因縁
その日の仕事に区切りをつけて、遅い夕食を取る。先に食べていれば良いものを、友幸は律義に待ってくれていた。
「待っていなくても良いと、前にも伝えたが。」
「愛人でも伴侶でも待っているのが当然でしょう。」
共に食事を取らないことなどよくあることだ。特に私の身分では伴侶を複数人持つことも可能なため、その場合、誰かとは食事を共にしないことも多くなるだろう。そうではなくても、家族で別々の食事など、貴族の家庭では日常的な出来事だ。
「そうとも限らないな。」
「俺が勝手にしてるんですから別に良いでしょう。」
「ああ、もちろん構わないよ。」
毎回楽しい食事にはなっていないのに、なぜ待っているのだろう。何かを探る様子も感じられず、ただ同じ時間を過ごしているだけ。待っている時間が無駄になるだけだ。
机の端には私が届けさせた本の一冊が置かれている。待っている間、読んでいたのだろうか。
「勉強は順調か。」
「ええ、知識を入れるだけですから。技術を習得するとなるともう少し手間取ったでしょうけど。」
こんな時、少々彼らが羨ましくなる。知識を入れるだけ、に私はもっと時間がかかるのだから。少なくとも一度読んだだけでは覚えられない。
会話も弾まないままに夕食を終える。友幸が食べ終わるのを待って、私も席を立つ。いつもは黙ってそれぞれの部屋に戻るが、今日はなぜか、呼び止められた。
「アリシア様。今日も、来てくださいますか。」
「ああ、軽く運動したら向かうよ。」
いつもは何も言わず、ただ受け入れるだけなのに、今日は自ら望んでくれた。
書類仕事ばかりで運動不足とならないよう、朝の鍛錬だけでなく、夜にも運動をするようにしている。それと風呂を済ませて、友幸の部屋へ向かう。
「アリシアだ。」
「お待ちしていました。」
珍しい歓迎の言葉。片手を後ろに隠して、何をしているのだろう。
「一応、お世話になっていますから。こんな物では足りないでしょうけど。」
そう言って差し出されたのは紅いレース糸で編まれた、紐状の物。
「これは?」
「アリシア様だって剣を携えることくらいあるでしょう。」
剣の鞘に付ける飾り紐、ということだろう。秋人やラウラ、優弥に贈っていたことは知っているが、まさか私にまで作ってくれるとは驚きだ。
均等な編み目で、始まりから終わりまで太さが変わっていない。本当に器用なものだ。私も一度挑戦したことはあるが、編み目を均等にすることも、予定の形に仕上げることもままならなかった。
「用件はそれだけです。」
ふい、と糸や編み針を置いてある机についてしまう。それを追って正面に座れば、もう編み始めていた。
「今は何を作っているんだ。」
「何でも良いでしょう。」
素っ気ない返事だ。あるだけ態度が良くなっているとも捉えられる。
一目一目素早く編まれていく。何気なく手を動かしているように見えて、その編み目は揃えられ、美しい作品に仕上がるのだ。
「不思議なものだ。これほどの物が人の手から、それも私の目の前で作り出されていくというのは。」
黒のレース糸で編まれているそれは、何を模っているのか。まだその全容は見えない。
「私には真似できないよ。出来上がっていく喜びより、思うようにならない苛立ちが勝ってしまう。」
私は一つとして完成させたことがないが、友幸は既に幾つも仕上げている。最初は愛良の髪飾りを、次は秋人やラウラの飾り紐を。続けて恵奈や優弥にも作っていた。最初は受け取ることすら拒否したというのに、随分色々と作ったものだ。自室の花瓶敷きもいつの間にか手作りの物に変わっている。
するすると魔法のように形になっていく。私などより繊細な手が、レース糸を軽やかに作品へと変えていく。
「そんなに、気になりますか。」
「ああ、不思議でな。」
自分の手元に集中し、私のほうなど見向きもしない。視線がずっと作品に留まり、一瞬も目を上げることなく、言葉が交わされる。
荒事とは無縁の手が、芸術を生み出している。しかし、愛良と異なり、その瞳は喜びを伝えてくれない。
「姉と俺は、そんなに似ていましたか。」
瞳と髪の色は、記憶にある限りよく似ている。背格好はどうだっただろう。アルセリアの手はこんなに頼りなかっただろうか。まともに交流したのはそれこそ幼い頃だ。成長してからも交流はあったが、密に関わる暇もなく、敵対してしまった。
死に顔の彼女は、愛良といる時の友幸のように、穏やかな表情をしていた。
「さあな。私も死に顔しか覚えていない。」
こうして大切だったはずの友人のことも忘れていくのだろう。共に憎み合わない未来を夢見て、憎しみの連鎖を断ち切る約束をしたことも。それでも、彼女の民も彼女も殺した、その罪だけは忘れてはならない。
「殺してみますか?俺は恨みますよ。」
恨んでくれたほうがよほど良かった。彼女は私に殺されることを願い、憎悪のない世界を夢見たまま逝ってしまった。
「そんなこと、するわけがないだろう。」
