救われた心
大通りに面したその喫茶店はもう閉まっている。だけど、私が訪ねるのはその隣、桐山商会だ。
暗い中、ラウラを一人馬車の近くに置いて、路地から商会としての玄関とは異なる小さな扉を叩く。
「はい、どちら様ですか。」
「マリアよ。ごめんなさい。」
開かれたそこでは、戸惑いを浮かべた慶司さんが出迎えてくれた。
「ごめんなさい、約束もなしに、こんな時間に。」
もうすっかり陽は沈んでいる。人の家を訪ねる時間ではない。それも、突然押しかけるなんて、迷惑になるだろう。
「いいえ。どうぞ、上がってください。」
家の中は外以上に暗い。しんと静まり返り、潜めた声がやけに大きく聞こえる。小さな明かりだけが灯された。
「ごめんなさい。来るべきではないとは思ったのだけれど。」
「そうですね。こんな時間に異性の家を訪ねるなんて、危ないですよ。」
冗談めかして言うけれど、対面の硬い木の椅子に座り、自分から触れることはしない。手を伸ばしても、握り返してくれるだけで、それ以上のことは何もない。
「貴方は薬殺刑を知っているかしら。」
「ええ。毒を飲ませるのでしょう?」
「友幸さんとアリシアさんを傷つけるよう指示した水津静香さんが今日、その刑罰で亡くなったわ。」
その指示を出したと本人も認めた。あの死は本当になければ赦せないものだったのだろうか。人は赦すために罰を欲する。大切な人が受けた仕打ちと同じ目に遭わせてやりたいと思ってしまう。だけど静香さんは誰も死なせていない。
「親しかったのですか、彼女と。」
「いいえ。特別親しかったわけではないわ。だけど、傷の対価に命を求めるなんて、と思ってしまって。」
〔聖女〕は全てを赦す。全ての結果を受け入れる。だけど、ただのマリアは今回の結果に疑問を抱いている。この疑問はリージョン教の人々とは共有できない。私が全てを赦す〔赦しの聖女〕であるべきだから。オルランド様とも、悲しい出来事として受け入れるだけに終わってしまう。
「貴族の方々の考えることは、よく分からないことも多いですから。ですが、彼らにとっては彼女の死が、何か意味を持っていたのでしょう。」
人はその悲しみを乗り越えるため、その死に意味を求める。
「ええ。国同士の対立を深めないため、らしいわ。聞いてくれてありがとう。もっと話したい気持ちはあるのだけれど、今日は遅いからこの辺りでお暇するわ。」
「遅いから泊まっていくという選択肢もありますよ。」
それは断り、立ち上がるとそっと抱き締められた。
「お優しい人ですね、マリアさんは。よく知らない人が死んでも、何も感じない人だって多いですよ。金に汚い商人なんか、その死を金銭に換算しますから。」
「もう、私は真剣だったのよ?」
足りないと感じていた心が埋められていく。こうして人は、苦しみを乗り越えていくのだろう。
身を離し、玄関を出ると、人が倒れていた。何人も、何人も倒れている。そのうちの一人から、ラウラが剣を引き抜いた。
「ラウ、ラ?何をしているの?」
「早かったね。もう少しゆっくりしてて欲しかったんだけど。」
剣を布で拭き、鞘に戻した。倒れた人がゆっくりと起き上がり、別の倒れた人を引きずって行く。
「ねえ、ラウラ。」
「ごめんね。マリアには気付かれないようにしたかったんだけど。」
気付かれないように。つまり、こうして人を傷つける罪を犯すことには、何の弁解もしていない。
「この人たちは、どうしたのかしら。」
「マリアを狙う人は多いってことだね。大丈夫。マリアのことも、〔琥珀の君〕のことも、私が守るよ。」
また、私はラウラに罪を犯させた。ラウラが最後に剣を引き抜いた人は、それからピクリとも動いていない。
「ごめんなさい、ラウラ。」
「謝らないでよ。やりたくてやってるんだから。」
傷つけ、殺すことを好む子ではないはずだ。私に罪の意識を抱かせないために、こう言ってくれているのだろう。
「そう。ラウラ、全ての罪は赦されるわ。私は貴女を愛しているわ。だけどやっぱり、こんなことをさせたいとも思えない。」
「ありがとう。ゆっくり話すのは帰ってからにしよう。〔琥珀の君〕、この辺は他の騎士が片付けるから気にしなくて良いよ。」
「じゃあ任せるけど。気にしないのは難しそうかな。」
今は暗いからよく見えないけれど、明日の朝になれば、流れた血の跡も見えてしまうだろう。
「マリアさん、また二人でも、三人でも出かけましょう。」
「ええ。楽しみにしているわ。」
転がる人の体から目を逸らして、馬車へと戻る。他の騎士たちが対処をしてくれるなら、私はこの場にいないほうが良いのだろう。また何者かが狙ってきたのなら、同じようにラウラは相手を傷つける。罪を重ねさせてしまう。
言葉少なに馬車は走らされる。
ラウラは先ほど、慣れた様子で人から剣を引き抜いていた。付いているはずの血を、常に携帯している布で拭き取り、人を刺した剣を簡単に自分の腰に戻した。その後のことも簡単に片付けると言って、倒れた人のことを気に掛ける様子も見せなかった。
いつもしていることなのだろうか、何度もああやって私を守っていたのだろうか。気付かないうちに、罪を重ねさせていたのだろうか。彼らの傷が、死が、私を守るために必要不可欠だったとラウラは言うのだろうか。
