私ではない。少し不満で、また問いを手紙に書いてしまう。あまり届けさせてもアリシアさんの仕事の手を止めさせることになってしまうけれど、やはり気になることだから。
知らないのだから思惑なんて感じずに楽しめる。踊りたい人と、一緒にいたい人との参加が何よりの楽しみになる。そんな訴えと共に、アリシアさんはもう誰と踊られるのか決めておられるのかとの問いも記す。夜会に慣れた人にしたいという意味で出席を拒まれるのも理解はできるけれど、私自身が一度出席しているのだから、そこまで心配することもないはずだ。
そんな思いを込めた手紙を託せば、冷めてしまったお茶で心を落ち着ける。こんな瞬間にラウラと話したくなるけれど、今日もまだ帰って来ていない。どこでどんな任務をこなしているのかだけでも教えてもらえれば、少しは安心できるけれど、そういった任務は基本内容を明かさないという。これから行うことだけでなく、既に終わった任務でさえ、どういったものがあったのか教えてはくれない。
また心が騒めき始める。怪我をしないように言っても、注意しているとだけ返してくれる。服は綺麗になっているけれど、隠された体に傷を負っていることは知っている。騎士として働く以上、それは避けられないことなのかもしれない。だけど、隠して心配もさせてくれなくなってしまった。
「マリア様、お手紙が届きました。」
「ありがとう。」
もうアリシアさんからの返事が届いた。その場で書いて、オルランド邸の使いにそのまま返事を渡してくれたのだろうか。
前回同様、真っ白な封筒に、柄も何もない便箋が入っている。そこにお手本のような硬い字が書かれていた。
――すまない。私は正体不明の相手と踊らされる不安に気付けなかった。友幸に指摘されて初めて、貴女が先ほどの手紙で納得できなかった理由を知った。
次回の文化交流事業公演後の夜会でも、前回貴女も参加した時と同様の組み合わせで参加することを検討している。詳細は記せないが、友幸と愛良を他人に預けたくはないのだ。
会場までの道のり、会場に入る瞬間。その時は秋人を付けよう。会場では貴女の行動に合わさせる。初回公演の夜会の報告を私も聞いたため、貴女を一人にすることにも不安はない。邪魔になりそうならその場を離れさせよう。
もう一つ、夜会での思惑に関してだが、貴女の気にすることではない。ただ、その理由も気になるようであるため、説明させていただこう。この公演は経済的な意味も持たされている。そこへ商会長の子、次代を担う者が出席すれば、あなた方には何の思惑もなくとも、周囲は邪推するだろう。この事業が拡大した時の利を狙っているというだけではない。リージョン教会の〔聖女〕による選択である意味と、サントス王女が認め、懇意にすることの意味を、彼らは考えることだろう。――
煌びやかで楽しい夜会も、見る人によっては楽しいだけの場ではない。様々なことを考えた上で、言ってくれていた。私の思い付きの願いで、アリシアさんに余計な時間を使わせてしまった。
踊りたいだけなら、夜会でなくとも構わない。一緒にいたいだけなら、会いに行けば良い。わざわざアリシアさんの手を煩わせることではなかったことに、ようやく気付けた。