救えない命
水津千恵子さんとの交流から数週間。もう、水津静香への処罰が下された。
「悲しいことですね。」
「ええ、とても。」
その手紙をオルランド様と受け取り、国や光輝殿下を想ったのだという一途な彼女を見送る場にやって来た。彼女はその身を白装束で包み、白い布の上に静かに座っている。
「命の対価に命を求める。これも悲しい出来事です。ですが今回は、誰の命も失われていませんでした。」
オルランド様の言うように、その場では流れ弾で傷ついた人もいるけれど、死人は出ていないと聞いている。それでも貴族の方々は罪を赦すために、彼女の命を求めた。
「これが、皇国貴族の方々の決定です。」
この事件における唯一の犠牲者が、貴族たちの決定によって出されることとなった。皇国で起きた事件は皇国が裁く。政治に絡む事件は、貴族や皇族の意向が強く影響する。アリシアさんが強く求めず、責め立てずとも、厳しい処罰が下された。
「アリシア殿下は、第二子である静香さんの独断による罪を、家全体に波及させることは望まないと述べたそうです。ですが、嫉妬によって愛良を傷つけ、目的は違えど再び強硬手段に出た彼女を赦すこともない、と。」
誰かを赦せない罪もまた、赦される。しかし、それによってまた一つ命を奪ったという意識は彼女の中に残るだろう。
「全ての罪は赦されます。嫉妬する罪も、それを理由に人を傷つけた罪も、憂いによる誤解で人を傷つけた罪も、大切な人を傷つけた者を赦せない罪も、犠牲のなかった事件で対価として命を求める罪も。全て赦されるものです。」
「ええ。全て、愛する人の為したことですから。ですが、このように傷つけ合うことを、神は悲しまれることでしょう。」
差し出された毒を飲み、目を瞑った彼女。効くまでには時間がある。その間だけが、私と彼女に許された時間だ。
座ったまま微動だにしない彼女の前に立つ。目は瞑っていても、声は聞こえるはずだ。
「神は全ての人を愛されます。全ての罪を赦されます。貴女の犯したどんな罪も、赦されています。神は全てをご存じです。ですが、人は違います。人は誤解もすれば、知らないことも多いです。人は赦すために罰を求めます。」
死に逝く人間に、貴女を人が赦すために求めた罰が死なのだと告げたところで、何の慰めにもならないだろう。しかし、その生の最期に向けられる感情が憎悪でないことが、少しでも救いにはならないだろうか。
「私は貴女を赦しましょう、貴女を愛しましょう。一途にたった一人を想い、ただ国を愛した貴女を。」
彼女も憎悪で動いたわけではない。最初にあった感情はただ愛だけだった。それがどこかで変わってしまった。
一度は閉じられた目が開かれる。毒を受け入れた彼女が、最期の対話に私を選んでくれた。
「〔聖女〕様。私の死は、何かを遺せますか。あの人の心に、遺せますか。」
皇帝はこの場におられるけれど、光輝皇子はおられない。皇帝がアリシアさんと一緒に彼女が罰せられるところを見ることで、事件の解決が宣言されるという。他国の王女の抱える無力な人間を害するということは王女自身に悪意を向けたも同然。そのような理由で、皇子ではなく皇帝が共にこの罰を見守っておられる。
私の心に傷と、救えなかった罪が残る。けれど、光輝皇子がどう感じられるかなど私には分からない。それでも、人に共通して言えることを、私は伝える。
「生と死の瞬間は人の心に強く印象付けられるものです。死に逝くその瞬間まで自分のことを想っていたと伝えれば、きっと忘れることはできないでしょう。」
「伝えて、いただけますか。」
「約束しましょう。」
再び目を瞑った彼女の呼吸は、浅く、小さくなっていく。
「愛に生きた貴女を、私は赦します。神の赦しが、貴女に伝わることを祈ります。その愛が罪を犯させたとしても、愛したことは罪ではありません。偽りでもなかったと、私がその想いを伝えましょう。」
彼女の体が力を失った。倒れた彼女がまだ温かくとも、もうそこに命はない。
「陛下、光輝皇子に会わせていただけますか。」
すぐに対応してくださり、さほど日を置くことなく、場を用意してくださった。
「伝えたいことがあるとか。どのような内容でしょう。」
もう陽も傾き始めた時間のため、簡単に挨拶を済ませると、世間話をすることなく、本題に入られる。お忙しい方だ。この時間の後もまだ仕事をされるのだろう。私も手早く用事を済ませよう。
「貴方たちから与えられた水津静香さんへの処罰が終わりました。」
「ええ、知っています。」
罰した側だ。知っていることは分かっている。そこに何の感慨もないように聞こえても、私が口を出すべきではない。ただ、最期に託された彼女の想いを伝える。
「彼女は貴方を心から愛していました。死の瞬間にも貴方を思い浮かべ、その心に何かを残したいと思うほどに。」
「そうですか。」
感情のない声。悲しみを抑えているのか、何も感じていないだけなのか。愛しても、その想いが返ってくるとは限らず、同じ想いを返さないこともまた罪ではない。人の感情など、ままならないものなのだから。
「貴方への愛が罪を犯させたとしても、愛することは罪ではありません。また、犯した罪も赦されるべきものです。」
「何が言いたいのでしょう。」
