第三十九話 大ウサギ
翌朝、思った以上に雪が積もっていた。これは判断を迷うところだ。次に集落を目指すにしても、場所が定かではないので雪道を進めば迷ってしまうからである。数日前に世話になった集落へ戻るにしても、雪山となった道を歩くのは困難だった。
つまり俺たちは遭難したということだ。俺一人なら戻れなくはないが、三人を残して雪山で野宿などさせるわけにはいかなかった。それでも、ここには湯があるのでまだ生き延びる手はありそうだ。
一番の問題は食糧だ。山歩きをしながら食い物を調達しようという算段であったが、腹の足しになるようなものは手に入らなかった。動物の捕獲も難しく、残るは岩魚に頼るしかないが、それも魚影がなく、釣り具があっても捕まえられるか分からない状態だった。
「アテルとハヤタは?」
目を覚ますと火の番をしているのはナミルさん一人だった。
「枯れ木を探しに行きましたよ」
「こんな時にも」
「こんな時だからでしょうね」
「はい」
あの姉弟には、生きたいとか、死にたくないとか、そういった情感は一切感じられなかった。見せないだけかもしれないが、それこそ草木や動物たちと同じように思えてしまうのだ。ごくごく当たり前のことを自然にしている、といった感じである。
「すいません。俺がこんなところに連れてきたばっかりに」
「何を謝ることがあるのですか?」
「だって、都からそのまま里へ帰ればこんな目には遭わなかったでしょうし、俺の判断が間違っていました。山を甘く見過ぎていたんですよ。一人で都へ行けたからといって、いい気になっていたんです。それに三人を巻き込んでしまった」
ナミルさんは穏やかだった。
「イズルギや、それこそ思い上がりだとは思いませんか? 先のことなど見えなくても気にする必要はありませんし、過去を悔やむ必要もないのですよ。雪は降る時に降り、止む時には止むものです」
「それでも俺の状況判断が的確なら、冬が迫るこの時期に知らない山に行くことなんてなかった。旅装も充分でない上に、ナミルさんの身体がよくないことも知っていた。それなのに、それなのに俺はこんなところに導いてしまったんです」
ナミルさんの顔には、微笑みすら感じる。
「あなたが導いたのではなく、あなた自身も導かれたと思うことはできませんか? あの子たちがあなたと一緒にいたいと願ったように、私もまたあなたと一緒にいたいと願ったのです。時に自然は私たちの命を唐突に奪っていきますが、私たちもまた自然を唐突に奪っているので仕方のないことなのですよ。動物たちが抗うように、私たちも抗うこともありますし、自然がそうであるように、私たちも受け入れるしかない時もあるのです」
その夜、久しぶりに夢を見た。異常に腹を空かせていたからだろうか? 火の番をしながらウトウトしていたのは憶えている。そのせいか異様なほど現実的に感じられた。一人の少女が火にあたりに来たのだが、どこの誰かは分からなかった。
前にどこかで会ったことがあるような気もしたが、都に行ってから一度に多くの人の顔を見たため記憶が曖昧としているのだ。闇夜の中で炎の照り返しを受けているため着物の色も判別できなかった。分かるのは少女であることだけだった。
「ここは私が生まれた土地です。雪が深く、寒さは厳しいですが、とても素晴らしいところなんですよ。でもご先祖様はもっと南の、ここよりも暖かいところに住んでいたと聞きました。遥か昔の話ですけどね。人間による開墾が進み、その度に戦も起こり、私たちのご先祖様は争いを避けるために辺鄙な土地へと逃れました。そうです、私たちの方から危害を加えるということは一度もしたことがなかったのです。しかし辺鄙なところだからといって、暮らしているのは私たちだけではありません。多くの種が地上から絶滅してしまったと聞きました。その話を聞きながら、ああ、いつか私たちにも同じことが起こると、子どもながらに悟ってしまいました。祖父母が死に、父母が死に、残されたのは私一人でした。それでもどこかに仲間がいると思って山の中を走り回りました。でも、どこにも私に似た者を見つけることができなかったのです。本当の絶望というのは、そういうことなのではないでしょうか? 偉そうな口を利いて申し訳ないですが、あなたたちが感じる絶望など、私が経験している絶望に比べれば大したことなどないと思ってしまうのです。けれども、世の中というのは捨てたものではないですね。そんな絶望の底に落とされた私にも希望があったのです。きっとこれは神様からの遣いできてくれたのだと思うことができました。それが一人の少年だったのです」
