第六話 漁村の母子
都まで無理のない行程で歩を進めようと考えていたが、ここからは先を急ぐ必要がありそうだ。話を聞くだけで実感していなかったが、姉弟の母親の状態は深刻で、いま一番に考えるべきはその日の疲れではなく、都にいる母親のことだからである。
「これを持っていくがいい」
翌朝、シャタンさんが持たせてくれたのは白米のお結びだった。混ざりっ気のない白い米は、俺の家ではほとんど口にできない代物だ。さらに竹細工の水筒まで用意してくれていた。姉弟が持参した物に比べて大きさが倍は違うので、これも高価な品である。
「何から何まで用意していただき、なんてお礼を言っていいのか……」
「なに、無事に帰ってきてくれたらそれでいい。今度はじっくり馬の話でもしようや」
シャタンさん一家の笑顔に見送られてコクワ村を出た。この日は海が見えるところまで行く予定だった。先を急ぐとはいえ、道なき道を行くわけにもいかないのは、渡れないような川に出くわしただけでも時間を無駄にするからだ。
コクワの森もそろそろ冬支度に入る頃だった。葉が枯れる前に赤く燃え上がるが、それまでにはまだまだ余裕はありそうだった。それでも迫りくる紅葉とは、都へ着くまでの競走になるだろう。追いかけられる立場だが、速度を保つ目安にはなりそうだ。
「ねぇ、どうしたの?」
アテルが流星号の上から声を掛けた。
「何が?」
「今朝になって急に黙り込むから」
「いや、だってそこまで悪いとは思ってなかったから……」
「それって私のお母さんのこと言ってるの?」
「他に誰がいるんだよ」
「あのね――」
アテルの口調がきつい。
「あなたが黙っていたって都にいるお母さんが急に良くなるわけがないんだよ。都へ行くまで二十日も掛かるんだから、あなたはあなたで、いつも通りにしてればいいの」
確かにその通りだ。昨日の夜からずっと胸の辺りが苦しくて、朝飯にいただいた干しエビの粥を口に入れても、ちっとも味がしなかった。頭の中は母親の病気のことばかりで、俺自身も病気になったような感覚になるのだ。
だから今のアテルの言葉はありがたかった。俺よりもつらい思いをしているはずだが、この姉弟には前向きな気持ちすらなく、ただひたすらと平然としているからだ。そこは素直に見習うべきだろう。しかし一つだけ気になることがあった。
「いつも通りって言うけど、俺にとってのいつも通りって何だろうな?」
「ぺちゃくちゃ喋ることでしょ」
それがアテルの俺に対する印象のようだ。これは自分でも自覚している部分でもあった。喋る相手が目の前にいなくても、一人で壁や天井に向かって会話をするほどである。母親に気持ち悪がられるけど、どうしても直すことができない癖だった。
見晴らしのいい丘の上に出たので、そこで昼飯を摂ることにした。シャタンさんからいただいた真っ白い米のお結びだ。味わいはもちろんだが、それより俺たちよりも早く起きて用意してくれた奥さんの気持ちの方が喜びは勝っていた。
「白米のお結びなんて春の祭事以来だよ」
アテルが噛みしめるように食べた。
「母親が病気だって言えば、これから毎日白い飯が食えるかもな」
「お母さんを使って不謹慎なこと言うのやめてくれる?」
「ごめんごめん」
謝ったものの、さっきは黙っていて怒られ、喋れば今度は不謹慎だと怒られるのだから、本当に世の中は窮屈極まりないものだ。これで愉快になる会話だけを求められるのだから、考える方はたまったもんじゃない。
流星号にもしっかり食事を与えたところで、今度はハヤタが騎乗する番になった。
「僕は歩けるだけ歩くから、僕の分は姉さんが乗りなよ」
「いいの?」
「うん」
アテルが遠慮しないということは、ハヤタは特に無理をしているわけではないということなのだろう。こういう表情を読み取る会話は、普段から一緒に暮らす身内にしか分からないことなので、俺が心配しても仕方がなかった。
それにしても、今日初めて発したハヤタの言葉がこれである。姉さん思いは良いことだが、いつかくだらないことも喋らせてみたいと思った。いや、それよりも一度じっくり話してみるのが先だろう。
「海だよ!」
馬上のアテルが叫んだ。
見ると、森を抜けた途端、目の前に青が迫ってきた。
