第三話 悪い虫
口に含んだドクダミ茶を全部ふきこぼしたアテルを見て、笑いを堪えることができなかった。これには大ババ様や若村長も顔を綻ばしていたので、俺も我慢せずに気持ちよく笑うことができた。
アテルが顔を赤くする。
「ごめんなさい。だって苦いんだもん」
「そりゃ一気に呷るもんじゃないからな」
アテルが俺の言葉に口を尖らせる。
「そういうのは飲む前に言ってよ」
「まさか一口で飲むとは誰も思わないだろう?」
「飲むよ。喉が渇いていたんだから」
「そんなの分かるわけないだろうが」
そこで若村長が床を叩く。
「やめんか、お前たち。こんな調子だと先が思いやられるな」
「えっ、先ってなんですか?――」
ここははっきりと断っておく必要がある。
「俺はまだ都へ行くとは言ってませんよ」
「まだそんなことを言っとるのか」
と言いつつ、若村長は水瓶に柄杓を突っ込みアテルとハヤテに水を汲んだ。
「だって、そんなすぐに都行きを決められるはずないじゃないですか」
「馬小屋で寝ているだけの男に何の準備が必要なんだ?」
「心の準備というものがあるでしょう?」
「そんなもん、いらん」
若村長という人は自ら熊狩りの先頭に立つ勇猛な男である。それは認めるが、これまで都へは一度も行ったことがない人なのだ。里を離れないことに信念を抱いているようで、それを自慢するかのように話すことがある。
それと同時に、自分が経験していないことを軽んずる傾向もあり、さらには俺の都行きですら里から逃げたと解釈してしまうような男でもあった。こういう人が周りに一人でもいると、自ずと、人生とは誤解されるものだと考えざるを得なくなるのである。
ただし、若村長は生まれた時から頭が固かったわけではない。遥か昔から都へ行きたがる村人は存在し、中には生まれ故郷を笑う者や、実際に里の仕事が嫌で逃げ出す人もたくさんいたのだ。そういう人たちを見てきたので、考えが固まっていったわけだ。
すべての人間がそうであるように、完全に正しい人間はこの世に存在しないのである。若村長の考えは正しくもあり、誤解でもあるのだ。発する言葉に疑問を感じさせないのは、大ババ様くらいしかいないというのが現実で、それすら俺の誤解かもしれないわけだ。
というのも、俺自身が未だに過去の都行きの動機について分かっていない部分があるからだ。今でこそ馬の世話を見つけるための旅だと思っているが、それは後付けにすぎなかった。本当は若村長が考えているように、里から逃げただけかもしれないのである。
そんな自分のことですらぼやけて見えてしまうのだから、自分の目に映るものが確かであると思えるはずがなかった。だからこそ思慮深く、いや、そこまで大袈裟なことではなく、人よりもちょっとだけ注意深く生きていきたいと思うのである。
そこで若村長が床を叩いた。
「こら、イズルギ、何をぼうっとしておるのだ」
「すいません」
どうやら会話を聞き逃したようだ。
若村長が睨みを利かせつつ会話を続ける。
「アテルよ、さすがにそれは無謀ではないか?」
「仕方ありません。行きたくない人に無理にお願いするわけにもいきませんし、ハヤタと二人で都を目指します」
「うむ」
腕を組んで若村長は唸ったが、鋭い眼光は俺を睨みつけていた。
俺としては理想的展開となったので、余計なことを口にしないように努めねばならなかった。その一方で、二人で都へ行くのは危険だということも知っている。だからといって簡単に引き受けられる仕事ではない。
こういう時に結論を出すのが大ババ様だ。
「アテルとハヤタや、どうせババが止めても都へ行くのじゃろう? それくらい、お前たちの心持ちは固いと見えたぞ。ならば行くがよい。行って母親の看病をしてくればよいのじゃ」
どうやら、これで俺は都へ行かなくて済んだようだ。
「ありがとうございます」
アテルとハヤタは口を揃えて、深々と頭を下げた。
「ただしじゃ、途中で駄目だと思ったらすぐに引き返してこい。無茶だけはするなよ」
「分かりました」
そこで若村長が拳を手の平に打つ。どうやら何か閃いたようだ。
「おお、そうだイズルギよ、お前が行かぬというのなら、二人に馬を貸してやったらどうだ? 荷を預けられるだけでも楽になるだろう」
「待ってください。馬を貸したら、俺は何をすればいいんですか? やることがなくなっちゃうじゃないですか」
