進歩
血の海、燃える家屋、終わりを告げる夕日。守るべき民を失ったあの日。
眼下に広がる紅、善戦を繰り広げる自軍の兵、次々に倒れていく敵兵。アルセリアを救うため、無数の命を奪ったあの日。
柔らかく微笑むアルセリア、その胸を染める紅い液体、力を失った体。友人をこの手にかけたあの日。
ああ、今日の夢見は最悪だ。
悪夢を振り払うように、いつもより早く庭に出る。軽い準備運動と素振りも、ずっと欠かしていない。私自身が剣を振るって何かを守る立場ではもうないが、このおかげでできることも増えている。
日課を済ませても、執務まではまだ時間がある。たまには思い切り体を動かしても良い。
「少し、手合わせでもしないか。」
「珍しいな、アリシアさんから言ってくるなんて。」
私がいつも鍛錬をする場所から離れれば、秋人が剣を振るっている。当然、互いに真剣ではないが、真剣を持っている時と同じ心持ちで構えを取る。
貴族の道楽では、いかに美しく舞うかが問われる。正統な騎士の試合では、静謐な睨み合いが発生する。しかし、私たちの剣はそんな平穏なものではない。私が知っているのは戦場を想定した剣であり、乱戦にも対応できる荒々しいものだ。静かに睨み合い、前の敵にだけ集中すればすぐ横槍が入れられてしまうからだ。
秋人が準備できたことを確かめれば、私はその右手を狙った。想定通り、それは難なく受け止められる。その上、力に任せて押し返してくる。
その力を利用し、私は後ろに飛び退く。それに追撃することも秋人は忘れない。軽く受け流してやっても体勢を崩すことはもうなく、最初の距離に戻っただけだ。
「成長したな。」
「さんざん同じ手でやられりゃ、嫌でも覚えるだろ。」
今度は秋人からの攻撃だ。同じように手を狙ってくるが、それを真正面から受け止めるのは少々苦しい。躱し、軽く足を繰り出せば一度引くはず。
そんな読みは体で受け止められたことで外され、一度通り過ぎた剣が純粋な腕力で引き戻されてくる。
「勝った。」
満足げな笑みを浮かべるが、その瞬間の油断が死を招く。戒めの意味を込めて、その手を叩き落とした。
「いってえ!」
なんで、と言いたそうな目で見てくるが、授業料だ。今回、間違いなく秋人は勝ってくれた。
「真剣なら私が死んでいるな。」
「俺だってちゃんと腕磨いてんだよ。」
これなら安心して愛良を託せる。
「そうだな。愛良を頼んだぞ。」
「明るい時間帯ならそこまで心配することもないと思うけど。」
休日はよく二人で出かけているようだ。私が愛良に一人では外出しないよう言い聞かせていることも理由の一つではあるだろう。
今日も愛良を秋人に頼み、私は執務室に向かう。その前に寄り道だ。
「おはよう、友幸。」
「おはようございます。」
今日は珍しく、わざわざ来なくて良いというような反論が返ってこない。私が部屋に来る頃にはいつも支度を済ませていて、挨拶をするだけとなるのだが、今日は引き留められた。
「朝食くらいゆっくり食べれば良いでしょう。」
鍛錬の前に私は済ませている。だが、せっかくの誘いを断る必要もない。今日はいつもより運動もしている。軽めに済ませれば問題ないだろう。
「ああ、そうだな。たまには一緒に取るとしようか。」
愛良を心配しつつの午前を過ごし、午後もまた文化交流事業関連の書類を裁いていく。関係各所との連携のためには互いに連絡を取る必要もある。次回へ向けた改善のための案などもあるが、決定は次の会議の時になされる。
初回公演の目的は文化交流事業の有用性を貴族に伝えることだった。戦争回避のため、経済の活性化のためなど、どの点を重要視するかは各個人によって変わってくる。しかし、有用性は認識してくれたようで、第二回公演以降の開催が決定されている。おおよそ半年に一回を目安として開催される予定だ。
第二回公演の目的は参加者同士の結びつきも強めること。各地に互いの情報や経験を持ち帰ってもらうことだ。これは今後も継続していく予定となっている。最終的に互いの国や地域を行き来するようになることが目標だ。
文化交流事業は皇国と連携しつつ、私も深く関わっている。中核に携わっている貴族同士は提案などを会議前に共有し、改良案のやり取りを行っているのだ。
現在、文化交流公演は皇都でのみ開催されている。それを周辺国の首都にも広げようというのだ。すぐに実現することは困難だと提案者も分かっており、その前の段階として皇国内他地域でも開催することを提案している。例えば、公爵家領や侯爵家領の領都での開催だ。
