第四話 再び都へ
馬小屋へ引き返し、急いで荷をまとめた。べつに急ぐ必要はないのだが、あの姉弟が勝手に心配して、勝手に動かれては面倒だからである。荷物といっても身体を冷やさないために重ね着できる着物と干し魚があれば充分なので、準備に手間取ることはなかった。
鍋はあの姉弟が持っているようだし、この時期なら山に入れば食糧に困ることはないはずだ。それでも火打石と短刀くらいは自分のものを持っていった方がいいだろう。というのも、案内を約束したが、都まで一緒に行くとは言っていないからである。
馬小屋を出る時、何か忘れていると思ったが、母親に挨拶していないことに気がついた。それで都へ行くことになったことを伝えると「いってらっしゃい。気をつけて行くんだよ」と、簡単な言葉が返ってくるだけだった。
思えば、母親がこんな調子だから俺も気軽に都へ行こうという気になれたのだろう。口が悪く、やかましいところがあるが、好きなことを好きなだけさせてくれる、俺の性格に合った唯一の母親だ。
「へぇ、立派なお馬さんね」
姉弟と合流して、ついて出たアテルの言葉がこれだった。
最近、馬を褒められると自分が褒められたかのように嬉しくなるのだが、そんな感覚は馬の世話をするまで味わったことがなかった。それが仕事をするという意味なのかもしれない。
「この子、なんて名前?」
「そんなものあるわけないだろう」
アテルが俺の言葉に腹を立てる。
「どうして無いの? 名前をつけてあげないと可哀想じゃない。……そうだ、だったら私がつけてあげる」
そう言うと、アテルは馬をじっくりと観察し始めるのだった。
アテルが馬を優しくさする。
「うん、牝馬ね。きれいな栗色をしている。毛並もサラサラしていて美しい。利口そうな顔をしているから、ひょっとしたら私たちの言葉が分かるかも? そうね、白いたてがみが流れるように生えているから、流星というのはどう?」
「流星号か、悪くないな」
「じゃあ決まり。あなたは今日から流星よ。都まで私たちを連れて行ってちょうだい」
アテルに首を頬ずりされて、流星号が照れているように見えた。
それは構わないのだが、アテルの言葉で一つだけ気になることがあった。決め事は早いうちに言っておいた方がいいだろう。
「最初に断っておくが、都まで案内するといっても、俺は都の中までは入らないからな。都の手前に大きな宿場町があるから、案内するのはそこまでだ。あとは道が一本で、人の往来も多いから迷うこともないだろう。そこまで行くのも結構な距離だし、あとは自分たちで両親を見つけてくれ」
アテルが俺の顔をまじまじと見る。
「都を嫌う理由でもあるの?」
勘の鋭い女だと思ったが、俺が都を逃げ出したのは川の上流にあるオオワシ村にも届いているはずだ。だからといってペラペラと語る必要もないだろう。今は何を喋っても、すべてが言い訳になるからだ。
「とりあえず出発しよう。こんなところで話していたら、あっという間に日が暮れちまう」
アテルが何か言いたげだったけど、無視することにした。
流星号に荷を担がせ、初めに馬に慣れてもらうため、アテルを騎乗させることにした。アテルの手綱さばきが上手いのか、それとも流星号が人を乗せるのが上手いのかは分からないが、初めてとは思えない乗りこなしだった。
馬に乗るのは一人と決めていた。二人で乗れないこともないが、二人乗りでは馬の方が最初にへばってしまうからだ。歩くことはそれほど苦ではないし、荷が軽くなっただけで充分なのである。
行商人によると、都まで二百里の距離があると聞いたことがある。この地帯に目印となる一里塚は設置されていないが、日の出から日没まで歩けば、少なくとも十里は歩けることが過去の経験から分かっていた。
早い人なら半分の日数で行けるだろうが、三人ならば、やはり二十日はかかるだろう。それでも一度経験してしまえば大したことのないように感じるから不思議なものだ。経験する前は怖くて仕方がなかったのだが、それも今はもう感じることができなかった。
「しかし地元で道に迷うか?」
アテルが口を尖らせる。
「仕方ないでしょ、……道に迷ってしまったんだから」
アテルが恥ずかしそうに俯くが、騎乗しているので照れた顔を隠せていなかった。
「オオワシ村からの道に迷い道なんてないだろうに」
「僕がいけなかったんだ。日陰の方が過ごしやすいと思って森に入ってしまったから、それで方向を見失ってしまったんだ。だから姉さんは悪くない。お願いだから、それ以上、姉さんを責めないでください」