「何を言っとる。これから冬支度に入るというのに、なすべきことは山ほどあるだろうが」
そこで俺よりも先にアテルが断りを入れる。
「せっかくですが、馬の世話をしたことがありませんので預かるわけにはいきません。もうすでにハヤタと二人で行く覚悟はできていますので、お心遣いだけ頂くことにします」
「そうか、それならば仕方あるまい」
そこで座はお開きとなり、先を急ぐということで、アテルとハヤタを見送ることとなった。大ババ様が旅の祈願をしている間も、若村長はチラチラと俺の方に鋭い眼光を飛ばしていたが、そういう時は気づかぬ振りをするのが一番だった。
「馬のように見えて、木偶のように使えぬ男よのう」
若村長からの最後の言葉だった。
言わんとすることは分かる。俺にだって力になってやりたい気持ちはあるからだ。しかし情で動けるほど都行きは甘くはない。だから、両親が子どもを里に残していった理由を、この姉弟は身を持って知ればいいのだ。
とは思いつつ、多少の打算もあった。それは姉弟が途中で断念すれば、都へ行ったことのない多くの村人が「あぁ、やっぱり都への道は険しかったのか」と思うはずだからである。そうなれば一人で都へ行った俺の過去の実績も見直されるかもしれないからだ。
いや、間違いなく評価は一変するだろう。旅慣れた行商人ですら道の途中で行き倒れることもあるのだ。本来ならば無事に帰ってこられただけでも偉業なのである。要するに、姉弟の失敗が俺の再評価に繋がるというわけだ。
だがしかし、他人の失敗を願い、それによって自分の価値を高めようとする、その醜くも、おぞましい気持ちで胸が苦しいのは、いくらなんでも誤魔化すことはできなかった。こういうのは考えれば考えるほど、きつく締め付けられていくものだ。
これはなんだろう? 心の中に悪い虫がいて、身体の内側から心が食われていく感覚だ。その悪い虫は俺の心を食い続けているというのに、一向に腹がいっぱいにならなかった。これだから頼まれ事をされるのは嫌なのだ。
もう一度よく考えてみると、あの姉弟が失敗して途中で引き返しても、無事に帰ってこられる保証はない。山賊や獣に遭遇することも大いに考えられるし、最悪の場合、二人が命を落としてしまうこともある。その時、俺は知らない振りをして生きられるだろうか?
その時は心を食らう悪い虫が大きくなって、その悪い虫を蛇が飲み込んで、今度はその悪い蛇が俺の心を食らうとも考えられる。アゴで噛み千切り、全身に毒を送り込む、そんな苦しみが待っているに違いないのだ。
それでも都行きが大きな苦痛を伴うのも事実で、どちらにしても痛いことに変わりないだろう。だとしても、このまま留まれば、心は痛いが身体に危険が及ぶことはないはずだ。賢い人間ならば、利にならないのに、わざわざ自分の身を危険に晒すだろうか?
そんなことを考えて馬小屋へ帰る道を歩いていたのだが、途中で思いもよらない人たちと再会した。その人たちとは、都へ向かったはずのアテルとハヤタである。アテルは俺を見つけて笑顔で駆けてきた。
「イズルギ!」
「おいおい、こんなところで何してるんだ? 都とは方向が違うぞ」
「うん。川が見つからなくて探してたんだ」
ハヤタも歩いてきたが、のんびりとした足取りだった。性格もそんな感じなのだろう。おっとりしているというか、ぼんやりしているというか、まったく何も考えていないかのような顔をしていた。
「川って、それが都と何の関係があるんだ?」
アテルが驚く。
「えっ? 川下に従って海に出れば、あとは海沿いを南に向かって歩いて行くだけで都に行けるって聞いたから」
驚くのはこっちの方だった。
「お前たち、そんな知識で都へ行こうとしてたのか? そんな行き方じゃ都へ着く前に冬になっちまうぞ。理屈は合っているが、海岸線には浜だけじゃなく崖や深い森もあるんだ。まともな道なんてないんだよ」
口調が強すぎたためか、二人とも黙ってしまった。
それを見て、また胸が苦しくなった。なぜ無理無謀な姉弟のために、関係のない俺が心を痛めないといけないのだろう? ちゃんとした計画さえあれば気持ちよく見送ることができただろうに。
「まったく、仕方ないな。俺が案内してやるから、お前たちはそこを動くな。馬を取りに行くだけだからな。絶対に動くんじゃないぞ、絶対にだ」
そう言うと、迷子の姉弟は表情を輝かせるのだった。