第十七話 お師さん
お師さんと初めて会ったのは俺が都に行ったときだから、今から三年前になる。都では言葉が分かりにくい人もたくさんいて困っていたのだが、お師さんに助けてもらってから言語に不自由しなくなった。
お師さんから多くを学び、たくさんの言葉をもらった。俺の頭の中にある言葉の数々は、すべてお師さんから教えてもらったものと言ってもいいくらいだ。わずか一年たらずの交流だったが、俺には人生を変える出会いだった。
「どうしてこんなところにいるんですか?」
八又村の真ん中を貫く街道の、中でも目立つ大橋の架かった川辺のほとりで、木板に書をしたためている老人がいた。その小汚い風貌の男が「お師さん」だったのである。三年前に比べると、少しふっくらしただろうか。
「愚かな息子よ、お主も都の黄金に誘われたか」
血の繋がりはないが、お師さんは俺のことをそう呼ぶのだ。
「いやだな。俺はこの孝行娘の手助けをしているんですよ」
と、アテルを紹介した。
それから再び旅に出ることになった経緯や、これまでの出来事を簡単に話した。その間、お師さんは一言も喋らずに黙って話を聞いていた。俺がすらすらと言葉を喋れるようになったのは、こうして黙って話を聞いてくれる人がいたからだろう。
「今の都は物騒だぞ」
俺が話し終えると、お師さんが姉弟の先行きを案じた。
お師さんが避難しているので間違いない。
「ああ、それで都からの言伝が途絶えたわけですか」
「母は無事なんでしょうか?」
アテルは尋ねずにはいられなかったようだ。
「それは分からぬが、黄金が目的でなければ、とうに都を離れた可能性もあるな」
「そうですね。それは考えたことがありませんでした」
と言って、アテルは口を噤んでしまった。
「どこでも生きていけるようなお師さんが都を離れるくらいですから、よほど混乱を極めているということなんでしょうね」
「何を言うか。鼠を見掛けなくなったから都を出たまでだ」
「へぇ、お師さんともなると、鼠からでも学べるもんなんですね」
そういえば、どことなく鼠にそっくりな見た目をしている。
「少しふっくらしたようですが、今は誰に恵んでもらってるんですか?」
「愚かな息子よ、お主は変わっとらんのう。軽口が懐かしいわい。わしはこう見えてもな、今や誰の援助も受けておらんのだ」
「働きもせず、どうやって食べているというのです?」
「見れば分かるだろう。わしは書に目覚めたのだ」
「ご冗談を」
「嘘なんか言うものか」
「だって文字を書くと物覚えが悪くなるって言ってたじゃないですか」
「さよう」
俺が知っているお師さんとは別人のように見えた。
「文字を書いても焼かれるだけだからと、災いをもたらすようなものは村に持ち帰らない方がいいとまで仰っていましたよ?」
「その事実はこれからも変わらぬだろうな」
「だったら、なぜお師さんともあろう人が災いをもたらすようなものを残すんですか?」
お師さんが鼠のような長い髭をさする。
「それは焚書が行われた事実があると歴史書に残す必要があると気づいたからであろう。書かなければ焚書すらなかったことにされてしまう。それでは千年後の息子らに、わしらは何も考えていなかったと思われてしまうではないか」
「焼討ちすら武勲になると仰っていましたよね? 文字を書けば書くほど、征服者の功績を高めるだけではありませんか」
「それでも書かねばならん。征伐だの、討伐だの好きに言わせておけばいい。そんな驕りを抱いているようでは、いずれにせよ、先は長くない。盛者必衰の理といってな、それに逆らえる者など存在しないのだ。相手を落ちぶれさせるには、驕らせればいいだけよ」
これは現在の外敵に対してだけではなく、自分たちが行ってきた歴史に対しても自戒しているのだろう。歴史が変わる瞬間には必ず驕りが見られると、これは以前にも話していたことだ。
「しかし、お師さん、三年でこうも考え方が変わりますかね?」
お師さんが白い髭をさすりながら唸った。
「だって、言ってることがまるっきり反対になったんですから」
「うむ。人は髪や髭が白くなっても変われるということであろう」
「物事には一貫性が大事だとも言ってましたがね」
「誤りがあれば直ちに認めよ、ということよの」
「お師さんはずるいよな。言葉をよく知ってるから、そのたびに適当な言葉を引き出せてしまうんだ」
