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シキ  作者: 現野翔子
銀朱の章
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杉浦友幸視点:追想

 また、夢の中の意識が俺を過去に引きずり戻す。最初は、初めて秋人以外から公演後の予約が入った時のことだ。




「初めまして。会ってもらえて嬉しいよ。」


 誰に会うかは事前に知らされている。島口伯爵家の芳樹よしきとその次男である弘樹だ。


「杉浦友幸です。こちらこそ、お会い頂き光栄です、芳樹様、弘樹様。」


 弘樹は俺より一つ下のはずなのに、その目には理知的な光が宿り、随分落ち着いた様子だった。俺は緊張で余計なことをしないようにと意識するだけで精一杯だったのに。

 何もできない俺を気遣ったのか、芳樹様は席を勧めてご自分たちも腰かけられると、にこやかに話しかけてくださった。


「君は今幾つなんだい?」

「前の五月で十四歳になりました。」

「皇都に来てからはどれくらい経つのかな。」

「四年になります。」


 嘘を言わないように、余計なことも言わないように、はっきりと。他にも色々聞かれたけど、極力すぐに、誤魔化さずに答えるよう意識した。この時はどういったものが求められているかなんて、知らなかったから。それを教えてくださったのも彼らだ。


「君ももっと肩の力を抜くと良い。」


 相手は貴族で、秋人でもないのだから礼儀作法には気を付けなければ、という意識でいっぱいだった。


「え、ですが、」

「会話を楽しむんだよ、互いに。警戒している相手とは軽快な会話ができない。ああ、私は邪魔かな。」


 芳樹様は報酬を置いて、何かを弘樹様に伝えると、その場を立ち去った。

 そうして、その面会室には弘樹様と二人残された。だけど、何を話せば良いか分からず、話す時は人の目を見てという基本を守りつつ、話題を探した。自分では結局見つけられず、弘樹様が目を合わせたまま、話し始めてくれる。


「友幸は初めて貴族の相手をするんだよな。」

「はい。」


 きちんと貴族の相手をするのは初めてだった。秋人と親しいことは隠すようにしていたから、肯定を返した。会ったこと自体を隠す必要はなかったけど、上手く調整するような器用さは持ち合わせていなかった。


「貴族向けの礼儀作法、とかも?」


 あえて強調するように言われ、不安になった。恐る恐る頷くが、弘樹様は怒っていらっしゃらなかった。


「あの、何か失礼なことを……?」

「そうだな。まず、相手を凝視してはいけない、名乗られるまで名前を呼んではいけない、とかかな。」


 もう既にしてしまっていた。まだ何も教わっていなかったから。教えてくれる人だって、周りにはいなかった。


「も、申し訳ありません……。」

「構わない。父も分かっていて、俺だけを残したんだよ。だから、俺に対しては気にしなくて良い。」


 少しの安堵。だけど、緊張を解くことはまだできなかった。何をしてはいけないか見当もつかなかったから。


「だけど、他の貴族に対してどうすべきかは知っておくべきだ。相手によっては何らかの罰が与えられる可能性もあるから。」


 この時は本当にあるか分からず、怯えただけだった。だけどそれが事実であることは、この身をもって知ることとなる。時には理由なく罰せられることもあると、今では知っている。


「気付いたら教えるよ。これからよろしく、友幸。」

「はい。弘樹さ、あ、えっと、お名前を呼んでもよろしいでしょうか。」


 正解と言うように微笑まれ、俺はこれからこの子に礼儀作法を教えてもらえるのだと、少しだけ安心できた。


「もちろん。弘樹と呼んでくれ。」

「はい、弘樹。」


 しかし、次に浮かべられたのは苦笑。また何か間違えてしまったのだろうかと不安になっていた。


「自分から敬称をつけてほしいなんて言う人はいないから、言われなくても様付けするんだよ。」

「はい、弘樹様。」


 名前で呼んでほしいと言われた場合も、様付けになる。それならそう言えと言いたい気分だったけど、本当に言葉に出せば何が待っているか分からなかった。この身を危険に晒すことなく礼儀作法を学べることはありがたかった。秋人は学園の知識を教えてくれることはあっても、礼儀作法に関しては何一つ教えてくれなかったから。




 次は、貴族の邸宅に呼ばれた時のことだ。その時には既に、貴族の特に異性とは触れないよう教えられていたため、うっかり触れてしまうことのないよう距離を取っていた。


「あら、そんなに恥ずかしがらないで。暖かくなることをしましょう。」


 しかし、その女性は距離を詰めて、手首を掴んできた。入口からは少女も入ってきて、逃げ場が塞がれていた。

 貴族の意には逆らわないのが基本で、怪我をさせてはいけない。否定的な言葉を発しないのが安全。それはもう習っていた。だから何かあるかもしれないと思いつつ、動けずにいた。しかし、女性が反対の手に鞭を持ったことを確認して、体が動いた。

 手を振りほどこうと試みる。しかし、未熟な少年の体では女性に敵わなかった。蹴れば確実に逃げられると分かっていた。だけど逃げることを、怪我をさせないことより優先させても良いかの判断がつかなかった。

 迷っている間にも女性と少女の手は進められる。鞭が振るわれ、爪を立てられ。続けられる意に反する行いに、怪我をさせてもやむを得ないと女性の腹部を殴りつけ、少女を蹴る。二人が怯んだ隙に部屋を出るが、追いかけて来ようとする女性の姿が視界の端に映った。だから、服も乱れたまま、靴も放置して、敷地から飛び出した。


