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『「またね」』関連作品

苺(いちご)

作者: ソラヒト

 私はあなたとつきあい始めた。

 ここまでくるのは、決して楽な道のりではなかったけれど、私が抱えていたいくつもの問題を自分で動いて決着できたことは、私にとって大きな自信になった。

 他ならぬ自分自身のために、これほど真剣に動いたことはかつてなかった。


 私は実家を出てひとり暮らしを始めた。

 そうすることは当然のことだと思った。

 自分で「実家を出る」と決めたこと、部屋探しから引っ越しまで自分の力でできたことが、また自信になった。

 もちろん、ひとり暮らしをすることで、自分で自分の責任をとることにはなるけれど、私はもう怖くなかった。

 そんなことよりも、何からも邪魔されることなくあなたと一緒にいられる時間を増やせるということが、私の原動力になっていた。


 私はとても高い山の頂上に立とうとしているかのように、視界がどんどん開けてきたと感じていた。

 そして頂上には、あなたが待っていてくれるのだ。

 こんなふうに思えるなんて、きっと私は幸せなんだ。

 そう思っていた。


 新しい世界に、一歩を踏み出せた。

 これから楽しいことがたくさんあるのだ。

 迷わず進んでいける。

 私は確信していた。


    *      *      *


 キミは12月に実家を出て、ひとり暮らしを始めた。

 ボクの部屋から1時間ほどのアパートだった。

 自由に行き来ができるようになったし、自由に電話で話せるようになった。

 荷ほどきや必需品の買い物など、キミの部屋が落ち着きそうなのはまだ先になるのは確実だったので、クリスマス・イヴにはボクの部屋でケーキを食べることにした。


「三が日までは無理だとしても、4日には会えるよね」


 キミは言った。


「それまでにはきちんと片付けておくから、私の新しい部屋を見に来て」


 キミはわくわくしているように見えた。


 ボクは帰省した。

 年末年始を地元で過ごすことになっていた。

 もうだいぶ帰省していなかったし、地元の何人かの友人に誘われて会うことにもなっていた。

 そうした誘いに応じるなんて、ボクには片手にあまる程度の機会だったけれども、結局は無断欠席になってしまった。

 体力が落ちているという自覚はあった。

 単に疲れがたまっているだけだと思っていた。


    *      *      *


 年末年始を挟んで、私はあなたに会えることをとても楽しみにしていた。

 お正月の三が日は無理だとしても、4日には会えると思って、その日を待ちわびていた。

 なのに、あなたは来てくれなかった。

 なんの連絡もなかった。


 そわそわしているうちに、5日になり、6日になり、7日になって、私は焦るとともにすごく心配になってきた。

 まさか、私のことを忘れてしまったのでは?

 それとも嫌いになってしまったのでは……。

 そう思ったら自然と涙がこぼれた。

 俄仕立ての自信はすぐに崩れてしまう。

 ……いいえ、そんなことはあり得ない。

 だとすると、あなたの身に何かとてもよくないことが起きてしまったのだろうか?

 いくらなんでもあなたなら連絡のひとつはくれるに違いないのに、そのひとつさえできないような状況に?

