第一章・その5
お風呂回(ヒロインが入るとは言ってない)
それから十数分後。学校を後にした僕は我が家、もとい上弦家の隣に建つ望月家……弥生の家に来ていた。
こうなったのは十数分前の彼女の発言に端を発する。
『そうだ、私の家に行きましょう。お風呂を貸してあげる』
もちろん最初は断った。自分の家の方が近いから、と。だけど弥生はお詫びがしたいと言って譲らず、最終的に僕が折れた。昔から真面目すぎて変なところで頑固なのだ。
冷静に考えてみれば、弥生は池に落ちていないのだから一緒に入るわけじゃないし、裸を見られなければ大丈夫のはず。
朔也はというと、弥生が元気になったら満足したらしく「後は女同士で仲良くな」と言い残して先に帰った。あいつめ……
「ただいま。さ、入って」
「……お邪魔します」
促されるまま玄関を潜ると、なんだか懐かしい匂いがした。そういえば、弥生の家に呼ばれたのなんて久しぶりだ。小学生の頃はお互いの家に頻繁に遊びに行っていたし、お風呂くらい一緒に入ったことだってある。だけどそれは昔の話で、高校生ともなると異性とお風呂なんて軽率にできるものではない。
「お母さん、ちょっとお風呂使うね」
廊下の先にある部屋へ弥生が声をかければ、彼女に似た女性の声が返ってくる。
「お風呂? 別にいいけれど、なんでまた?」
「友達が池に落ちちゃって」
「まあ、それは大変ねぇ」
のんびり言いながら部屋から顔を出したのは、弥生と同じ綺麗な黒髪を結って肩から前に流した温厚そうな女性。母親の神奈さんだ。
何年か前に旦那が亡くなって以来、女手一つで弥生を育ててきた。僕は家が隣同士だったこともあり、会う度に娘をよろしくと言われたものだ。睦月じゃなくなった満は弥生に何をしてやれるだろうか。
「あ……は、初めまして。如月です」
「あらあらまあ、可愛らしいお友達ね」
こちらを見た神奈さんと目が合って挨拶をすると、彼女は元々糸目がちな目をさらに細めてうふふと笑う。それが胸の内を見透かされているようで、ドキッとした。
「ゆっくりしていってちょうだいね」
「は、はい。ありがとうございます」
一礼だけして、逃げるように風呂場へ向かった。弥生がタオルを取りに出ていって、ようやく一息つける。しかし、弥生が戻ってくる前に行動しなくては。
中途半端に乾いて気持ち悪かった制服を脱いで脱衣カゴに放り込もうとして、明日も学校があることを思い出してそっと畳む。家に予備があったかどうか。
そうして、あっという間に下着姿となった自分の身体を改めて見てみた。
薄手のキャミソールとピンクのショーツ。どちらも女物なので後ろから見れば女の子にしか見えないだろうけど、視線を落とせば女の子には無い股間の膨らみがまだ変身を残しつつも静かに己の存在を主張している。
ショーツに手をかけて、脱ぐ。その一連の動作に背徳的なものを感じて、それだけで血流が活性化しそうだ。流石に上級者すぎると頭の中で素数を数えて冷静になる。
裸になってしまえばこっちのもの。こんなの線が細くて童顔なだけの男に過ぎない。そう自分に言い聞かせながら、そそくさと浴室の戸を開いた。
我が家――この場合は上弦家のこと――より少し広い浴室は掃除が行き届いていて、住む人間の真面目さをよく表している。全体の広さに反比例して小ぶりなバスタブには話の通り湯が張られておらず、僕は壁にかけられているシャワーを手に取った。
雨音をぎゅっと凝縮したようなシャワーの音に耳を傾けながら、お湯が適温になったのを掌で確認して肩から流していく。
池の水と春風に冷やされた身体がじんわりと温まってきた。睦月の身体よりもずっと細い腕をお湯が伝い、肌にほんのり赤みが差してくる。
髪の毛まで水を被ってしまったので頭にもシャワーを浴びせていき、少し迷ってからシャンプーとリンスへと手を伸ばした。掌に出せば弥生の髪と同じ香りがするそれを、お湯で溶いて髪に馴染ませる。一度流してからリンスも同様に――
「タオルと着替え、ここに置いておくわね」
その時、後ろで弥生の声がして心臓が跳ねた。立ち上がろうとして、床に落ちた泡で足を滑らせてしまう。
「あだ……っ!?」
「ちょっと大丈、ぶ……」
マットのおかげで軽く腰を打った程度で済んだのはいい。しまった、と思った時には時すでに遅し。がちゃりという音と共に浴室の戸が開き、弥生が僕の方を見ていた。
……いや、正確にはひっくり返った僕の股間あたりを。
「…………」
言葉を失う弥生。僕は何も言えず、シャワーの音だけが響く。
「……き……」
痛みが引いて動けそうになったところで、弥生が戦慄きながら口を開いた。まずい、ここで叫ばれでもしたら人生が終了してしまう……!
