第三十七話 ハヤタの弓矢
海が夕陽に染まっている。
「おーい、こっちだ!」
大亀に向かって叫んだ。
言葉が通じるかは分からない。
落ちていた布を拾って旗のように振ってみた。
大亀の気を引くためである。
そして、いよいよ、その時が来た。
大亀が一番街道の軌道に乗ったのだ。
真っ直ぐこちらに向かってくる。
布を首に巻いて外套のように羽織った。
大ウサギに跨り、出発の時を待つ。
苦しそうな大亀が背後に近付いてくる。
浮島だったはずの巨体が眼前へと迫りくるのだった。
「よしっ、行くぞ!」
合図と共に大ウサギが走り出した。
向かうはハヤタの元だ。
振り返ると、大亀はたなびく外套を追い掛けるようにして、ついて来た。
大ウサギが懸命に走っているというのに、その差が徐々に詰まって行く。
地面から伝わる振動も大きくなってきた。
怖くて堪らなかったが、大ウサギは真っ直ぐハヤタの元へと走った。
前方にハヤタの姿を確認できた。
少年はこちらに向けて弓を構えている。
ハヤタの秘策とは、弓矢を放つことだったようだ。
しかし、相手は熊とは違うのだ。
この巨大な亀に弓矢や槍が通用しないのは、道端で死んでいる兵士が物語っている。
ハヤタには何が見えているのだろうか?
正面に迫りくる巨大な亀が怖くないのか?
圧死した人の姿が目に入らぬというのだろうか?
ハヤタは狙いを定めたまま動かなかった。
大ウサギが少年の脇をすり抜ける。
そのまま浜辺に突っ込んで、急いで振り返った。
少年は逃げずに大亀と対峙していた。
弓を持つ左手の拳が天へと伸びる。
雷が地から天へと昇っていった。
その瞬間、時が止まった。
まるで世界が終わったかのようだ。
突き上げた拳が天を割ったのか?
いや、違う。
亀から生気が失われていた。
ハヤタは巨大な亀を一矢で仕留めたのである。
しかし、このままでは亀に押し潰されてしまいそうだ。
全身の力を失った亀が崩れ落ちていく。
ハヤタに逃げる時間はなかった。
その時、星が流れた。
いや、違う。
流星号に乗ったアテルがハヤタを拾い上げ、海岸通りを走り抜けたのだった。
姉は約束通り、弟を助けたのだ。
気がつけば、俺は浜辺で膝をついていた。
今さらになって怖くなったのだ。
震えが止まらなかった。
馬に乗ったアテルがこちらに向かってくる。
笑顔なのは、命が助かったからではなかった。
俺がションベンを漏らしているのを知ったからだ。
「誰にも言うなよ?」
「洗ってあげるから、私に隠し事はしないでね」
ハヤタは巨大な亀の頭に向かって何やら話し掛けている。
「熱かったろう。誰も知らなかったんだ。それが一番よくないことなんだね。ごめんよ。これは居眠り草といってね、よく眠れる薬が塗ってあるんだ。だからゆっくり眠ればいいんだよ。ゆっくり眠った後は、元の場所へ帰るといい。もう、誰も火をつけたりなんかしない。そこで、もう一度好きなだけ眠ればいいんだ」
そうだったのか。ハヤタは矢先に居眠り草を塗り込んで弓を放ったのだ。巨大な亀にも効くという根拠はないが、至近距離から喉元を射抜けば薬が早く回るかもしれないと考えたわけだ。一か八かの賭けではあるが、ハヤタにとっては自然なことのようだ。
ハヤタは何も言わずに笑った。夕暮れ時の笑顔は寂しさではなく、夜道を照らす月のような侘しさなのかもしれない。それは俺のような暗い人生を歩んでいる人間にとっては、何よりも希望を感じさせるものだった。
それから日が沈む前に、ナミルさんたちが待つ丘を目指した。帰る道すがら、アテルとハヤタに父親が見つからなかったことを伝えたが、表情を変えずに、黙って俺の話を聞いているだけだった。もうすでに覚悟をしていたということなのだろう。
丘へ戻ると都からの避難民で溢れて返っていた。煮炊きをする者や、ゴザを敷いて床に臥せている者もいる。すべてを失った者の方が多いだろう。なんの保証もない時代である。地主でもなければ財産など持ち合わせていない者ばかりだ。
しかし、こういう時こそ役人の力が試されるものだ。住む場所を失い、明日の食事さえもままならない者が多くいる。その者たちを見えない者として無視を決め込むか、知っていて金塊を持ち逃げするか、そこに千年の計が左右されるわけだ。