 私は居ても立ってもいられなくなった。


 8日、9日、10日……。

 待つということが、こんなにさみしくてつらいことだなんて、思いも寄らなかった。


    *      *      *


 ボクは入院した。

 1月4日のことだった。

 ようやくキミとふたりで、誰に気兼ねすることもなく過ごせるはずだったのに、無理になってしまった。

 ボクは自分が考えていたよりも、遙かにダメージが蓄積していたらしい。

 持病の喘息の発作が始まり、急激に悪化してしまった。

 まともに歩けないなんてことはかつてなかったが、ボクは母と弟の助けを借りて救急病院に連れて行ってもらうしかなかった。

 点滴を2時間もしてもらえたなら落ち着くはずだ。

 過去の経験からそんなふうに思っていた。

 しかし、2本目の点滴が終わっても呼吸は楽にならなかった。

 若い看護師さんがベテランらしき看護師さんを呼んできた。

 ボクの様子を確認するやいなや慌ただしく電話をかけ始めた。

 内線だったのかもしれない。

 専門の医師と思われる初老の男性が間もなくやってきた。


「入院だよ」


 一言目にそう言われた。


「チアノーゼがひどい。もっと早く来てくれたらよかったのに。苦しかったでしょう」


 あと30分遅ければ危なかったと言われた。

 さらに数名の医師が来ていた。

 急激な病状の悪化にはいくつかの要因があるようだった。

 何か話しかけられたのだがよく分からなかった。

 意識がちょっと朦朧としてきた。

 ボクは車椅子に初めて乗った。

 というより、どうにか乗せてもらった。

 看護師さんは丁寧にボクが載った車椅子を押してくださった。

 もはやボクは自力では身動きがとれず、呼吸だけで精一杯だった。


 ボクは集中治療室に入れられた。

 そうか、そんなに深刻なのか。

 ショックだった。

 なるほど、かつて経験したことがない苦しさをボクは否応なく味わっていた。

 婦長さんらしき看護師さんは「今は病室が混んでて空きがないからよ」と言ってくれたのだけれど、それが本当なのかどうかは、自力で動けないボクには確かめようがなかった。


 ボクは息が苦しいあまり、横になれなかった。

 横になると更に苦しくなるからだった。

 なんとか吸えるのだけれど、うまく吐けないのだ。

 呼吸ひとつでかなり体力を使った。

 ボクにとってこの世でいちばんイヤな雑音ノイズが喉の奥や胸の内から耳に入ってきた。

 最低最悪な、精神的に参ってしまう音だった。

 看護師さんにお願いして、ベッドを60度くらいまで起こしてもらった。

 そのくらいなら、まだ寄りかかっていられた。

 ただし、息苦しさはかわらなかった。

 すぐに腰が痛くなった。

 しかも、頭痛がして、目が回っていた。

 病室が回転しているようだった。

 ときどき気持ち悪くなった。

 それでも嘔吐はしなかった。

 この数日は何も食べられなかったからかもしれない。

 呼吸を楽にするために吸入器を使うことがしばしばあった。


 集中治療室の定員は2名だった。

 ボクの隣には、包帯だらけで横たわっている(ように見えた)人がいた。

 ボクはほとんど身体を動かせなかったのに、首だけは動かせた。

 よく見えたわけではないけれど、隣の人に意識はないらしかった。

 ベッドの周りを機械が取り囲み、低くうなるような音を出していた。

 いくつものチューブがその人の身体から生えているかのようだった。

 ときおり、得体の知れない音に驚かされることになった。

 ボクにとってこの世で二番目にイヤな音が決定した。

 それは隣の人のほうから聞こえた。

 どうやらその人のうめき声らしい。

 他には考えられなかった。

 やたらと気が滅入ってくる音だった。

 生まれて初めて耳栓が欲しいと思った。

 隣の人のうめき声も自分の喘鳴もこれ以上聞きたくなかった。

 早くここから出たいと切に思った。

 ボクに刺さっているのは点滴がひとつだけで、その人に比べればはるかに健康体に近かった。

 心電図計はお揃いみたいだったけれども。


 ボクは息苦しさから解放されず、数日はほとんど眠れなかった。

 うとうとしてもすぐに息苦しさで目を見開くことになった。

 でも、意識があるだけ、自分は生きていると分かっているだけ、まだましなのだと思った。

 隣の人がそう教えてくれていた。

 しかし、こんなボクにできることは、息苦しさに耐えてただ天井を見上げていることくらいしかなかった。


 点滴は2週間まったく途切れることなく続いた。

 ときどき針を刺す腕を替えたけれど、ボクの両腕は針が刺さりにくくなっていた。

 点滴を長いこと続けていると血管が硬くなってしまうのだと、看護師さんに言われた。

 話しかけてくれる度に返事をひとことでもしたかったのに、ボクの声は強力なミュートをかけたかのように音にならず、喉の痛みもあって、しばらくはまともな会話にならなかった。