しかし、彼女から発せられたのは悲鳴は悲鳴でも、僕の予想と大きく違っていた。
「キャーっ♡ 貴方、男の子だったのね!?」
……語尾にハートマークが付いているように聞こえたのは勘違いだと思いたかった。だけど、弥生は逃げ出すどころか目を輝かせ、息を荒げてにじり寄ってくる。真面目系委員長キャラとは何だったのか。
「え、ちょ、待っ」
「こんなに可愛い娘が男の子なはずがないっ!!」
「来るなぁぁ――っ!」
「ふぎゅっ!?」
身の危険を感じた僕は、咄嗟に近くにあったプラスチック製の手桶を掴んで投げた。バスケで鍛えたシュートは正確に彼女の眉間を捉え、弥生は優等生にあるまじき濁った声を上げて卒倒したのだった……
「やばいと思ったけど性欲を抑えきれなかった」
急いで身体を拭き、用意されていた弥生のお下がりらしき私服に着替え、神奈さんに見つからないように風呂場から弥生の部屋まで移動して、ようやく落ち着いたところで弥生が開口一番に言い放った言葉がこれである。
僕は軽い眩暈に襲われながら、綺麗な正座で姿勢だけは反省の意を示している弥生を半目で睨んだ。
「普通は逆じゃないかな、色々と……」
「だって知らなかったんだもの。如月さんが……男の娘だったなんて!」
僕だって知りたくなかった。幼馴染が男の娘スキーだったなんて!
数年ぶりに訪れた弥生の部屋は一見すると普通の部屋のようでいて、本棚の一角には男の娘モノの漫画や雑誌が堂々と並んでいる。弥生のことだから部屋の片付けは自分でやると言って神奈さんを部屋に入れていないか、あまり考えたくはないけど親の了解を得ているのだろう。
ひょっとして僕が女の子になりたかった理由は弥生のせいだったりするのだろうか。いやそんなはずはない。ないはず……ないよね?
「ん゛んっ……でも、どうして女の子の格好をしているの?」
「それは……」
再度ヒートアップしかけて、軽く咳払いしてから弥生が真っ当な疑問を口にする。
説明が難しかった。あと何より、このタイミングで僕が上弦 睦月の生まれ変わりだと明かすのは危険な気がする。
「……今は、まだ言えない」
なので、とりあえず先延ばしにすることにした。
弥生は理由にそこまで執着せず、正座したまま僕の身体を興味深そうに眺めている。あの、そんなに股間をまじまじ見られると恥ずかしいんですが……
「分かった。きっと何か深い事情があるのね」
「まぁ……うん」
「良いわ。貴方が安心して学校生活を送れるよう、私が協力してあげる」
正座を崩して膝立ちになった弥生が僕の手を取る。確かに協力者がいるのは心強い。ついさっき、その協力者に脅かされかけたわけだけど。
考えてみれば、学校では今回のような事態が頻繁に起こる。体育の授業はもちろん、トイレへ行くにも人目は避けなくてはならない。
弥生にも男の娘スキーという他人に言えない趣味があるので、本来の性格も考えれば不用意に言いふらされることはないだろう。なんでも、普段が真面目なイメージで定着しているだけに同志を探すわけにもいかないらしい。優等生も大変だなぁ。
「だから、今日のことは二人だけの秘密にしましょう」
「……うん」
女の子と二人だけの秘密。響きはいいのに、全く感動しないのは何故だろう。
そんなこんなで、第二の人生は一日目から波乱に満ち溢れていたのだった。