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第三十八話 地獄谷

 北方に位置する俺の村から南方にある都へ行くには二つの道がある。分かれ道となる中央の山脈を東に行けば近いが、西に行けば遠回りとなる。それでも帰れなくはないが、西側は豪雪地帯と聞いているので、雪が降る前に村へ戻りたいところだった。


「見て! 湯気が立ち込めているよ」


 渓谷の底の岩場に温泉を発見したアテルが喜んだ。どうやら猿爺の言葉は本当だったようだ。食料も不足しつつあるので早く集落を見つけて世話をしてもらえる人を探したいところだが、今日くらいはゆっくりしてもいいだろう。


「極楽谷と言ってたけど、雰囲気はまるで地獄の底のようね――」

 アテルはやはりいつも正しかった。それが正式な地名である。

「ハヤタ、早速お母さんと一緒に湯に浸かってくるから、その間に火を起こしてくれる?」


 そう言うと、アテルは母親を連れて岩場の陰へと向かった。北国生まれなので寒さには強いが、それでもそろそろ身体に堪えてくる頃だ。とにかく暖を取らなければ却って身体をおかしくしてしまうのである。


「どうした?」

 ハヤタがじっと空を見ていたので尋ねてみた。

「いえ、雪が降るんじゃないかと思って」

「やっぱり感じるか?」

「はい。念のため枯れ木をできるだけ多く集めてきますね」


 例年だと初雪が降るのはひと月も先だが、初めて訪れた土地なのでこれまでの経験が頼りにならなかった。それでも雪が降りそうな感覚を肌で感じることはできた。ここ最近、暖かかったのが逆に不安になるのだ。


 崖下に横穴を見つけたので、今夜はそこでゴザを敷いて眠ることにした。それならば雪が降っても暖を取り続けることができるからだ。風除けにもなるので、ナミルさんの身体に負担が掛かることもないはずだ。


「ああ、やっぱりここは極楽だったのね――」

 湯上りのアテルが喜んでいる。

「今まで生きてきて一番幸せを感じることができた。きっと私たちは、ここへ辿り着くために生まれてきたのよ」


「大袈裟だな」

 とは言いつつ、その言葉に救われた気がした。


「大袈裟なもんですか。だって、あのお母さんの笑った顔ったら。きっと、幸せっていうのは、大切な人の喜ぶ顔を見ることで感じられるものなのね」


 アテルらしい言葉だった。でも、そんな俺も同じ気持ちだった。アテルの幸せそうな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。それが生き物たちによる生命活動の源流のような気がしてしまうのだ。


「さぁさ、夕飯の支度は私がするから、あなたたちも入ってきなよ」


 地獄谷の湯はすべてを忘れさせてくれた。そうだ、今の俺には何もかも忘れることが必要だったのだ。この湯に浸かるまで、俺は世俗にまみれすぎた。それで自分は何者か分からなくなっていたのだ。


 世俗とはつまり、俺のことである。都で金塊に群がる者たちを蔑んで見ていたが、あれは俺以外の人間が富むのを妬んでいただけだ。それを自分は清廉な振りをして、愚か者と心で罵倒していたのである。


 交易を学ぶために都へ行ったというのも、今となってはそれが本当の動機だったかも怪しいものだ。俺は単純に盗めそうな金貨を探しに都へ行っただけなのではないか? 役人が落とした財布を拾うために都をウロウロしていたようなものだ。


 どこかで戦が起これば、兵士の後を追って、終わった頃になって戦利品を探すのだ。死体から衣服を剥ぎ取り、金になるものはなんでも拾う。他人を否定していたが、それは先に拾われるのが嫌だっただけではないか。


 戦が憎いと言いながら、戦乱の世を望んでいるのはどこのどいつだ? 楽をして盗みをしようとしている、この俺ではないのか? 武具が金になる商いだと知って、ほくそ笑んでいるのはどこのどいつだ? この俺ではないか。


 すべて俺の心のうちにある。それを実行していないだけで、実際にやっている人間となんら変わりないのだ。その違いは、先を越されたと妬んでいるだけなのだ。そんな俺が、どうして人とは違うと言い切れるのだろうか?


