杉浦友幸視点:記憶
懐かしい夢を見た。それは俺が未だラファエルと呼ばれていた頃の記憶から始まった。
真っ白な布団、汚れ一つないカーテン、細かな刺繍を施されたテーブルクロス。職人の手の込んだ日用品を何の疑問も抱くことなく使い、姉と同じような服装にも何の疑問も抱いていなかった。
積み上げられた本に、たくさんの人形。その人形たちを友達と呼び、同い年の姉の訪問を待ち侘びていた。
「ラファエル、今日はね、」
そうして姉は外の世界の話を聞かせてくれた。アリシアという第一王女と友達になったとか、一緒に勉強を始めることになっただとか。一つ下のアリシアを、姉は非常に可愛がっていた。
最初の頃は俺も、その話を楽しく聞いていた。自分の知らない世界、自分の知らない知識。俺はもっと知りたいとせがんで、絵本以外にも様々な本を読むようになっていった。
部屋に置かれる本はどんどん増えていく。子どもには難しいだろう内容の物まで、分野を問わず読み漁った。それしか、できることがなかったから。知識だけなら、外を知る姉に負けないくらい、吸収していった。
知れば知るほどに疑問を抱く。なぜ姉だけが外に出られるのか、なぜ自分だけが閉じ込められているのか。
「僕も外に出たい。」
稀に訪れる母にそう告げると、悲しそうな顔で首を横に振る。
「ごめんなさい、ラファエル。」
いつだって謝罪だけが返された。説明も、弁明もなく。物語の中の家族のように触れることも、言葉を交わすこともなかった。
外に出るという願いを聞き入れてもらえないなら、自分で出てしまえば良い。そんな思い付きで扉に手を伸ばす。しかし、どれほど力を入れても、びくともしない。蹴っても、体当たりしても、それが開くことはなかった。
出てはいけない。それが言葉による禁止ではなく、本当に監禁されているのだと、初めて知った。
姉が来た日に頼み込んでも、それは変わらない。
「ごめんね。それだけはできないの。」
そう言って、次から花を摘んで来てくれるようになった。だけど、決して出してはくれない。入って来た時を狙って出て行こうとしても、簡単に捕まってしまう。
「ごめんね。いつか必ず、出られる日がきっと来るから。」
頑なに、外に出ることを認めてもらえなかった。それだけと言ったのに、一緒に食事を取ることもできなかった。
憧れの外。窓から見える木々と花々。大好きだったそれは、自分だけが近づくことを許されず、自分が監禁されていることを意識させるものに変わった。どれほど望んでも、懇願しても、決して許されない外の世界。
いつしか、俺の部屋のカーテンは閉め切られたままとなった。出られないなら、見たくなかった。
ろうそくの明かりで、使う予定のない知識だけが増えていく。そうして、ある事実に気付いてしまった。自分がバルデス王家の子であり、表に出せない、要らない存在なのだと。
独立間もない頃、妹が生まれた。俺とよく似た髪と瞳の色をした、小さく頼りない赤ん坊。彼女もまた、監禁されることとなる。
俺はそれに反対した。自分が何者か、ここがどこか知っている、この子も同じように監禁して飼い殺す気か、と。彼らの答えはこうだった。
「杉浦友幸。それが、貴女の新しい名前よ。」
今度はついに捨てられた日の映像だ。
最低限以下の荷物。着ている物と少しのお金だけが持ち物だ。たった一人、目隠しをされて、どこかへ連れて行かれる。揺れる体が馬車によるものだと今なら分かるが、当時は地面が揺れているとしか思えなかった。
船に乗せられ、揺れの種類が変わる。それもこの時は知らない揺れだ。視界も体の自由も奪われたまま、無為に時間は流れていく。
ようやく自由を得たと思えば、見知らぬ部屋の中で。だけど、鍵のかかっていない扉から初めての外を目指した。
天井のない頭上、どこまでも広がる青い空、碧い海。ここで初めて俺は、船に乗っていると知った。
飽きることなく空と海を見つけ続けた。刻一刻と変化していく真上の空と、手が届きそうなほど近い海。魚の影や鳥の姿まで間近に感じられた。雨に濡れることさえ、俺にとっては新鮮だった。
船を下ろされて、初めて地面を自分の目と足で感じた。初めて見る港に店、初めて踏みしめる土、初めて触れる木々に、初めて近づく動物たち。興味の赴くまま、追いかけて行った。