考えても、答えは出ない。
オルランド邸の皆も、多くは寝静まっている。一部、私の帰還を待ってくれていた使用人たちだけが、起きてくれていた。
「お帰りなさいませ、マリア様。すぐ湯を用意いたします。ホットココアとミルクと、どちらにいたしますか。」
「ミルクをお願い。ラウラはどちらが良いの?」
「一緒で良いよ。」
私たちのために用意に向かってくれる。ラウラも部屋まで一緒に向かい、真剣な顔で話を始めた。
「マリアはさ、たくさんの人を救ってるんだよ。死ねば終わり。何を言っても、残しても、それは自分じゃない。だけど、私はマリアを守れるなら満足。今回の人は死んじゃったけど、マリアが赦したから改心した人も、命が救われた人もいるんだよ。私もそんなマリアに救われたし、マリアが説教をしたから喧嘩が収まったことだってあるじゃない。」
街中で起きる喧嘩の多くは、冷静な話し合いで解決できる。今回のことだって、少し規模が大きくなっただけで、本質は変わらないはず。
水津静香さんが光輝皇子を愛し、光輝皇子は静香さんを愛さず、夜会でラウラに声をかけた。静香さんは嫉妬からラウラを排除しようとしたけれど失敗し、それでは皇子が振り向かないことにも気付いた。そして今度はその力になろうと、国のためにできることをと考え、行動を起こした。その内容が、アリシアさんと友幸さんに危害を加えることだっただけ。この行動に対し光輝皇子が批判をすれば、同じ手段は選ばなかっただろう。
静香さんがそんな過ちを犯すまで気付けなかったのは、光輝皇子との間にも、誰か身近な人との間にも、冷静な話し合いの時間を持たなかったから。賛同する者との会話だけでは、新たな思考を得られない。
「私は静香さんの話をもっと早くに聞いてあげたかったわ。行動に移してしまう前に。」
もう言っても遅いことだ。ラウラが今日まで殺してきたことも、今言うことではない。だけど、これから新たに罪を犯させないために話せることはある。
「そうだね。事前に分かっていれば防げることなんていくらでもあるよ。」
「ラウラ、私は貴女にも言いたいことがあるの。次に同じようなことがあった時はきちんと相手の話も聞いてあげましょう。その場で斬り捨てずに、捕えて、話を聞いて、人が赦すために欲する最低限の罰だけにしましょう。」
私への襲撃者が、私に接触する前に斬られていた。
「分かった、そうするね。やられる前にやっちゃえば安全かなって思っちゃって。別に赦せないから斬ってたってわけじゃないんだけど。」
「ええ、ラウラはそんな子じゃないものね。少し焦ってしまいやすいだけだわ。」
私の言葉が足りずに不安にさせたこともあった。だけど、その焦りがいくつもの罪を犯させてしまう。少しずつ落ち着きを見せているけれど、性格はそう簡単に変わらない。
「自分で勝手に行動して怒られたことも多かったなあ。今はそれも上手く使われてるみたいだけど。」
温かいミルクで、心を落ち着ける。すると、新たな疑問が沸き上がる。
「どうしてあの人たちは私を狙うのかしら。」
「〔聖女〕だからだよ。何かそういう集まりがあるの。何の代償もなく赦されるなら、罪を犯しても良いじゃないかって考える人が増えるんじゃないか、って心配して、犯罪者ばかりの世界にならないように〔赦しの聖女〕を倒しましょう、っていう集まりが。」
人は罰せられるから罪を犯さないわけではない。その先に死が待っていると知っていても、何かのためにその罪を犯す者もいる。誰に罰せられるわけでもないのに、その罪を抱え続ける者もいる。
罪の意識が人に与えるものは、苦しみだけだ。一度自分の行いを振り返り、次からの行動を決めたのなら、その罪で自分を責め続ける必要はない。
「そうやって私を狙うこともまた罪よ。人の作った法によって罰せられることは彼らも分かっているでしょう。それでもなお私を狙うのは、罰を与えることで犯罪者を減らそうという彼らの思考と矛盾してはいないかしら。」
人は矛盾する生き物だ。私にだって矛盾する部分はきっとある。それでも神はその矛盾を愛されている。
「それに気付かないから、敵いもしないのに諦めず襲撃し続けてるんでしょ。」
やはりラウラはこれまでずっと、同じような手法で守ってくれていた。次からの行動を改めることは約束してくれているため、これ以上言う必要はない。
これも会話によって知り得た事実だ。
「ありがとう、ラウラ。貴女がいなかったら私は今、生きていないわ。」
「それは私もだよ。あ、私は生まれてないって意味ね。マリアに会う前はラウラじゃなかった。」
言葉を発しない彼女に名をつけた。その時に生まれたと思ってくれている。そうすると私は母、ラウラの名付け親だ。そう思うと不思議な気分になる。
「産んではいないけれど、母なのね。」
「そういうこと。姉だと思ってるけどね。」
ラウラに守られてばかりだけれど、せめていざという時、相談に乗れる姉でいたい。ラウラが胸を張って、私の姉だと言えるような人間であろう。
「お湯の用意が整いました。」
「ありがとう。ラウラ、お休みなさい。」
「うん、お休み。」
侍女の手を借りて、一日の疲れを洗い流していった。