「愚かな息子に『ずるい』と表現されてしまうところが、わしの限界かのう」
「怒らなくなっただけでも進歩したんじゃないですか?」
そう言うと、お師さんは頭を抱えてしまった。
「どうか許してください。俺もこんなところでばったり会えるなんて思ってなかったから、調子に乗っているんです。嬉しくて堪らないんですよ。こんなことなら手土産の一つも用意しておくんだったな」
「それなら、貰い物なんですけど、よろしかったら召し上がってください」
アテルが懐から柿の葉に包まれた干し柿を取り出した。
「おお、わしの大好物ではないか」
そう言って、よだれを垂らすのだった。
ということで、場所を移して三人でお茶を飲むことにした。金貨は失ったが、おまけでもらった小銭が残っていたので、それで茶店の縁台に座ることができた。お師さんは干し柿を前歯でかじりながら、美味しそうにチビチビと食べるのだった。
そこで柿畑で手伝ったことや、その後にアテルと口喧嘩になったことまで話すことになり、余計なことを蒸し返してしまったと後悔したが、俺としても言い足りない部分があったので、お師さんに聞いてもらうことにした。
「母親が病気だというのにですよ? しかも重病です。それなのに何も二日も手伝うことないじゃないですか。これまで一刻も早く都へ着くようにと時間を削ってきたんです。その努力が水の泡ですからね」
お師さんが深いため息をつく。
「見上げた姉弟だ」
それは俺も分かっている。
「いや、そりゃね、なかなかできることではないですよ。でも時と場合によりけりじゃないですか」
「アテルよ。なぜ一日ではなく、二日も手伝う気になったかね?」
「それは実の重さで枝が折れると聞いたので、早く収穫しなければいけなかったからです」
「なるほどのう」
いや、それは俺も聞いている。しかしそれは俺たちの仕事ではないのだ。
「愚かな息子よ、人にはそれぞれ生業というものがある。山には山の仕事があり、海には海の仕事がある。そして畑には畑の仕事があるのだ。どれもそこに根を下ろさねば全うできない仕事ではないか。黄金が湧いたからといって都へ行けば、誰がこの干し柿を作るというのだ。この姉弟は実った果実が落ちて朽ちるのを見過ごすことができなかったわけだな。それは地方の村々で根を張ることの辛苦を知らねばできぬことよ。もし見過ごせば、辛うじて保たれている世の中の均衡を失ったかもしれんからのう。それくらいの意味を持っているのだが、お主には分からんだろうな」
黄金のことで頭がいっぱいだった俺には耳の痛い話だ。これならやはり蒸し返すべきではなかったのだ。それにお師さんが何を言っているのかも、いまいち要領を得なかった。特に話の後半はさっぱりだった。
「つまり都にも都の仕事があるわけですね」
合っているのかどうかまでは分からないが、それがアテルの解釈だった。
アテルが教えを乞う。
「それならば教えてください。どうしたら母の病気は治るでしょうか? 身体が衰弱して、起きていられないのです。老いるにはまだ早く、死を待つには長すぎます。痛みらしい痛みはないと言っていますが、少し身体を動かしただけで疲れてしまうのです。そんな母をどうしたら楽にさせてあげることができるでしょうか?」
尋ねられても、お師さんは黙ったまま考え込むだけだった。お師さんが黙るのも無理のない話だ。この老人にとって医学は門外漢である。それでもなんとか力になろうとして話し始めた。
「海の向こうには薬食同源という言葉がある。わしの理解するところでは、人間の身体は口にした物以外では作られることがないのだから、食べ物に最大限の気を遣わなければいけないということだ。どこまで解釈するかは人によるが、全身の肉が弱っているのなら、動物の肉をいただくしかないというのが、わしの考えだ。それで良くなる保証はないが、身体に取り入れた方がいいものは、なんでも食った方がいい」
「はい。参考にします」
俺たちの部族は肉を好んで食べる方だが、アテルは素直に聞くだけだった。
お師さんが続ける。
「あとは湯治で身体の中の血を温めるのがいいというのも聞いたことがあるのう」
「『とうじ』とはなんですか?」
「岩から湧き出る天然の湯に浸かることよ。猿が好んで入るくらいなのだから、効果があるのは間違いなかろう」