 ボクはキミのことを考えた。

 そうすると、少しは楽になる気がしていた。


    *      *      *


 11日。

 あなたを待ち続けて1週間になっていた。

 誰かに優しい言葉をかけられたなら、すぐに泣いてしまいそうだった。

 でも、私は泣かずに頑張った。

 あなたに「キミは泣きすぎだ」と言われたことを思い出して、意地になっていたのだ。


    *      *      *


 キミに連絡できたのは、1月11日だった。

 約束の日から1週間が経過していた。

 キミは気が気ではなかったはずだ。

 何かあったに違いないと思ったとしても、それを確認する手段がなかったから。

 ボクは実家の電話番号をまだキミに教えていなかった。


 ものすごくゆっくりなら、ボクは点滴を吊り下げたスタンドと一緒に動けるようになっていた。

 ようやくのこと、すり足で。

 1メートル進むのに10秒前後はかかっていたと思う。

 少し進んでは休み、また進んでは休み……そうしなければ無理だった。

 それより速く動くのは息が切れてしまいダメだった。

 医師には「なるべく動かないように」と、何度も念を押されていた。

 けれども、キミをこれ以上放っておけなかった。

 21時の消灯後、ボクはどうにかベッドを降りた。

 すり足で病室を出て、売店のそばにあるカード電話までたどりついた。

 病室から30メートル程度の距離しかないはずなのに、ボクは息切れでしばらく動けなかった。

 電話が置かれている台に寄りかかり、息が落ち着いてからやっと、キミの部屋へコールした。


    *      *      *


 その日の夜10時頃に、電話のコール音が聞こえた。

 私は電話に飛びついていた。

 鳴ったと同時に受話器を取っていたと思う。

 受話器の向こうから、かすかに声が聞こえた。

 私はあなたの名前を呼ぶと、こらえきれずに泣いてしまった。

 あなたは生きている。

 そう分かっただけでとても救われた。


    *      *      *


 ひとつ目のコール音が終わらないうちに、キミは受話器を取った。

 ボクの声はよく聞こえなかったはずなのに、キミは一瞬でボクだと分かった。

 ボクがひとこと目を言い終わる前に、ボクの名前を呼んだから。

 電話の向こうですすり泣いているような音がわずかに聞こえた。

 ボクの生存が確認できて、あふれてしまったようだった。


    *      *      *


 あなたは入院していると分かった。

 私は仰天した。

 4日に私の部屋に来るどころか、入院しているとは。

 行き先を間違えてるじゃん、と突っ込んでやりたかった。

 今すぐあなたの元へ行きたい。

 でも、夜遅くなっていたのでそれは無理だった。

 私はとにかく明日あすの始発に乗ってあなたのところへ行くのだと決意した。


    *      *      *


 ボクが入院中だと分かったキミは、翌日ボクの病室へ飛んできた。

 おそらく3時間半の道のりを、始発に乗って。


    *      *      *


 片道3時間半の道のりだった。

 始発に乗っても、乗り継ぎの関係でそれ以上早く行くことは無理だった。

 私はこのときほど時間の経過を遅いと感じたことはなかった。

 あなたは私に良くも悪くもたくさんの「初めて」をくれたけれど、今年あなたに会えるまでの「初めて」はひどいことばかりだった。

「当然の報い」という言葉が浮かんだ。

 私はたくさんの人に迷惑をかけたのだから、ばちが当たっても仕方がないんだと思った。

 でも、このつらさを乗り越えれば、きっと楽しいことが待っている。

 だから、ぐずぐずしているわけにはいかない。

 今度はあなたが待つ番なのだと思った。

 あなただって、私に会えずにとてもさみしくて、つらいに違いない。

 私だけではないんだ。

 あなたもなんだ。

 そう気がつくと、力が湧いた。

 あと少し、あと少しだから。

 私はあなたのことを思うと同時に、私自身を励ましていた。


    *      *      *


 ボクは集中治療室から一般の病室へ移っていた。

 久しぶりに鏡を覗くといわゆる死相が残っており、げっそりと無残な顔が写っていた。

 移ってすぐにアレルギー検査をしてもらった。

 両腕に点々と約40種類ほどアレルゲンが出揃った。

 果たして持病の引き金トリガーは予防可能なものなのだろうか?