国同士の関係については千枝子さんからも聞かされた。詳しくない私にはあれを受け入れがたい。だけど、リージョン教の〔聖女〕として、国を率いる者がその立場において下した決定に対し、意見することは好ましくない。それでもなお、伝えたい言葉があった。
「人について知ることは、神の愛する世界を知ること。」
「何ですか、それは。」
神は人を愛する。人の生きる世界を愛する。誰かを憎むということ、嫌うということは、神の愛する誰かを憎み、嫌うということ。愛する人同士が対立する苦しみを、私はもう知っている。あの苦しみを、神は今、味わわれている。
「貴方は水津静香という人物を知ろうとしましたか。」
「あれは必要不可欠な犠牲です。その人柄がどうであれ、どのような意図であれ、これ以上大きな問題としないために、その命で収めてもらう必要がありました。」
彼らは同じ罪を犯し続けるだろう。大きな対立を防ぐため、誰かの犠牲を必要とする。それでも、神は罪を赦し続ける。
「犠牲を出すことは命を奪うことです。命を奪うことは罪。そのために誰かが救われていても、水津静香という人間の命を奪ったことに変わりはありません。ですが、その罪もまた赦されます。」
「そうですか。本題は何でしょうか。」
もう終わっている。伝えられた最期と愛を、どう処理するかは彼に委ねられた。たとえ私が部屋を出た瞬間に忘れても、それは罪にならない。
「水津静香は貴方を最期まで愛した、と。ただ伝えることを託されましたから。」
「どうしろとおっしゃるつもりですか。」
「何も。せめて最期は穏やかにと思い、伝えると約束しましたから。約束を破ることは罪です。ただ愛のために罪を犯したのだと、貴方に伝えてほしかったのでしょう。」
国のためと言ったことも嘘ではないだろう。けれど、最期に願ったのが光輝皇子のことなら、皇子を想っているから国を想っての行動も取ったのかもしれない。
「〔赦しの聖女〕様は、死刑をお好みではありませんか。」
「好みはしません。ですが、赦すために人がそれを求めることもまた、赦される罪です。」
罪があるから赦される。好まないものを全て赦さないと糾弾することこそが、対立を生じさせてしまう。その対立もまた、赦されるものではあるけれど。
「お優しい〔聖女〕様。人は罪だと糾弾されると、責められているように感じるものですよ。」
「人は全て罪を犯すものです。」
私自身、数えきれないほど罪を犯している。
「そうですね。特に立場ある人間は、より大きな犠牲を出さないよう、罪と知ってなお犯す必要もあるのです。お帰りいただけますか。」
「ええ、伝えたいことは伝えました。貴方の罪もまた、赦されています。今日はお時間ありがとうございました。」
少々重い気持ちを抱えたまま、オルランド邸へ帰る。そうしてようやく、ずっと一緒にいたラウラとも会話ができた。ラウラも水津静香という人間の死を目の当たりにして、思うところがあったのだろうか。部屋に向かう途中で口を開いた。
「死んだ後に気持ちが伝わっても意味なのにね。」
「静香さんにとっては意味があったのよ。」
もう言葉を交わすことはできず、記憶は風化していく。それでも、印象的な出来事はその心に長く残る。その印象的な出来事に、自分がなりたかったのだろう。
「生きてなきゃ意味ないよ。何を言っていても、何を残しても、それは自分じゃない。」
「あら。でもラウラも自分の身を危険に晒して、私や愛良を守ったわ。」
ヴィネスでも、バルデスでも。ラウラは自分が死ぬ危険を冒して、他人を守った。
「それは、私が守りたかったから。私はマリアにも愛良にも怪我なく生きていてほしいの。」
「ありがとう。」
私の部屋で、ゆっくりとお茶をする。その温かさとラウラの温もりが、今日の出来事を受け入れさせてくれる気がして、私はラウラに手を伸ばす。
「マリア?どうしたの。」
「少し触れたくなったの。」
手を繋いだ。私とそう変わらない大きさの、だけどとてもしっかりした手が、いつも私を守ってくれている。抱き締めた体も私とそう変わらない大きさなのに、鍛え上げられていて逞しい。
「大丈夫だよ。マリアに怪我なんてさせない。危ない目になんて遭わせない。これは私が聖騎士だからじゃなくて、姉であるマリアを守りたいと思ってるからなんだよ。」
背中に回してくれる腕も力強くて、もう私が守り、育てなければならない幼子はいない。ラウラもきっと成長してくれた。こんな風に私を抱き締めてくれることに喜び、安堵したいのに、どこか足りない気持ちが残ってしまう。
「そうね、ありがとう。」
以前はラウラがいれば、何も足りない気持ちにはならなかった。神に祈り、父と共に過ごした時にさえ感じていた足りない気持ちをなくしてくれた。それなのに今また、ラウラがいても何かが足りないと感じるようになってしまった。
父といた頃には認められなかった、一緒にいたいという感情を今、強く意識してしまった。そう言って、ラウラを置いて行くことが彼女を苦しめるだろうと分かっていたのに、口に出してしまった。
「ねえ、ラウラ。少し一人で出かけたいの。」
「送ってくよ。話してる間、私は外で待ってるから。」
そこに悲しみが宿っている気がして、罪の意識が深まっていく。少ない言葉で、私の求める人を察したラウラが、自分を求めてもらえないことをどう思っているかなんて知っているのに。
行き先も告げないまま、ラウラの操る馬車でそこへと向かった。