穂波公爵家領での開催は、宰相の協力もあり、比較的容易に進められるだろう。他は六条公爵家領、橋本公爵家領だ。この両家も、連絡を入れ、協力を求めれば、重い見返りを求めることなく了承してくれるだろう。問題は公爵家領が皇都を囲むように存在することだ。文化交流という点を重視するなら、遠方でも開催が好ましい。
その点においては侯爵家領領都のほうが適している。皇国内で最も皇都から遠いのは幾つかの伯爵家領だが、各国の演者や貴賓を受け入れる用意が困難だ。国からの補助も真剣に考慮に入れる必要がある。
参加可能者の人数によっては、侯爵家領領都での開催に関しては前向きな考えを持っているとの返信を認める。なお、〔シキ〕としては私と愛良の参加のみが確実だ。
「アリシア様、お時間よろしいでしょうか。」
「どうぞ。どうした?」
まだ仕事の時間だ。侍女や侍従が茶を運んでくることもあるが、友幸が訪ねて来るのは珍しい。初めてのことかもしれない。
許可を与えてもこそっと覗くようにして様子を伺ってくる。
「どう、というわけではないのですが。お茶でも、しませんか?」
心境の変化でもあったのか、単に今日は愛良がいないからか。恵奈はいるため、勉強の休憩時間に相手をする者はいる。好んで私の傍にはいないというのに、あえて私を誘う理由は何なのか。
今は提案を片付けたところで、区切りが付けられている。たまには息抜きに話しても良いだろう。
「ああ。そちらの部屋に向かおう。」
一瞬安堵で緩んだように見えたが、それはすぐに引き締められた。見えたのも気のせいだったのかもしれない。
茶と菓子を用意させ、静かにソファに腰かければ、話を切り出される。
「今、愛良と秋人が島口伯爵家邸へ出かけているそうですね。」
「ああ。愛良が呼ばれてな。初めての貴族邸があの家なのは安心できる。秋人の件では私も何度も世話になっているからな。」
今はそう問題を起こさないが、引き取った当初は色々起こしてくれていた。
「何か気がかりでもあるのか。」
「いえ、行き先は問題ありません。俺も、助けられていますから。俺が言いたいのは、アリシア様はなぜ秋人の行動を咎めないのか、ということです。」
またこれか。恵奈から色恋沙汰の入れ知恵をした報告は受け取っている。私が愛良を手放したくないと思っていることも汲んで、恵奈は行動に出てくれたのだろう。その結果、愛良は素直に恵奈の助言を聞き入れ、秋人は上手く意識させられた、というだけだ。互いに好感情を元々抱いていたが故の結果だろう。
身分の問題も何もない。二人を雇っている立場の私が協力的である以上、二人の意思さえ固まれば、すぐ行動に移せるくらいだ。
たった一つ問題があるとすれば、友幸が二人を結びつけることに否定的であることだ。
「問題のあることをしていると認識していないからだな。」
「大ありでしょう!」
声を荒げたことを恥じるように、茶を一口飲んで、自分を落ち着けている。それから、友幸の認識する問題を一つ一つ挙げていく。これは長くなりそうだ。
「まず、卒業祝いに贈った物です。自分の色の首輪を、自分の手で、愛良に着けたんですよ。」
言い方の問題ではないだろうか。首飾りではなく首輪と言うと聞こえが悪い。飼うようではないか。紐の部分が鎖のようになっていたわけでもなく、愛良に似合う細い紐になっていたため、さほど問題には感じられない。
「自分の色の装飾品を贈る意味を知らない愛良に、何も教えなかったんです。」
他に対する牽制だと、自分は意識していると言わなかった。そんな発想など持っていない素直な愛良の反応を見れば、秋人からの贈り物を心から喜んだことは分かる。着ける機会があれば身に着けていることも、私にとっての不都合ではない。
「教えないまま、夜会に行くのに着けさせて、求婚されれば自分から貰ったと言わせたんです。」
ささやかな主張だ。愛良に、自分のために断ってほしい、と願う勇気もなかったのだろう。その意図は分からずとも、愛良なら聞き入れただろうに。よく知らない穂波輝文より、身近な秋人といたいと願うはずだ。
「この点に関して、何か思うところはないのですか。」
「ああ。私は愛良を手放したくない。この家に愛良を繋ぎ止めてくれるなら、私にとって不都合なことはないな。」
それが愛良を苦しめるなら方法を考えるが、現状は戸惑いと喜びの報告しか聞いていない。
しかし、友幸は私の返答が期待したものと異なったのか、舌打ちを一つして、次の問題に移った。
「次は花火を見に行った際の服装です。全部、秋人が選んだそうですよ。自分の趣味で、全身を着飾らせたんです。」