 ボクは全然期待していなかった。

 案の定、結果は見事なものだった。

 ハウスダスト。

 カビ。

 以上。

 ボクの持病の元を断つには宇宙区間にでも行くしかないという事実が明らかとなった。


    *      *      *


 あなたがいる病室に私は駆け込んだ。

 病院内で走ることはいけないと分かっているのに、どうしようもなかった。

 点滴を左腕に打たれたまま、これまで見たこともないひどい顔をしたあなたがいた。

 あなたはひどくかすれた小さな声で「よう」と言った。


    *      *      *


 キミはボクをひと目見ると微笑みを浮かべ、次の瞬間には泣き出した。

 ボクはわざとキミに気づかれるように、右手でキミを控えめに指さし、小さな円を描くように人差し指を回した。


「だって、ほっとしたから……」


 キミは口元を両手で覆った。

 でも、涙声はやみそうもなかった。


「キミは泣きすぎだ」


 ボクはかすかな声で言った。


    *      *      *


 私は泣いたままで「うるせえ」と思っていた。

 誰のせいだと思っているのよ、そう言いたかったけど、しばらくは声にならなかった。


    *      *      *


 ボクは嬉しさと申し訳なさで、頭の中がごちゃごちゃになった。


    *      *      *


 私は涙を止められなかった。

 自分の目であなたを見て、あなたの声を直接聞いて、ようやくあなたに会えたことで。


    *      *      *


 キミは何度もお見舞いに来てくれた。

 劇団の公演が迫っており、稽古で忙しいはずだった。

 だからいつも日帰りだった。

 往復7時間もの道のりを。

 かなり体力を使っているはずだった。


「電車で眠っているから、大丈夫」


 そうは言っても、ボクの右側でベッドに突っ伏しながら、いつの間にか眠ってしまうことが多くなっていた。


    *      *      *


 私は三日と空けずにあなたの病室にかよった。

 じっとしていられなかった。

 早くよくなってほしかった。

 劇団の公演を控えて稽古が佳境に入ってきたので、私はいつも日帰りだった。

 だからと言って、そんなことは問題にならなかった。

 すごいエネルギーで私は動いていた。


    *      *      *


 キミは何かとかいがいしくボクの世話をしてくれた。

 ボクはゆっくりと少しずつなら点滴を伴って歩けるのを、医師や看護師さんたちにも分かってもらえるようになった。

 だから、時間はかかるものの、自力でトイレに行った。

 尿瓶しびんなんてもう勘弁してほしかったからだ。

 キミは当然のようについてこようとしていた。

 さすがに病室で待っててくれと頼んだ。

 1時間経っても戻らなかったら助けに来てくれ、とは言っておいた。


 ボクはキミと出会うことになった、あのバイトを辞めた。

 復帰の目処がまったく立たなかったからだ。

 歴代引き継ぎの件はキミに任せた。

 キミは快く引き受けてくれた。

 ボクの次に誰が入ったのかは訊かなかった。

 その後ひと月も経たないうちに、キミも辞めていた。


「仕事は楽しかったし、周りの人も優しくしてくれたけど、もういられないと思って」


 キミは言った。


「でも、次のバイトは決めてきたから、気にしないでね」


 あのバイト先よりも今の部屋に近い場所なの。

 そう言って、キミは微笑んだ。


    *      *      *


 劇団の稽古に追われる一方で、私は新しいアルバイトを始めていた。

 稽古では集中できていたのに、アルバイトではそうはいかなかった。

 出費がかさんでいるから頑張らないといけないのに。

 私はうわの空になってしまい、けっこう怒られた。

 でもまだ始めたばかりだからと、すぐに許してもらえた。

 すごく後ろめたく感じてしまった。

 頭の中はあなたでいっぱいで、仕事が手につかなかったのだ。


    *      *      *


 退院の日、キミはまた飛んできた。

 3時間半の道のりを、始発に乗って。


