第七話 母の着物
眠っていた子どもが目を開けたが、まぶたの重さに逆らえず、再び眠りに入ってしまった。見たところ五つか六つといったところだ。まだまだ父親が恋しいのだろう。眠い目で小屋の中を探す姿に胸が痛くなった。
若い母親が小声で語る。
「主人がいなくなってからなんですよ。それまで一度もおねしょなんてしたことがなかったのに、毎晩決まってするようになりました。目を覚ましている間は気丈な振りをしていますが、やっぱり寂しいんでしょうね」
若い母親の話が重たくなりそうなので、ここはアテルの代わりに俺が話し相手を務めることにした。こちらから尋ねるつもりはなかったが、母親が話すようなら、ちゃんと聞いてあげるのも礼儀だからである。
「ご主人はいつから?」
「もう、十日になりますね。いつ戻るか分かりません」
「舟での漁は大変だって聞きますからね」
主のいない寝床を見つめながら話す。
「漁そのものは楽しいって言ってましたよ。生まれながらの漁師ですからね。でも獲れた魚を通貨や雑貨に変えるのが難しいんです。一度でも網元さんと漁場や相場で揉めてしまうと、商いから締め出されてしまいますからね。そうなると誰も交易をしたがりません。というより、きっとあれは網元さんが村民にわたしたちと取引しないように通達してるんでしょうね」
若い母親の口調は穏やかだが、静かな怒りはひしひしと伝わってきた。簡単に説明していたが、これまで何度も奥歯を噛むような経験をしてきたはずである。それは何よりも、ぼろぼろの着物がすべてを物語っていた。
俺の村は助け合いが成立しているが、すべての村が理想郷というわけではない、というのは誰もが知るところだろう。特に交易で多くの富をもたらす地域ほど揉め事が多いと聞く。殺し合いで村が消えたり、名前が変わったりすることは昔から存在する事例だ。
この母親も言っていたが、一番つらいのは交易で相手にしてもらえないことである。集落ごとに特色はあるが、総じて横の繋がりが強固なので、交易を禁止するくらいは簡単に守らせることができるわけだ。
「ご主人は今どちらへ?」
若い母親が首を捻る。
「山奥に干物を欲しがっている村があると聞いて行ったっきりです。最近は商いをするにも山を越えなければなりませんからね。買い手が見つかっているといいんですが、それもはっきりしないのです。それどころか、無事に村へ辿り着けたかどうかも分かりません。なにしろ初めての道ですからね」
そこで黙ってしまうと、こちらとしては掛けてあげる言葉がなかった。
すると突然、若い母親が笑い出した。
「でも、十日も帰ってこないなんて、今までありませんでしたからね。ひょっとしたら、どこかへ逃げてしまったのかもしれませんよ。こんな生活、耐えられませんものね。男の人って、そうじゃありませんか。どこへ逃げようと、それなりにやっていけるんですもの。それで独り者の振りをして、今ごろいい人を見つけているのかもしれません。特にあの人は若い女が好きですからね」
あなたも若いじゃないですか、と言おうと思ったが、途中で見当はずれの言葉だと気がついて引っ込めた。そんなことを言っても、なんの慰めにもならないからである。こういう時は、どんな言葉を掛けてあげるべきなのだろうか?
