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第一話 馬小屋

 高く積まれた干し草の上で寝転がるのが一番の幸せだ。小屋の中が暗ければ暗いほど、狭ければ狭いほど安らかな心地になる。馬を飼い始めてからの習慣だが、もう二度と堅い板の上で薄い布団を敷いただけの寝床に戻るつもりはなかった。


 見よう見まねで始めた馬の世話だが、性分に合っていたのか、やっと自分の仕事を見つけたような手応えを感じ始めたところだ。こうして昼寝をしながら干し魚をくちゃくちゃと音を立てて噛み続けていても、誰にも見咎められることがないのが快適だった。


 よそ様に迷惑を掛けないのが一番大切なことだと思っている。そりゃあ世の中のためとか、親孝行ができれば、それに越したことはないだろう。それでも人の嫌がることをしないだけでも立派なことだと思うし、それだけでも充分だ、と考えるべきなのである。


「おい、怠け者の大飯食らい。どこにいるんだいっ」


 馬小屋の外から母親の大きな声が聞こえたが、こういう時は返事をしてはいけなかった。なぜなら、これまで一度だって呼ばれて良かった試しがないからだ。どうせ顔を合わせても「寝ている暇があるなら茸や山菜を採りに行け」と言われるに決まっている。


 山菜を採りに行くならば足腰が衰えないよう、なおのこと母親に行かせるべきで、それが本当の親孝行というものだ。何もせずに干し草の上で居眠りしながら親孝行ができるのだから、それ以上の良案はないだろう。


 しかしながら、真意を汲み取ってもらえるほど世の中は甘くなく、結局のところ他人の目からは怠け者としか映らないのである。それでも父親から「弓を扱えないから山菜取りに行かされるんだ」と笑われるよりかは気分が楽だった。


「イズルギ! 大ババ様がお呼びだぞ」


 名前を呼んだ男は若村長だ。滅多に足を運んで会いに来ることはないので、よほどのことがあったのだろう。それに加えて大ババ様からの呼び出しだ。こうなると嫌な予感しかしない、というのが今までの経験で明らかだった。


「本当にどこに行ったんだろうね。昔から逃げるのと隠れるのだけは得意なんだから」

「イズルギよ、いるなら返事ぐらいしろっ」

「ほんとにね、馬を飼い始めてから不愛想になっちゃって」

「ハハッ、馬飼いが馬みたいになったわけですか」

「馬ならまだいいんですよ。色々と手伝ってくれて役に立つでしょう? それが息子ときたら、さっぱり働きませんからね」

「動物はよく働きますからな。たとえては罰が当たりますな」

「ふふっ、ほんとにね」


 ちっとも面白いとは思わないが、この村には親が子どもについて語るくらいしか話題がないので、子どもはひたすら我慢するしかなかった。家の中で会話をしても、翌日には村中に伝わってしまうというのが村の実態である。


 突然、目の前が真っ白になった。お日さまが苦手ということもあり、わずかに差し込む日の光でさえも目が痛くなるのだ。それでも夏の終わりの陽射しであることが、唯一の救いといえるだろう。


「おお、イズルギ、こんなところに隠れていたか」

「べつに隠れてはいませんよ」

「では何をしていた?」

「寝ていただけです」

「働きもせず、ただ寝ていたというのか?」

「お日さまが昇りましたからね」

「ならば起きて働かねばなるまい」


 人に指摘するだけあって、若村長の肌は真っ黒に焼けていた。北国の人間でも、働き者は冬でも肌が焼けたまま元の色に戻ることがない。この時期に俺のように真っ白なままでいる十代の男の方が珍しいということだ。


「牧草を刈るには月明かりの下が一番です。ですから日が沈むまでひと眠りしていました」

「馬の飼い葉というのは、昼と夜に刈るのでは違うのか?」

「特に変わりませんが、昼間に刈ると暑くて大汗をかきますからね」

「それだけか?」

「はい、それだけです」

「変わっておるのう」


「息子がすいませんね」

 詫びることではないのだが、母親が俺の代わりに謝った。


「ですから若村長、何の用かは分かりませんが、日が沈むまで眠らせてください」

「ならん。大ババ様が呼んでおるのだぞ」

「俺なんかに何の用があるというんですか?」

「それは行って尋ねればよかろう」


 気が重いと足取りまで重くなるものだ。若村長の後について行くしかないのだが、逃げられるものなら逃げ出したかった。それができないのは、呼び出された相手が大ババ様だからである。