自由気ままな数日を過ごせば、すぐに資金は底を尽く。稼ぐ方法なんて知らなかった。何をすべきか分からないまま、冷える屋外で過ごせば、数人の男女に声をかけられた。
「君、どうしたの?」
どうしたの。それが何を問うているのかさえ分からず、ただその男性を見つめた。
「えっと、お父さんやお母さんはいるかな。」
「ううん、いない。」
ラファエルの時のことは全て偽りだ。だから、全て忘れなければならない。ラファエルなんていないから、最初からいなかったから。俺はあの時、杉浦友幸として生まれた。
「じゃあ、他に頼れる人は?」
「いない。」
だけど、生まれたばかりの俺は、何も持っていない。このまま死んでしまうとしても、監禁されたままよりずっと良い。何も知らず、偽りの中で生きるより、自由の中で死ねるのだから。
「俺たちと一緒に来るか?」
断る理由もなく、俺はふらつく足で彼らについて行った。その先に何があるかなんて知らないまま。
厳しい練習と、満足に得られない食事。それでも、何も持たない俺にとっては、間違いなく自分だけの自由な場所だった。
十歳になった頃、俺は虹彩皇国の皇都に上がることを勧められた。
「知識も豊富で、吸収も早い。演技力だって、もう大人と遜色ない。君ならきっと、皇都でもやっていける。」
そんな言葉で、俺は再び手を離された。彼らとも、それ以降連絡は取っていない。
見たことないほど大きな港に、溢れる人々。そこを通り抜けた、下町と呼ばれる比較的治安の悪い地区でさえ、俺にとっては新天地だった。
また一人になったけど、自由であることに変わりはない。今度こそ、誰に憚ることなく好きな場所に出かけられる。
そうして間もなく、皇都での舞台も勝ち取った。貴族と知り合って稼ぐ機会のない、平民向けの公演でも、俺にとっては大きな一歩だ。衣装だって用意してもらえる。
その採寸のため、桐山商会に向かった日のことだ。
「初めまして、杉浦友幸君、だね。」
「はい、初めまして。」
堂々としていて、格好良い男性に部屋へ案内される。当時のことは分からないけど、今では貴族や宗教的指導者とも繋がりを持つ桐山会長その人だった。
「君のことは聞いているよ。最年少で〔虹蜺〕の皇都公演に採用されたんだね。」
「そうみたいです。」
連れていってくれる間も、色々と話しかけてくれた。自分から話しかけることを躊躇していた当時は非常にありがたく感じていたが、その安堵を桐山会長は苦笑で指摘した。
「そんなに緊張しなくて良い。私も君も同じ平民だ。」
「はい。」
同じ平民。だけどこの時はそんな言葉を信じられずにいた。自分とその人が同じには見えなかった。
心の込められていない言葉への指摘をしないまま、桐山会長は美しい琥珀色の髪の女性に俺を預けて、部屋を出て行った。
「採寸するから、上着を脱いでくれるかな。」
「はい。」
体のあちこちを測られる。動きを妨げない服を作るためには必要不可欠だとか、素早い仕事の間にも彼女は説明をしてくれた。
「よくじっとしていられたわね。良い子。」
頭を撫でてくれるが、動かないくらい誰にでもできることだから、この時は馬鹿にされていると感じた。
「それくらいできて当然です。」
「そうね。もう一人前の役者さんだものね。ごめんなさい。」
また撫でられて、今度は無抵抗に受け入れた。意味は分からなかったけど、不快ではなかったから。
そうしていると、二人によく似た、同じく美しい琥珀色の髪と瞳の男の子が桐山会長に連れられて来た。
「友幸君、今日はこの後、時間があるかな。」
「ええ、ありますけど。何でしょう。」
「うちの子の相手をしてやってくれないか。君のような子との交流は良い経験になる。君にとっても、お友達が増えるのは悪いことではないだろう?」
友達、本の中にしかなかった存在。ぬいぐるみを友達と呼んでいても、それは本物ではなかった。彼らは話さず、動かない。同じ〔虹蜺〕に所属する人たちも潜在的な敵で、同じ舞台を作り上げる仲間と称していても、水面下では醜い争いを繰り広げている。そんな人たちに近づこうとは思えなかった。