 降りしきる雨の中、必死で駆けた。雨音でどこまで追いつかれているか分からず、すぐ傍まで迫っている気さえした。前にも誰かが立ちはだかる気がした。

 早く、早く。気だけが急いて、体は進んでいかない。足が縺れて、上手く走れない。激しい雨のせいで、呼吸も苦しい。雨音が化け物の声に聞こえて、自分の足音も掻き消されて、どこへ向かっているのか分からないまま、走り続けた。

 どこかに逃げなければ。そんな意識だけで、目についた屋敷の門番に尋ねた。


「すみません、ここ、は……」


 何を聞くべきか分からなかった。信用できる貴族は秋人と弘樹だけで、その二人もその日、その屋敷に居るかどうか知らなかった。その上、その場所が誰の屋敷か分かっても、有栖家の屋敷も島口家の屋敷も分からない。

 だから俺は問いを最後まで発することはできず、門番の不審を買ってしまった。


「何者だ。」

「えと、あの、島口伯爵家の屋敷は……?」

「名を答えろ。」


 ひとまずと会っていても他の役者から特別反感を買っていない弘樹の家のほうを尋ねたが、門番は腰の剣に手をかけた。これ以上、何かすれば斬られそうで、かといって逃げても怪しまれそうで。

 何を思ったかこの時の俺は、簡単に分かる嘘を吐いた。


「杉浦友幸です。お呼びいただき参りました。」

「来客の予定は聞いていない。出直すことだ。」


 その返答で、そこが島口伯爵家の屋敷だと分かった。だけど受け入れてもらえず、何度も振り返る先に雨しか見えないにも関わらず、何かが迫っている気がした。

 ただその何かから逃れたくて、弘樹様なら助けてくれる気がして、その門番に縋った。


「弘樹様に繋いでください。お願いします!」


 背後には何もない。あの女性も少女も追ってきていない。だけど追いついてくるか、そればかりを気にしていた。

 何度も振り返り、何度も懇願し。座り込んで、ふと雨粒が落ちてこないことに気付く。


「まず部屋で暖まろう。」


 ふらつく俺を支えて、屋敷の中に招き入れてくれる。部屋に案内してくれて、乾いた服まで用意してくれた。侍女に手当てをするよう指示も出してくれたけど、それは受け入れられなかった。その女性の手が、恐ろしかった。

 頭に布を被せられ、目を塞がれる。


「大丈夫だ。今、侍従に手当てをさせてるから。」


 傷口に痛みは走ったけど、始終かけられる声に、落ち着きを取り戻す。布が外された時には、机にホットミルクが置かれていた。

 一口含んでようやく、体に温度が戻った気がした。


「何があったんだ。」

「あ、の。いきなり、すみません。」


 言葉遣いに意識を割く余裕はなかった。普段なら礼儀作法について指導してくれるけど、この時は何の追及もなかった。


「構わない。だから、説明してくれ。」

「怪我させないのって、どんな場合も、優先、ですか。相手が鞭持ってたり、爪立ててきたり、しても?」


 説明になっていないことも分からず、先に自分の質問をした。確認しなければならないと思っていたから。自分では落ち着いたつもりでも、まだ正常には戻れていなかったのだろう。


「まず、相手が誰か教えてくれ。」


 仕事相手のことは話さないのが基本だ。誰と親しいなどという印象を抱かれることも危険で、何かの問題に巻き込まれる可能性だってあるから。だけど、それを忘れてしまうくらいこの時は追い詰められていて、それと同時に、弘樹様のことは信じられていた。

 呼ばれた相手を告げると、微笑んで安心させてくれる。


「その程度の家格なら、今回は問題にされない。けど、その状況にならないようにすべきなんだ。今回のようなことをされたくないなら、相手の屋敷には行くな。」


 今までになくはっきりと禁止され、それ以降、俺はその言いつけを守り続けた。エリス・スコットと名乗る人に騙されるまでは。




 時間が大きく飛んだ。これは初めて愛良を見た時のことだ。


 木箱の影に座り込んだ小さな女の子。普段ならそんなもの見る余裕などなく、見ても気にせず通り過ぎるのに、その時だけは声をかけてしまった。

 不安に染まった顔が俺を見上げた。見たことないはずなのに、知っている気がした。なぜか、モニカのことを思い出した。


「あのね、慶司に会いたいの。」


 モニカはまだ赤ん坊で、言葉は話せなかった。話すようになったとして、大陸の言語のはずだ。諸島部で用いられている言語ではない。声だって、泣き声しか知らない。それなのに、育っていればこんな見た目になったのだろうかと思ってしまった。自分が連れて来られていれば、モニカもこんな風に育ったのだろうかと、思い至った。

 目の前のこの子には関係ないと、表情も態度を取り繕って、親切なお兄さんを演じた。生きているかさえ分からない、一度見ただけの妹の代わりになんて、できるはずもないのに。


「私ね、愛良っていうの。愛される良き人生を、って意味で、愛良なの。」


 こんな風に愛されて、自由に一人で外を歩けるこの子が、モニカのわけがない。だけどこの日から俺は、忘れかけていた、忘れようとしていたバルデスのことを意識させられた。


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