 ここは地獄谷。その名は俺にこそ相応しい。やっと認めることができたのだ。俺は愚かな人間と軽蔑している者たちと、何も変わらないということを。ここで変わらねば、地獄に来た意味がなかった。


「ハヤタよ、他の者には本当のことを言えなかったが、ここは極楽谷ではなく、地獄谷と呼ばれているところなんだ。黙っていて、すまなかった」


 ハヤタが笑った。

 湯に浸かっている気持ちよさだけではないだろう。


「何がおかしいんだ?」

「だって、その地獄で母さんや姉さんが笑っているんだもの」


 それを聞いて、俺も笑ってしまった。

「お前たちが特別なのだろう」

「それはイズルギさんが特別だと思ってくれているだけですよ」

「お前は世の中にあるすべての答えを知っているように感じるな」

「それもイズルギさんが僕を通して、または僕を鏡のように見て、そこから答えを見つけようとしているからではありませんか?」

「お前の中に答えはないと?」

「はい。僕の中にはありません。すべての答えはこの世の中にあるんです。僕はその中の一つでしかありませんよ」


 その言葉に、しばらく考えてしまった。


「お前はなんていうんだろうな、こう、影響力のある、そう、多くの者にとっての答えになれる人物のように思えるんだがな。現に賊から母親の命を救い、あの巨大な亀を再び眠らせることができたじゃないか」


「母さんを助けることができたのは弓矢の力で、亀を眠らせることができたのは居眠り草のおかげです」


「そうは言っても、弓を引いたのはお前の意思ではないのか?」


「その意思も突き動かされたものなので、僕のものではないんです。弓矢だって誤って使えば、巡り巡って己の身体を射抜くことでしょう。その答えとなる判断は、やはり世の中に委ねるしかないのです」


 悪党から母親を守ったというのに、それでも己が絶対に正しいとは思っていないということだろうか? 純真無垢に見えるハヤタですら葛藤しているのだ。いや、違う。葛藤ではない。己を絶対に正しいとは思い込まないようにしているということだ。


 彼もまた、地獄谷へと呼ばれた人の一人にすぎないということか。そう思うと、急に気持ちが軽くなった気がした。行いの立派なハヤタですら己を絶対視していないのだ。だったら俺だって、これからも常に自分を疑って生きればいいのである。


 心に反することをしないだけでも、思い悩むことは減っていくかもしれないのだ。もし迷うことがあれば、その時は何度でも地獄谷へと来ればいい。そうすれば心のうちにある醜い心と向き合えるかもしれないからだ。


「雪です」

「やっぱり降ったか」

「こちらの雪は花弁のように大きいですね」


 急激に気温が下がったと思ったら、真冬の時でも珍しいくらい大粒の雪が降り出した。根雪にはならないと思うが、旅を続けるのは困難を極める。ただでさえ悪路なのに、雪道だと稼ぐ距離にも影響が出るだろう。それでも今夜はじっと耐えるしかなかった。


「積もりそうね」

 湯上りに崖下の横穴へ戻ると、アテルが心配そうに呟いた。


「朝までずっと降りそうだな」

「どのくらい積もるかな?」

「積もっても、すぐに溶けるほど気温が戻ればいいんだけどな」

「そうね」

「進むか戻るかは、明日の朝考えよう」


 それ以上、会話は続かなかった。夕飯も降り続ける雪を見ながら食べ、そのまましばらく暖を取っていた。さすがにこれまでの冷え込みとは違い、痛みを伴う寒さとなっていた。これではナミルさんの身体に障ると思ったが、その表情は以前と変わらなかった。


「俺が火の番をするから眠ってくれ。代わりは気にしなくていいから、とにかく眠るんだ」


 こういう時は、気を遣ってくれない方がありがたかった。明日以降の行動にも影響が出るし、休めるうちに休んでくれた方が、結局は助けになってくれるのだ。そういうのは同じ地域で暮らす人間なら分かり合えることである。


 明け方前にハヤタが火の番を代わってくれた。彼もまたしっかり睡眠を取り、変な気遣いを見せることなく過ごしてくれた。その時点で歩くのも困難なくらい雪が積もっていたが、俺もしっかり休むことにした。


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