託された二つの宝は、私の手の内だ。それを自ら傷つける真似など、出来ようはずもない。彼らを守ることだけが、もはや私に残された最後のアルセリアへの贖罪なのだから。止められず、自ら友人に討たれることを望ませてしまった私にできる、唯一の償いだ。
「まさか恨まれることを恐れているわけではないでしょう?アリシア様はもう多くの人から恨まれているのですから。」
サントスでは守れず、バルデスとの国境では多くを殺した。それだけでもう数えきれないほどの人の恨みを買ったことだろう。紅い耳飾りが、今もその罪を思い出させてくれる。
「ああ、そうだな。」
言い訳はできない。殺人を楽しんだわけでも、好んでいるわけでもないなど、殺した側の言い分に過ぎない。奪われた者にとっては、大切な人が失われている事実だけが重要なのだから。
「俺は姉とは違います。愛していると嘯いて何かを犠牲になんてしない。偽りの平穏のために家族や自分を捧げたりもしない。」
友幸宛の遺書に何が書かれていたのか、バルデスで何を知ったのかは分からない。しかし、そこから何かを知ったことは確かだ。その事実が、友幸にはそう見えたのだろう。なぜ今、その話を始めたかも分からないが、きっと誤魔化してはいけないものだ。
「そうか。」
しかし、変わってしまったアルセリアと語らう時間のなかった私には、返すべき言葉が見つけられない。死に際の言葉と遺書からしか分からない。二人を愛して、守ってほしいと願ったこと。憎しみの連鎖を断ち切るため、その身を捧げる覚悟すら決められたこと。
そんな部分が、友幸には偽りに見えるのだろうか。愛も覚悟も、本物には見えていないのだろうか。
「俺は愛良とも違います。無邪気に遊んでなんていられない。無垢に笑ってなんていられない。」
八つも離れた妹まで引き合いに出して、何を伝えようとしているのだろう。私も愛良と友幸が大きく異なる性質を持っていることには気付いている。
「ああ、分かっているよ。」
ふいに彼は編み物を続ける手を止め、鍵のかかった箱から一通の手紙を取り出した。
「お返しします。俺には必要のない物ですから。」
アルセリアからラファエルに宛てられた遺書だ。とうに処分したものと思っていたが、大切に保管していたようだ。
これをアルセリアはどう思うだろう。自分の最期の想いを必要ないと断じられて、自分を殺した友人に渡されるなど。
「持っていてやってはくれないのだな。」
「俺は、ただの杉浦友幸ですから。読みたいならどうぞ。」
他人の想いを覗き見る罪悪感。故人が本人にだけ向けた言葉を、私が見ても良いものか。しかし、友幸があえて許可を言葉にしたということは、一片でも私に知ってほしいという思いがあるからではないか。
迷った挙句、私は遺書に目を通した。
無垢な双子の弟ラファエルへ
今、貴方はどこで何をしているのでしょう。今も生きてくれているのでしょうか。
信じてもらえないでしょうけど、私は一日だって貴方を忘れたことはないわ。同い年のはずなのに、自分よりずっと小さく、ずっと賢かった弟のことを。
こんな形で謝罪を伝えるのは卑怯かもしれない。だけど伝えさせてほしい。ごめんなさい。自由を奪って、狭い部屋に閉じ込めて。その上、異国の地に一人放り出して。その罪を償わないまま死んで逝く私を、どうか憎んで。
私は忘れない。モニカと貴方が初めて会った日のことを。あの絶望の表情を、妹を守ろうと必死な貴方を。だけど貴方が守ろうとした私たちの妹を、母同様隠し続けた。貴方にしたのと同じように、閉じ込め続けた。同じ過ちを、繰り返してしまった。
だけど、一つだけ、これだけは信じてほしいの。私も母も貴方を愛していたと。守るために、閉じ込めたのだと。貴方の名前は、母が考えたのよ。ラファエルだって、笑顔で周囲を苦しみから救う聖人の名から取っているの。友幸だって、友を得て、幸多き人生を、という意味が込められているの。
罪深き姉アルセリアより
アルセリアも罪の意識を抱いていた。自分の死での決着を考えていても、それを実行したのは私だ。罪を償わないまま死ぬことも罪だとするなら、その機会を奪った私の罪にもなろう。
これを私に読ませて、友幸はどうするつもりなのだろう。編み物を続ける手も、伏せたままの目も、私には何も伝えてくれない。
「これを、どうしてほしいんだ。」
「お好きにどうぞ。捨てるなりなんなり、勝手にしてください。」
私宛ての遺書も、大切に保管している。これは私に向けた言葉ではないが、間違いなく死を目前にしたアルセリアの最期の想いが綴られている。二度と戻らないこれを、簡単に捨てられはしない。
その死の瞬間に私に託せたのは、自らが生を知っている妹のことだけ。既に異国の地にあり、生死すら分からない弟のことまでは言葉で伝えられなかったのだろう。だけど、遺書を認めずにはいられなかった。
これは間違いなく、亡きアルセリアの想いだ。
「受け取るよ。彼女の想いも、罪も、願いも。」
罪は抱えることしかできない。だが、願いの一つは叶えられる。愛良は守れる。友幸のことも、守れるだろう。