なぜかハヤタの顔が思い浮かんだ。
「彼は言ってくれました。『僕が仲間を見つけてあげる』と。そして『決して一人きりにはしない』と約束してくれたのです。それがどれだけ嬉しいことか、今のあなたならば分かってくれますよね。その少年は約束を守る人でした。だから私も怖くないと思うことができたのです。命は限りあるものですし、種は決して再生できるものではありません。それでも恨み言なく終わることができたならば、せめてもの救いと思うことができるのです。これからも人間は多くの命を奪い、種を絶滅させていくでしょう。それは止められそうにありません。なぜなら、それすら自然による生命活動の一部でしかないからです。ですが、これだけは知っておいてもらいたいのです。人間は神様ではありません。あなたたちが崇める人間は、他の種にとって、ただ一人の奪う者にしか過ぎないのです。あらゆる生命は等しく奪う者であり、そこに違いがあるとしたら、命をいただいていることに気づけるか気づけないか、しかないのです」
夢の中だというのに、とても眠くなってしまった。この少女はどこの村から来たのか、近くに人はいるのか、そんなことを考えていたが、とにかく眠くて、それすらどうでもよくなってしまった。眠気にだけはどうしても克つことができなかった。
「イズルギさん!」
ハヤタに叩き起こされた。見ると大粒の涙を流しているのである。太陽はすでに昇っていたが、身震いするほどの寒さは変わらなかった。ハヤタの叫びに、アテルとナミルさんまで目を覚ました。
「これはどういうことですか? 何をしたんです?」
言われて状況を確認してみると、燃やし続けていた火が消えていた。しかしそんなことでハヤタは怒る人間ではない。そのわけは、火に焼かれたであろう、真っ黒になった大ウサギが死んで横たわっていたからだ。
「どうしてこんな姿に……」
「俺にもさっぱり分からないよ」
「火の番をしていたんじゃなかったんですか?」
「途中で眠っちまったんだ」
そう言うと、ハヤタは泣きじゃくってしまった。それに対して俺は黙っていることしかできなかった。大ウサギはハヤタが可愛がっていた動物だ。流星号と出会った俺には、その死の痛みは同じように分かった。
「ハヤタ――」
アテルがそっと声を掛ける。
「つらいかもしれないけど、このウサギの命を頂きましょう」
「どうして今、そんなことが言えるんだ」
初めて弟が姉に歯向かった。
「私たちは今、飢えているからでしょう?」
「イズルギさんは、そのために?」
俺にも初めて怒りを向けた。そこで俺は言い訳しようと思ったが、そんなことを言っても意味がないと思い、言葉を口にすることができなかった。それは、今日か明日には馬かウサギを犠牲にしなければいけないと考えていたからである。
アテルが代わりに答える。
「誰がやったかなんて関係あるの? 誰かのせいにして気が済むのはあなただけでしょう? 殺めたのが誰であろうと、私たちはウサギの命を頂くだけなの。だったら私を悪者にしなさい」
そう言うと、火起こしの準備に取り掛かった。アテルは強かった。俺という人間は、肝心なところで掛けてやる言葉が見つからない男だ。彼女の言う通り、今はこの肉だけが俺たちを生かす無二の命なのだから、俺が悪者になってでも言ってやるべきだった。
「いただきましょう」
火を起こして、焼き上げたウサギの肉を前にしても、ハヤタは食べようとしなかった。
ナミルさんが息子の手を取る。
「ハヤタや、どうするかは、あなたが決めていいのですよ。それまで母さんも一緒に側にいてあげますからね」
そう言うと、ハヤタはしばらく黙っていたが、やがて泣きながらウサギの肉を口にした。ナミルさんも涙を流しながら肉を食べ、アテルも嗚咽を漏らしながら肉を食べ、俺も泣きながら肉を食べた。
それから大ウサギの肉で食い繋ぎながら、初雪が解けるのを待った。本格的な冬はまだ先なので、こういう場合は無理して動かない方がいいのである。必ず暖かく過ごせる日が来るからだ。
「イズルギ!」
崖の上から俺の名を呼ぶ男が現れたのは、それから三日後のことだった。
「ツバクロちゃん!」
アテルが満面の笑みで手を振った。声を掛けられたツバクロは手を振り返し、雪が積もった岩山だというのに、それをものともせずに崖上から勢いよく駆け下りてきた。あっという間の再会である。