女を捨てて村を出る男は昔からどこにでもいる。そう言う俺も里を出たので、偉そうに言える立場ではなかった。はぐれ者の男なら、いつ逃げ出してもおかしくないような生活環境だと思ったが、本音を漏らすのは残酷に思えた。
「どうか笑ってください」
若い母親は笑顔のままだったが、心持ちが変わったようで、今度は目に涙をためる。
「今は笑ってくださるほうが救われた気持ちになれるのです。だって、そうじゃありませんか。夫に逃げられたことも知らず、子どもにあてのない言葉を言い聞かせては、腹を空かせて十日も待っているんです。これほど滑稽な女は、どこを探してもおりません。今のわたしは、みなさんを笑わすことくらいしかできませんからね。話の種になることくらいしか価値のない女なんです。何かの役に立てるとしたら、やはり旅のみなさんに笑ってもらうしかありません」
笑えるはずがなかった。それなのに、掛けてあげる言葉が出てこないのである。慰めてやりたいという強い気持ちがあるというのに、どうにも言葉を発することができないのだ。それが悔しくてたまらなかった。
「笑いませんよ」
逡巡する俺の横で、アテルが若い母親に声を掛けた。
「私は笑いません。旅装で男の格好をしていますが、私は女です。あなたと同じ女なんです。ですから笑ったりなんかしませんよ。だってそうでしょう? あなたに起こることは、すべて私に起こることかもしれないんです。それでどうして笑うことができましょう? 今のあなたを笑うということは、明日の自分を笑うということにもなりかねないのです。それに滑稽な女というのは、あなたではなくて、あなたを笑う女のことを言うんですよ。明日は我が身ということを理解していないんですもの。あなたは決して滑稽な女なんかじゃありません。ご主人の帰りを信じて待っている女ではありませんか。あなたが信じているということは、ご主人は信じるに値する人だと思うのです」
若い母親の涙が床板を濡らしていた。
アテルを見て、何かを話そうとしているが、なかなか言葉が出てこない様子だ。
何度も何度もしゃくり上げていた。
アテルはじっと言葉を待ち続けた。
「……でも、わたしは夫を疑ってしまいました」
そこでアテルが女の手を握りしめる。
「疑わない人など、この世のどこにいるというのです? そんなことで、自分は人から笑われても当然の人間だと思うのですか? あなたは自分を罰することができる人間なのだから、それ以上は罰を受けようとしなくてもいいのです。夫を疑っただけで罪悪感を抱けるのだから、あなたは心が立派な方なのですよ」
着物はぼろぼろだが、流した涙は濁ることがなかった。
「旅の方、どうか教えてください。わたしは一体、これからどうしたらいいのでしょう? ほんとうのところ、わたしにも分からないのです。このまま夫を待ちたくても、これ以上は耐えて生きることができるかどうかも分かりません。これでは子どもと暮らすこともままならなくなります。それだけは、それだけは絶対に許すことができません」
アテルは、この問いにどう答えるつもりだろうか?
アテルがしばらく考える。
「それは私にも分かりません。なぜなら、あなたの問いに対する答えは、あなたの心の中にしか存在しないからです。あなたの心の中にしか答えはないのに、私が話したとしたら、それは私がでまかせを言っているということになりますよね。ですから、私は分からないと答えるしかないんです」
それがこの日の最後の言葉だった。
翌日、小屋の前で俺たち三人を見送る若い母親はすっきりとした顔をしていた。
「あれから一晩考えてみたんですけど、もう少しだけ夫の帰りを待ってみることに決めました。勝手な人ですが、黙っていなくなるような人ではないって思い出したんです。アテルさん、あなたと話をしていなければ、すべて悪い方へと考えるところでした。それで人生が好転したとしても、心に引っ掛かりを抱えたまま生きることとなったでしょう。わたしが望むのは、あの人となるべくすれ違わないようにするだけだったのです。幸いにして、まだまだ過ごしやすい時期ですし、しばらくはなんとかなりそうですからね。辛抱できる限りはしてみようと思います」
「そうですか、あなたがそう思うのなら、ご主人はそういう方なんでしょう」
そう言うと、アテルが荷を解いて着物を取り出した。
「これは私の母の着物です。着替えができるようにと持参したんですが、あなたに差し上げるので受け取っていただけませんか?」
「いえ、それは受け取れません」
「失礼なことをしているのは承知しています。私たち姉弟だって、他人様に施しができるような暮らしはしていないんですからね。それでも受け取ってほしいのです。なぜなら、この場に母がいたら、きっと同じことをすると思うからなんです。実を言うと、昨夜から心の中にいる母がそうしろと命じているのですよ? もう、うるさいくらい叱るのです。だったら、子は母に従う他ないじゃありませんか」
アテルの微笑みに、若い母親もつられて笑顔になる。
「ありがとうございます。それでしたら、わたしのお願いも聞いてただけませんか?」
そう言うと若い母親は小屋へ入り、干しイカを持って戻ってきた。
「着物を受け取る代わりに、このイカをお渡しします。商い用の乾物なので長旅にはうってつけではありませんか。というのも、夫が帰ってきたら、着物を見て何を言い出すか分かりませんもんね。男というのはやきもち焼きで、こっそり邪推して、勝手に癇癪を起しますから。そういうわけで、着物は商いで手に入れたことにしておきたいのです」
「そういうことでしたら、着物と干しイカを交換しましょう」
交換品の相場が合っていないが、どうやら交易が成立したようだ。
アテルが着物の替わりに干しイカを受け取る。
「邪推はよくありませんからね。あなたが言うのなら、ご主人はそういう方なんでしょう」
やきもちや邪推は女の領分だろうに、と言おうと思ったが、意気投合した女たちの会話には割って入らない方がいいと心が命じていた。これは俺の心の中にいる父親の教訓で、必死にやめておけと言っているのだった。