見渡す限り、何も視界を遮るものがなかった。
と思ったら、ハヤタが笑いながら浜辺へと全速力で走りだした。
「あいつ笑ってたぞ?」
アテルの弟を見つめる眼差しがやさしい。
「あの子、海を見るのが初めてなのよ」
背の高い男だが、波打ち際で遊ぶハヤタは幼子のようだった。寄せてくる波を除け、返す波を追いかける。それでときどき大きな波に足元を掴まれていた。どこにでもいる子どもと同じことをしているのだが、それを見て、なぜだか安心することができた。
少し歩くと浜辺の先に漁村が見えてきた。本来なら一泊するところだが、まだ日が高く、先を急いでいるので立ち寄らずに通過することにした。集落の外れに住んでいる人もいるので、日があるうちに行けるところまで行き、頃合いを見て宿をお願いするつもりである。
余談だが、集落から外れて暮らすには訳があると聞く。みんながみんな村の決まりを守るわけではないし、守れなければ爪弾きにされることもある。村の決まりに問題がある場合もあれば、村人に問題がある場合もあり、理由は様々だそうだ。
「ねぇ、大丈夫なの?」
アテルが不安そうだ。
「おかしいな。三年前に通った時はもっと民家があったと思ったんだけどな」
「都から帰ってきた時はどうだったの?」
「帰りは林道を馬で走ったから見てないんだ」
アテルの返事はなかった。辺りはすっかり暗くなり、月明かりしかないので表情から心の機微を読み取るのも難しい。おそらく頼りなく思っていることだろう。そのがっかりした顔を見ないで済むのだから、明かりがないというのも悪くなかった。
「民家なら、あそこに見えているじゃないか」
振り返ると、ハヤタが浜辺の先を指差していた。
「家の中から明かりだって漏れてるよ?」
そう言われても、俺の目には何も映っていなかった。
「目がいいんだな」
声を掛けるとハヤタは俯いてしまった。これは顔が見えなくても照れて赤くなっているのが分かった。そんな会話をしている間に、アテルは一足先にと馬を走らせていた。昨日の今日で完全に乗馬を習得してしまったようである。
小屋の前に着くと、中からアテルが出てきて、口元を人差し指で押さえた。
「静かにして、子どもが中で寝てるの」
若い母親が家の中から声を掛ける。
「大丈夫ですよ。うちの子は一度寝入ると朝までぐっすりなので」
家の中には眠っている子どもの他に誰もいなかった。
「どうぞ、上がってください」
比較することではないが、昨夜泊まったシャタンさんの家屋と違い、どちらかといえば俺の馬小屋にそっくりだった。ただし大きく違うのは、俺には家族で暮らす母屋があるが、この若い母子にはそれがないということである。
若い母親は明るい表情を見せているが、着ている着物はボロで、どこを探しても替えの着物があるようには見えなかった。ちゃんと食べているのか心配になるほど痩せぎすで、目につく食料は吊るされた干しイカくらいだった。
「こんなものしかありませんが」
差し出されたのは白湯で、俺たち三人は火鉢を囲みながら、それをいただいた。
「ここを出て、裏手を少し歩いたところに空き家になった小屋があるので、今夜はそちらを使ってください」
アテルが尋ねる。
「誰も住んでいないんですか?」
若い母親が力のない小さな声で答える。
「少し前に出て行きました。いま残っているのは、わたしたちを含めて三世帯だけですね。そろそろ冬になりますし、それも仕方のないことです。わたしも、もうこれ以上は辛抱できるか分かりませんしね。でも……」
若い母親がため息と一緒に言葉を吐き出した。ため息をつくのも無理のない話だ。集落から外れて暮らすというのは簡単なことではなく、食糧難に陥るし、なにより身の危険があるからだ。
「そうですか……」
アテルは詮索するようなことはしなかった。
「それでは遠慮なく使わせていただきます」
それで良かった。そうするしかないからだ。たとえ身の上話に興味があっても、ここは尋ねない方がいいに決まっているのだ。なぜなら、聞かされたって俺たちには何もしてやれることがないからである。だったら知らぬまま別れた方がいいというわけだ。
「おとうちゃん?」
話し声に子どもが起きてしまった。