第二章・その3
校舎を前にすると、内外から生徒達の声や楽器の音などが聞こえてくる。外周を走る陸上部、グラウンドを駆けるサッカー部、コンクールに向けて練習を重ねる吹奏楽部や合唱部……どの部も真剣に活動している様子で、それは演劇部だって例外ではない。
仮部室に入ろうとした時、扉越しに凛とした声が聞こえてきてドアノブにかけた手を止める。声はアリア先輩だけど、喋り方ひとつでこうも印象が変わるものなのか。
「失礼しまーす……」
邪魔をしないよう、慎重に中へ入る。スチール製のテーブルには台本らしき紙の束やスポーツドリンク、そして床の上には脱ぎ散らかした制服が落ちていた。
いくら他に人がいないからって、女の子が制服を放り出しておくのはどうかと思う。今みたいに誰かが来ないとも限らないし……畳んでおこう。
そう考え、テーブルに近付いて制服に手を伸ばしそうとした時だった。
「そこで何をしてるのかしら?」
不意に背後から掛けられた声に驚いて振り向くと、C組担任の不知夜先生が腕組みをしてこちらを見ていた。そういえば演劇部の顧問は不知夜先生だった。部員についての話が厄介すぎて、顧問の存在をすっかり忘れていた。
「いえその、机の上が散らかってたので……」
「私が訊いてるのは、どうして如月さんがここにいるのかってことよ」
「見学……ですかね。僕、まだ部活に入ってないから」
元はと言えば僕の部活を決めるためだったし、嘘は言っていない。先生は溜息を一つ吐いてから、申し訳なさそうな顔をする。
「気持ちは嬉しいけど、ここは……」
「知ってます。アリア先輩のことですよね? 弥生から聞きました」
正直な気持ちを話すことにした。きっと、先生も弥生から相談を受けていたはずだ。
僕の考えを伝えると、先生は少しだけ嬉しそうに微笑む。そして、今もアリア先輩の声が響き渡るステージを目で示した。
「だったら、まずはアリアちゃんの練習風景を見ていくといいわ」
「? 分かりました」
ステージに立つアリア先輩はジャージ姿で、部室に入って来た時は下ろしていた髪を今は頭の後ろで一つに束ねている。そうしていると声音も相まって男装の麗人といった雰囲気だ。まぁ、服装は麗しさとは程遠い学校指定のジャージなわけだけど。
「姫、お助けに参りました!」
さっきチラ見したテーブルの上の台本には、騎士とその主である姫の身分違いの恋を題材にした物語だと書かれていた。とはいえ新歓の短い発表時間で壮大なストーリーを展開するのは無理に等しい。できても一場面、しかも役者は先輩だけだ。
だけど先輩の演技は虚空にいる誰か――囚われの姫だろうか――に呼びかけるようなもので、驚くことに応えたのも先輩だった。
「ああ、ランスロット! どうして私を見捨てなかったのですか!」
「……!?」
その声に騎士の面影はなく、可憐な中に一国を背負う芯の強さを秘めた姫そのもの。口調こそ普段の先輩に近かったけど、不思議と高圧的な印象を全く感じない。
「あの日、誓ったではありませんか! この命に代えても貴女をお護りすると!」
小振りな胸に手を当てて、力強く言うのは騎士の姿。
「私は父に裏切られ、国にも捨てられた身。護られる資格など、ありはしないのに!」
本当の気持ちを押し殺したような、哀しい声で返すのは姫の姿。
「それでも、貴女を愛しているのです!」
喋っているのはジャージ姿の先輩でしかないのに、まるで二人の人物がそこにいると思わせるような演じ分けだった。甲冑やドレスを着ているとさえ錯覚するほどだ。
気が付くと僕は目的も忘れ、アリア先輩の演技に見入っていた。
「凄いでしょう、あの子」
「わっ……!?」
いつの間にか隣に立っていた不知夜先生に声を掛けられて、ようやく我に返る。
先輩の演技は、はっきり言って完璧だった。台詞だけで場面を表現してみせる様は、さながら独奏曲を奏でるかのよう。だけど、独奏曲はあくまで独奏曲だ。
「はい……でも、何かが足りない気がします」
「その通りよ。あの子は『部活動』って言葉の意味を理解してないの。このままじゃ、たとえ新歓で新入生が捕まっても部活としては成り立たないわ。私個人としても何とかしてあげたいんだけど、上を説得するので精一杯ね」
そう言って先生は深い溜息を吐いた。きっと先生にもさっきのような態度なんだな。
どうすればアリア先輩を先生や他の部員と協力させられるだろうか。そもそもの話、どうして先輩は演劇部に拘っているんだろう?
プロの役者を目指しているなら、学校なんて狭い枠に収まっている必要なんて無い。劇団なり何なり、演劇に触れる方法はいくらでもあるはずだ。
それでも学校の中で演劇を続ける理由……
「どなたと話しているのかと思えば、先程の方でしたの」
「入部希望だそうよ」
そうしていると、先輩が練習を終えたらしい。先生の返事にさしたる興味も無いといった様子で、僕を無視してテーブルの上にあったスポーツドリンクを飲んでいる。
あの、先生? 僕そこまでは言ってないんですけど……まぁいいや。
僕は先輩の背中を見つめながら、思っていたことを正直に告げた。
「アリア先輩の演技、凄かったです。引き込まれる感じがして、夢中でした」
「この程度、できて当然ですわ」
謙遜ではなく、至極当然といった顔で先輩が答えた。だけど、感想には続きがある。
「でも、演劇部って感じはしないなと思いました」
その言葉に、先輩の動きが止まった。無言の威圧を感じる。
横目で不知夜先生を見ると、先生は小さく頷いてくれた。
「先輩のは演劇かもしれないですけど、演劇部じゃ……部活動じゃないです。部活動は一人でやるものじゃないから」
「それが何です? 誰も私のレベルに合わせられないのが悪いのです」
「そうやって他人を、他の部員を見下す態度がいけないって言ってるんですよ。部長の言っていい言葉じゃないでしょう!」
思わず声を張り上げれば、先輩は振り向いてこちらに詰め寄ってきた。氷の彫刻かと思うほど蒼く冷たい瞳に射抜かれ、竦みそうな心をどうにか奮い立たせて見つめ返す。ここで折れたら僕の負けだ。
「私に、人の上に立つ資格が無いと?」
「はい」
先輩の目がいっそう吊り上がり、肩を震わせながら睨み付けてくる。
だけど、彼女が放ったのは怒りでも罵倒でもなかった。
「……そこまで仰るのでしたら、証明なさい」
「えっ」
「貴女の考える『部活動』の方がワタクシの演技より優れていると仰るのでしょう?」
「いや、そこまでは……」
少なくとも、この学校で先輩に勝る演技力の持ち主はいないだろう。それ以前に部長としての立ち振舞いが問題なのだ。
しかし先輩は自身の演技力を貶されたと思ったらしく、声高に言い放つ。
「ならば、今度の新歓で勧誘勝負ですわ!」
「……はい!?」
それは予想の斜め上を行く、勝ち目の見えない戦いの開幕を告げる。




