第九話 干しイカ
木の陰から姿を現したのは、黄色い着物を着たおかっぱ頭の九つか十の可愛らしい女の子だった。警戒心が強いのか、不安げな顔をしてこちらを見ている。女の子の方から話し掛けてくることはなさそうだ。
「さぁ、大丈夫、こちらへおいで」
ハヤタが優しく手招きをした。
「私はアテル。こう見えても女なの。怖くないから、こっちへいらっしゃい」
同性がいることで安心できたのか、女の子が無邪気な笑みを見せた。
「……どうしてこんなところに」
俺が疑問を口にしても、姉弟は反応すらしなかった。
いや、これは当然の疑問なのだ。こんなところで小さな女の子と出くわすことなんてあり得ない。近くに村があったとしても、日が沈んでから出歩くことなんて考えられないからである。それをこの姉弟は分かっていない。
「僕はオオワシ村のハヤタ。きみ、名前は?」
「おきつ」
そう言うと、流星号にびくびくしながらも、前へ出てきた。
アテルが尋ねる。
「おきっちゃんは一人なの? 両親はどこ?」
「お家にいます。……じゃなかった、出掛けています」
「ということは、お留守番していたのね?」
アテルの問い掛けに、おきつがこくりと頷いた。
「それは大変ね。他に家族の者は?」
「いません」
その言葉にアテルが歩み寄り、しゃがみ込んで目線を合わせた。
「寂しかったのね。でも家を空けてはいけないのよ。両親が戻られたら心配するじゃない」
「そうではないんです」
そこでアテルが考えを巡らせる。
「ということは、お水を汲みに行って迷子になっちゃった? お姉ちゃんも子どもの頃によくあったんだ」
「いいえ。そうではありません」
「だったら、どうして森の中へ?」
おきつがたっぷりと時間を掛けて答える。
「にんげん、……じゃなかった、お姉ちゃんたちの気配を感じたもので」
「あら、随分と感覚が鋭いのね」
「はい。それで困っているので、……じゃなかった、お姉ちゃんたちが困っていると思ったので声を掛けようと思ったんです」
「ここで眠ろうかと思っていたけど、べつに困っているわけじゃないのよ」
おきつが何やら一生懸命考えているようだ。こちらとしても急ぐことではないので言葉を待っているが、どう切り出していいのか分からない感じだった。そこでこちらからお願いしてみることにした。
「ひょっとして俺たちを家に泊めてくれるというのか?」
「はい。そう言おうと思っていました」
「おお、そいつはありがたい」
と言ったものの、内心は怪しくて怖がっている自分がいる。こんな森の中で俺たちを偶然見つけることなんて、やっぱりどう考えてもあり得ないことだからだ。家が建っているはずもなく、本当に呼ばれていいものか悩みどころである。
「ご両親が反対されないかな?」
アテルは別のことが気になるようだ。
「おとうちゃんは心配していましたが、大丈夫です」
言っている意味が分からなかった。
「お家まで少し歩くので、ついてきてください」
そう言うと、おきつはくるりと背を向けて、さっさと歩き出してしまった。
その後ろを姉弟が疑問もなく歩いて行く。
俺はおきつに聞こえないように小声でアテルに話し掛けた。
「おい、大丈夫かよ」
「何が?」
「何がってな、こんな森の中に民家なんてあるわけないだろう」
「そうなの?」
「そりゃそうだ。子どもが一人で出歩くのもおかしいし、まさか盗賊の娘じゃないよな?」
アテルが睨む。
「あんな小さい子を疑うの?」
「だってよ、言ってることも滅茶苦茶だったぞ?」
「子どもなんだから仕方ないでしょう?」
「いや、そういうことじゃねぇって」
「あなただって、ありがたいとか言ってたじゃない」
「そうは言ったけど、絶対に怪しいって」
「あなたの方が言ってることが滅茶苦茶よ」
その時、雲間から月明かりが俺たちを照らした。
しばらく振りに薄闇から解放された気分になる。
ちょうど木立の間を歩いていたので、前方の視界までくっきり見ることができた。
その時、目を疑うようなものが見えた。
「ん?」
「今度は何よ」
「いや、おきつの尻から伸びてる、あれはなんだ?」
アテルも目を凝らす。
「尻尾みたいね」
「確かにキツネの尻尾みたいだって、おいおい」
おきつが立ち止まって、くるりと振り返る。
「どうしました?」
「うん? なんでもないの」
アテルが笑って誤魔化した。
「なんでもないことないだろう」
「ちょっと黙って」
と言って、アテルが怖い顔をした。
おきつが不思議そうにこちらを見ている。
アテルが取り繕うように説明する。
「なんでもないのよ。さぁ、お家へ急ぎましょう」
おきつがこくりと頷き歩き出した。
俺はさらに声を小さくする。
「ありゃどう見てもキツネだろう。名前だって『おきつ』だし、ひょっとして俺たちキツネに化かされてるんじゃないのか?」
「そうみたいね」
と、アテルは平然と言ってのけた。
姉の方と話しても埒が明かないので、ハヤタに話し掛ける。
「おい、ありゃキツネだぞ」
「そうですね」
姉弟揃って同じ反応をしやがった。
「怖くないのかよ?」
「キツネといっても、子ギツネじゃないですか」
「そういう問題じゃないだろ」
弟の方も大概だった。
アテルが囁く。
「いいから、知らない振りをしてあげて」
この姉弟はどういう神経をしているのだろうか? 二対一で俺の方が異常な反応をしているように見えるが、キツネに化かされていると知りつつ後をついて行くなんて、どう考えても二人の方がおかしいはずだ。これだから多数決が信用できないのである。
そんなことを気にしている間に、キツネの家が見えてきた。これまた、森の中ではあり得ないほど立派な藁葺屋根の家だった。明かりがないので、家の中に人間がいないのは間違いなさそうだ。
「つきました。どうぞ、中へ入ってください」
おきつが可愛らしい笑顔で中へ招くが、どうしても尻尾に目が行ってしまう。
「お邪魔します」
そんなことを気にせず、アテルは中へ入って行った。
ハヤタも続いたので、俺も怖かったが入るしかなかった。
「真っ暗ね」
アテルの第一声だ。
「火は嫌い、……じゃなかった、火を起こすのが苦手なんです」
「いいわ、私が火起こしするね」
そう言って、アテルが火打石を取り出した。
しばらくして家の中に明かりが灯ったのだが、部屋の隅に目が留まり固まってしまった。
三人を代表してアテルが尋ねる。
「そこに寝ているのは?」
「おとうちゃん、じゃなかった、キツネさんです。どうやら怪我をしているみたいですね」
と、おきつは平然と答えるのだった。
アテルが深刻そうな顔をする。
「それは可哀想に……。ひょっとして、おきっちゃん、お腹が空いているんじゃないの?」
「はい。実は三日も前から何も食べていないんです」
「それはつらかったでしょう。いいわ、ちょうどここに干しイカとヒエがあるから、それでお姉ちゃんがお粥を作ってあげる」