愛良も一緒に選んだと聞いている。最終的には迷った愛良が秋人に選択を委ねたという話だった。自分のためによく考えて選んでもらえるのが嬉しい、と言っていた。愛良が喜んでいる以上、そこにどんな意図があろうとも、咎めるようなことではない。
私がそれも問題ないと返せば、不機嫌なまま次へ移る。
「花火大会当日の話です。ずーっと、手を繋いで歩いていたと。ずーっと、ですよ。人前なのに、常に触れた状態で、出歩いたんです。」
人混みを歩くなら正しい判断だ。愛良では人波に飲み込まれてしまうだろう。逸れる危険を回避するため、手を繋ぐのが最善だ。手を繋ぐ程度、人がいたところで何ら問題はない。
「愛良ももう年頃の女の子なんですよ。異性と手を繋いで、どうして何も警戒しないのか。」
それは友幸や優弥のせいだろう。何も知らない愛良に、身近な人間が何も教えなかった。学友もあまりにも純粋無垢な愛良には言い辛かったのかもしれない。可能性としては、愛良が秋人を信頼しているから警戒するという発想に行きつかないことも考えられる。
「相手によっては隣を歩くだけでも警戒して良いくらいです。」
「そう思うなら、私ではなく愛良に言ってやってくれ。」
友幸も純粋無垢でいてほしいと思っているから、教えたくないのだろう。無防備な部分が可愛く見えるのも理解できるが、それを許せるのは常に信頼できる者が傍で守れる場合に限る。そうでないなら警戒心を教えるべきだ。
いつもの答えたくないという意思を、今日は話を続けることで示される。
「花火を見に行く際、秋人は愛良を、自分とだけ、と言って林の中に連れ込みました。暗がりに連れ込むなんていけないことでしょう?」
小さな子どもでもあるまい。何かが起きていたとして、愛良がそれを受け入れたなら、私たちが口を挟むことではない。もっとも、私は何かが起きることも歓迎できる。
「その上、花火の後、俺と特別な日、とか言ったんです。その時は内容を教えずに、愛良に楽しみにさせて。あんな、悪いことを企んで。」
「ああ、そうか。」
「人気のない林で抱き締めて、人目のある場所もお姫様抱っこで帰ったんです。物事には順番というものがあるでしょう!」
細かいことを気にしているようだ。愛良も嫌がっていないならそれで良いだろうに。
「帰ったら帰ったで自分の部屋に連れ込んで、風呂に誘うし。あいつ、何考えてんだよ。」
「結局、一緒には入ったのか。」
「そんなわけないでしょう!実際に手出してたら一発殴るじゃ気が済まない。」
まだ手を出したわけでもないのに、ここまで怒っているのか。
「風呂上がりにはゼリーを自分の手から食べさせて。変なこと考えてんじゃねえだろうな、あれ。」
「君は風呂上がりの女性を見て、変なこと、を考えるのか。」
「俺の話ではありません!」
私に手を出す機会など幾らでもあったか。もっとも、しっかり鍛えている私からどんな反撃をされるか分からないという警戒心が影響した可能性はある。そのような目で見ているかどうかも定かではないが。
「翌朝、寝起きに半裸で覆い被さるんですよ!?何にも知らない愛良に、何を、あんな、駄目でしょう、そんなこと!」
「お前もその程度の経験はあるだろう。」
目を伏せられる。言いたくないらしい。
「その後、恥ずかしがっているのに愛良の着替えを手伝おうとしたんです。そんな状況になったら部屋を出るべきです。下心を隠す気もないとしか思えません。」
よくまあ、花火を見に行った一日、翌朝を含んでも丸一日に満たない時間で、これほど友幸を怒らせられるものだ。
「実際に脱がそうとまでしたんですよ。腰に腕を回して、ボタンを一つずつ外して、って。朝っぱらから何を考えているのか。夜でも許しませんけど。」
まるで口のうるさい風紀委員だ。愛良も秋人ももう子どもではないのだから、どのように距離を縮めていくかなど、本人たちに任せてしまえば良い。愛良を泣かせさえしなければ。
ただ、友幸の心配も分からないではない。愛良は何も知らないため、全てを素直に受け入れる懸念がある。信頼している者から教えられたならそれを全て信じてしまいそうな危うさだ。しかし、それは愛良からの信頼が前提となっている。友幸の言葉からはそういった愛良の感情が消えていた。
「愛良の気持ちも考えてやってくれ。分からないなら明日にでも本人に聞いてみると良い。秋人のその行動が不快だったのかどうかについて。」
菓子も茶も片付け、私は仕事に戻る。多少話したことで苛立ちは軽減できたことだろう。秋人や愛良と話すにしても、冷静に話しやすくなったはずだ。
愛良を私の手の中に留める方法の一つとして秋人と結びつけることを、友幸にも認めてほしい。そんな願いを胸に、私はその部屋から立ち去った。