 大ババ様というのは村の最長老で、村長を決めたり、村人を裁いたり、罪人を許したりする、最も神様に近い人のことだ。直接命令を下すということはないのだが、頼まれても、それを拒否する村人は一人もいなかった。


 チプ川に沿って十以上の集落があり、婚姻関係が交わらないように一定の間隔を保って共生しているが、そこに暮らす数千の村人を束ねているのが大ババ様である。噂では百歳を超えているという話だが、本当かどうかまでは誰にも確かめようがないことだ。


 特別な力といっていいのか分からないが、なんでも風の匂いや味で天候の変化を知り、動物たちの挙動で農作物に影響する長期的な気候変動が分かるという話だ。根拠はないが、現に長年に渡って飢饉を免れているので信じる他ないのである。


「イズルギや、ずいぶんと久し振りよのう」


 大ババ様の家は他の村人の家と大差がなく、部屋の真ん中には囲炉裏があり、火棚では川魚を燻製にしていた。長老様といえども起こした火を無駄にすることはないのである。夏場でも早晩は冷え込むので一年を通して火を入れているというわけだ。


「お久し振りでございます。大ババ様」


 囲炉裏を挟んで向かい合って挨拶を済ませた。大ババ様の傍らには若村長が控えているのだが、ずっと鋭い眼光を飛ばしていた。どうやら俺が粗相をしでかさぬように監視しているようである。


「イズルギよ、しばらく会わないうちに、すっかり大人になったのう」

「大ババ様の方は変わりありませんね。昔も今も大ババ様のままです」

「いやいや、これでも日ごとに変わっておるのじゃぞ?」

「はぁ、そうですね。言われてみれば顔つきが死んだジジ様に似てきたような」

「これ、失礼だぞ」

 すぐに若村長に窘められた。

「かかかかかっ」

 しかし当の大ババ様に気にした様子はなく、そのように豪快に笑うのだった。


 実際に赤子のように男女の区別がつかないのは確かだが、それでも冗談だと分かりそうなものである。長老は話が分かるというのに、その取り巻きには冗談が通じない、というのが世の中ではよくあることだ。


「イズルギや、都から戻ってどれほど経つ?」

「はい。かれこれ半年になります」


 勇んで村を出たのが三年前で、それから一年で都から逃げ出して、各地を放浪して村に戻ったのが半年前だ。誰にも見られないようにと、夜中にこっそり帰ってきた記憶は、いま思い出しても情けなく感じているところだ。


「どうして戻ってきたその足で、わしのところに会いにこなかった?」

「それは……」

「恥ずかしかったか?」

 それはある。

「叱られると思ったか?」

 それもある。

「わしが笑うと思ったか?」

「いいえ」

「だったら会いにこい。わしは寂しかっただけじゃ」


 自分という存在が人様に対して寂しい気持ちを抱かせるというのは、あまりに信じがたい感情だった。しかしそんな風に思ってくれる人がいる、というだけで胸が苦しくなり、申し訳ない思いにかられた。


「イズルギよ、人はどちらかしか選べんぞ。他人を笑う人間と、他人から笑われる人間のどちらかじゃな。笑われる生き方を選んだなら、好きに笑わせておけばいいんじゃ。実りの多い生き方には、常に我慢や辛抱が付きものじゃからのう」


 自分の生き方が実り多い生き方かどうかは分からないが、都へ行き、そこで逃げ出したものの、命を取られずに戻って来られたので、将来に期待しなければ、ここまでは悪くない生き方といえるだろう。


 人生とはどこでどう転ぶか分からないものなので、そういう意味では大ババ様の仰る通りなのだが、村人に俺の生き様を笑われるのだけは勘弁ならなかった。悟って涼しい顔をする大人には、まだなりたくないからである。


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