誰が話したのかと思ったら、後ろを歩いているハヤタだった。思い返すと、ハヤタが口を開いたのはこの時が最初だった。大ババ様の家でも名前すら名乗らず、すべてアテルが代わりに喋って弟の分まで挨拶していた。
といっても、村では無口な男の方が好まれる傾向にあった。いささか古い価値観だが、美徳とでもいうのか、むやみに言葉を発しないのが尊いとされているのである。俺みたいに口答えの多い男は守り神すら愛想を尽かす、というのが昔から村に残る考え方だ。
「ハヤタ、お前も喋れるんだな」
笑いながら振り返ると、顔を赤くして俯いてしまった。血が繋がっているということもあり、その仕草や反応がアテルとそっくりだった。そのアテルはというと、若村長よりもおっかない目で俺を睨んでいた。
「弟をからかうのは止めてって言ったでしょ」
「すまない。もう止める」
注意されたのはこれで二回目だった。村の女たちは男より寛容だが、同じ注意は二回までというのが、俺がこれまでの人生で得た教訓だ。同じ過ちを三回繰り返すと、人が変わったかのように嫌われてしまうからである。
「しかしだな、二人もいて道に迷うというのは、ちょっと頼りないぞ」
俺の言葉にアテルが言い訳する。
「それはそうだけど、頼りないのとは違うのよ。弟はこれまで何度も死んで、何度も生き返ってるんだから、ねっ」
声を掛けられたハヤタは照れるでもなく、すまなそうな顔をした。
誰にともなく尋ねてみる。
「意味が分からないな。死ぬことはあっても、生き返ることなんてあるわけがないだろう?」
弟の代わりにアテルが思い出しながら答える。
「色々あったけど、一番みんなを驚かせたのは二年くらい前の熊狩りね。弓の腕を買われて大人たちに混ざって山に入ったんだけど、一人だけはぐれてしまい、まだ十一ということもあって、もう助からないと誰もが諦めてしまったの。だって村の大人が総出で捜索したんだけど、それでも見つからなかったんだもん。それでハヤタは神様のところへ帰ってしまったと思ったの。ところが突然、ふた月もしてから村に戻ってきたのよ。すごいでしょう? だってその頃には初雪も降って、冠雪だってしてたんだから、助かりようがないじゃない」
「へぇ、そいつは大したもんだ」
口をついて出た言葉は軽いが、想像しただけでも、それがいかに大変なことか俺でも分かった。特に飢えと寒さだけは我慢できないからだ。自分なら三日ともたなかったことだろう。ましてや子どもだ。アテルの言う通り、死んで生き返ったとしか思えなかった。
「どうやって帰ってこられたんだ?」
尋ねてみたが、振り返ってもハヤタは答えてくれなかった。
「この子、話したがらないのよ」
これにはアテルも残念がっていた。
「俺がもしハヤタと同じ経験をしたら、得意になって自慢するんだけどな。みんなが俺の周りに集まってさ、目を輝かせて話をせがむんだよ。で、若村長だけ苦々しい顔をしてるんだ。どうだ? 想像しただけでも笑えるだろ」
アテルが得心する。
「ああ、だから弟は話したがらないのね」
「だからとは、どういう意味だ?」
「あなたみたいにならないようにでしょう?」
「そうなのか?」
振り返るが、やはりハヤタは何も答えてくれなかった。
「なぁ、ハヤタよ、旅のお供をしているお礼といっちゃなんだが、その時のことをお前の口から語ってくれないか? 俺だけにって言うなら誰にも話さないしよ」
そう言うと、ハヤタが唇を噛んで湿らせた。
「……誰かに話すようなことではないんです。ただ、今でも本当に悪いことをしたと思っていて、それはその、一人では食べきれないほどの動物たちを殺して、まだ食べられる肉を捨ててしまいましたから。……ああ、本当にすまないことをしてしまったな」
掛ける言葉が見つからなかった。お喋りを自負する俺でも言葉が出てこない時がある。それが今のように考え込んでしまう場合だ。でも、弟思いのアテルですら黙ってしまうのだから、それも仕方ないことなのだろう。
昔から村には、人間が口にする物はすべて神様からの贈り物とする考え方がある。動物や魚だけではなく、葉や木の実ですら感謝を捧げるのである。日頃は意識しないが、なんとなく、そのことを思い出してしまった。
時代は進むごとに新しくなり、古いことから順に忘れ去られていくが、ハヤタを見ていると、死んだジイ様のことが思い出される。ジイ様も寡黙で、勇ましく、正しいことを知る謙虚な男だった。
こういう時、きっと大ババ様なら悩んでいるハヤタに優しく声を掛けてあげることができるのだろう。なんとも情けない話だが、俺では駄目なのだ。いま口を開いても、安っぽくて嘘くさい説教めいた言葉しか出てこないことが目に見えているからである。