私財を投げ打つ必要はないのである。大事なのはどれだけ共に歩めるかであろう。他国や地方から来た者でも、都で子を持てば、子孫は都生まれの者となるのだ。そこに生まれてしまえば、たった一代でも土地に愛着を抱くことになる。
それをどうして否定できようか? 生まれてしまえば役人も町民もないのだ。どの子も生まれた国を母のように思うはずだ。いや、それは俺の願望だが、生まれた国なら、それくらい大事に思っても悪くないはずである。
急に村に帰りたくなった。これは俺だけではなく、アテルたち家族も同じ思いだったようだ。ただ違うのは、父親のイサクさんはまだどこかで生きていると考えているということだった。
「ならば、おれが兄貴を見つけて村へ連れて帰るよ」
話し合いの末、カバジさんが都へ残ることとなった。
「いいの? 叔父さん」
アテルの言葉にカバジさんが頷く。
「ああ、お前たちは冬が来る前に帰った方がいい。都がこうなってしまった以上、ここで暮らすのもままならないだろう。なに、兄貴はきっと見つかるさ」
それから丘の上で一夜を明かした後、俺とアテルとハヤタとナミルさんの四人は、日の出と共に都を出た。ナミルさんが大ウサギに乗って、アテルは流星号に騎乗した。食料は乏しいが、都は難民で溢れ返っていたので贅沢は言えなかった。
丘を旅立つ時に海岸の方を見たが、ハヤタの言葉通り、巨大な亀は元いた場所に帰っていた。遠くから見ると昨日の朝までの浮島と変わらず、あれが都を徘徊した生き物とは到底思えなかった。
しかし焼野原となった都の惨状を見ると、現実に起こったこととして受け入れなければならなかった。家族を失った者がいて、仕事や家屋を失った者もいる。俺たちができることは指を組んで手を合わせることくらいしかなかった。
「その湯治場って、ここから遠いの?」
アテルの問いに、どう答えるべきだろう?
「俺も初めての道だからな、距離は六十里というからそれほどではないが、行きの道のりよりも大変なのは確かだろうな」
「でも、極楽谷なんて名前からして身体に良さそうね」
アテルはニコニコしているが、「本当の名前は地獄谷だ」などと言えなかった。
「あんまり期待するなよ」
「あらどうして? 湯治が身体にいいって、あのおじいさんも言ってたじゃない」
アテルはお師さんのことを言っているのだが、地獄谷の話を聞いたのはおじいさんでも、ペテン師の猿爺の方だ。酔っ払いが酒欲しさについた嘘だろうが、それも本当のことが言えなかった。
「湯に浸かったくらいで病気が治れば医者はいらないんだ。それなら水蜜桃みたいな食べ物の方が身体に良さそうなんだけど、あったら誰も苦労しないよな」
「どうしてそんな悲観的なことばっかり言うのよ」
「そりゃ、ガッカリしないためだ。俺はな、これから用心深く生きるって決めたからな」
「たとえ信じても、後悔しなければべつに騙されたっていいじゃない」
「いいよ、べつに。あとで文句を言わなければさ」
「そんなこと言わないよ。私たちはあなたについて行くって決めたんだから」
アテルが上機嫌ならば、それで良かった。
「ツバクロちゃんも誘ってあげれば良かったわね」
「ああ、そうだな」
ツバクロの野郎に騙されたことも、まだアテルたちに伝えていなかった。あいつに騙されなければ、俺はこんなにも悩む必要はなかった。あの口からでまかせ野郎のせいで、俺はアテルに嘘をつかなければいけなくなったのだ。
馬が勝手に走り出して海賊団を見つけるなど、そんな偶然などあるはずがないのだ。都合が良すぎるにもほどがある。しかし、それを見抜けなかった時点で俺の方が悪いのだろう。あいつのような人間は世の中に腐るほどいるのだ。
笑顔で近づき、友達のふりをして仲良くなる。俺が寝ている間に黄金のありかを嗅ぎ回っていたのだ。一緒にいたのは顔通しに有効なオオワシの羽根が目当てだったのだろう。結局は俺を利用しただけなのだ。
地獄谷に向かっている間、俺は何度も何度もツバクロのことを考えてしまった。考える時間すらもったいないと結論付けても、何度も何度も同じことを繰り返し考えた。もう、そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
そうしているうちに、都を出て七日目の昼に、とうとう地獄谷らしき場所へ辿り着くことができた。山間の、見るからに自然が厳しそうな山中だ。旅人の姿を見掛けることもない、うら寂しい山岳地帯だった。