桐山会長は増えるという言い方をしたけど、俺にとっては初めての人間の友達だった。どんなものだろう、どんな風にいられるだろう。皇都に来るまでに巡った村や町の子たちのようになれるのだろうか。そう期待したけど、どう接して良いかなんて俺は知らなかった。
「そう、ですね。」
「お庭で遊んでいらっしゃい。慶司、お庭を案内してあげて。仲良くね。」
「うん。」
自己紹介をして、正面玄関とは反対側へ向かう。手を引かれて、連れて行かれる。人の体温を感じるのは久しぶりだった。演じている間は友幸ではないから、こんな風に温度を意識することなんてなかった。
様々な植物が植わる場所に辿り着けば、手を離されてしまう。
「友幸は野菜とか果物育てたことある?」
「ない。」
どうやって育てるのかは書物から学んでいた。その他のことも知識だけなら誰にも負けないくらい持っていた。だけど当時の俺には様々な経験が不足していた。
「こうやって周りの雑草を抜いて、お水をあげるんだ。」
支柱に繋がっていない小さな草を抜き取り、井戸から水を汲んでいる。重いだろうに、笑いながらバケツを持っている。
「ほら、友幸も。」
バケツから水を入れたじょうろを渡される。水はあげすぎても、あげなさすぎてもいけない。その適量は作物によって異なるが、その作物の適量が俺には分からなかった。
「そっちの、まだあげてないほうに。」
どのくらいかという簡単なたった一つの質問ができずに、ただ彼を見つめた。友達に対してどう接するべきかなんて、学んだことがなかったから。
「何?」
「えと、どのくらいあげたらいい?」
「そんなの適当でいいんだよ。」
本人は本当に何も気にしていないように、さーっとじょうろを動かしていた。均等に水が出ているわけでもなく、複雑な動きをしているわけでもない。見様見真似でも水をあげることはできた。
「友幸、楽しくない?」
「え?」
「ずっと笑わないから。じゃあさ、何が好き?」
「えっと……」
何も分からなかった。部屋に閉じ込められるのは嫌で、外にいたかった。だけど、何が好きと言えるほど、何にも接していなかった。ただ、日々の糧を得るために、演技で必要になる技術や知識を得ただけだった。
「お父さんとお母さんはいないんだよね。」
「うん。一人で暮らしてる。」
「寂しい?」
自由だから、苦しくない。監禁されていないから。だけど、俺は何も持っていない。なんて答えれば良いか分からず黙り込めば、唐突に抱き締められる。
「こうしたら寂しくないんだよ。」
こんなに人と密着するのも久しぶりだった。友幸として生まれてからは、初めてだったかもしれない。皇都に来るまで一緒にいた人は、一人で生きるために必要な知識と技術を教えてくれたけど、技能の伝達目的以外で触れることはなかったから。
もう少しそうしていたいと感じていたはずだ。だけど俺は一人で生きて行かないといけない、これからずっと一人なのだから。そう自分に言い聞かせて、距離を取った。
「寂しくないよ。慶司はお父さんもお母さんも一緒にいるのに、寂しいんだ?子どもだな。」
こんな言い方ばかり覚えてしまった。まだ子どもと言える年齢だったのに、自分はもう一人で生きていける大人だと思って、強がっていた。
「ふーん、寂しくないんだ。俺は家族も友達もいないなんて嫌だけど。」
「大人になったら平気になるんだよ。」
最初からいなければ、それが当たり前だ。周りを見て羨ましくなることはあっても、一人には慣れている。
「でも大人って十八歳からでしょ?友幸だってまだ十歳じゃん。」
「俺は早く大人になってるの!」
誰もいないから、自分が大人にならないと生きていけなかった。誰にも頼らず生きていく必要があった。自分の力だけが、自分を支えてくれた。
帰る時間になればまた、慶司は手を握ってくれた。
「また遊びに来てね。」
愛良ならきっと素直に頷けたのだろう。だけど俺にはそれができなかった。自分から手を伸ばせばすぐに離されてしまう気がして、また来たいという自分の思いに嘘を吐いた。
「どうしてもって言うなら、来てもいいけど。」
「言うから来て。」
慶司の言葉を言い訳に、俺はたびたび遊びに行った。本当は自分が一人になりたくなかっただけなのに。