「ひとりにしておけるわけないよ」


 キミは言った。


    *      *      *


 1か月弱で、あなたは退院できた。

 担当の先生からはこう言っていただいた。


「予想よりもずいぶん早く退院できて、よかったね。まだ若いから回復するのが早かったんだよ」


 私はあなたにこう言った。


「私のおかげなんだから。感謝してね」


 あなたは得意の苦笑いをしたあと、まだかすれたままの声でこう言ってくれた。


「もちろん感謝してる。キミにはずいぶん助けられた。心からそう思うよ。どうもありがとう」


 私はまた泣きそうになってしまった。

 けれども、あなたに「泣きすぎだ」と言われたくなくて我慢した。

 涙目だったけど。

 あなたはずいぶん痩せてしまった。

 まだ顔色は蒼ざめており、腕も脚も細くなっていた。

 退院とはいえ、これからしばらくは療養が必要だった。


「無理のない範囲で散歩をするとか、体操をするとか、少しずつ筋力と体力をつけていくことが大切だから」


 先生はおっしゃった。

 私はその言葉を肝に銘じた。

 あなたを支えたいと思った。

 私だけにできることなんだから、と。


    *      *      *


 ボクは地元の町を、休み休みではあったけれど案内して、いくつかの思い出を小声でキミに話した。

 そうしたかったのだ。

 ボクはまだぎこちない足取りで、のんびりとしか動けなかったけれど、歩くこともリハビリのうちだった。


「あなたの町を知ることができて、よかった」


 キミは言った。


「今度は私の町を案内するね」


    *      *      *


「せっかく来てくれたんだから、少しだけになるけれど、町を案内するよ」


 あなたはかすれた声で言った。


「そんな様子で、大丈夫なの?」

「歩くのはリハビリのうちだし、キミに案内したいんだ」


 私は嬉しかったけれど、心配でもあった。


「絶対、無理しちゃダメだよ」


 あなたはうなずいた。


「これからどんどんよくなって、元気な声でキミをからかえるようになるから」

「バカ」


 私はあなたの町をゆっくりと案内してもらった。

 高校時代のドジ話の舞台や、昔の彼女に振られた場所などを案内してくれた。

 あなたが元気になったら、今度は私の町を案内しようと思った。

 私はこの日、ちゃんとカメラを持ってきていた。

 このカメラで写真を撮るのが趣味のひとつなのだった。

 退院したあなたの写真を撮ろうと私は思っていた。

 この年に撮った1枚目の写真は、病院の前で苦笑いしているあなたになった。


    *      *      *


 ボクはキミの部屋にしばらく泊めてもらった。


    *      *      *


 あなたはしばらく私の部屋にいた。

 その方が私も安心だからだった。


「キミはやはり普通の女の子じゃないな」


 私はバリで買ってきたお香を焚いていた。


「特別と言ってほしいわ」

「なるほど。確かに特別だ。キミがいてくれて嬉しいよ」

「どうかしちゃったの? そんなこと言うなんて」

「まだ療養が必要だからかな」


 少しだけ減らず口が戻ってきたので、私はその分嬉しく思った。


 あなたは後期の試験に私の部屋からかよった。

 試験期間にはぎりぎり間に合ったけれど、体力の都合で全部の履修科目を受けるのは不可能になっていた。

 でもあなたは「留年したくないから」と、できるだけ頑張っていた。

 再試や追試、再履修まで覚悟すれば、進級はできそうだった。

 私は往復の道のりをなるべくあなたに付き添って歩いた。

 私の進級は問題なさそうだった。


    *      *      *


 ある日、目が覚めてみると、キミは誰かに電話をかけていた。

 バリに一緒に行った親友だと聞いた。

 キミはボクにバリ島で撮ってきた写真を見せてくれた。

 親友は確かに女性だった。


「それでね、再来週の1週間」


 キミは言った。


「部屋を交換することにしたから」


 お互いに好都合なのだと、キミは続けた。

 親友は彼氏と一緒にキミのこの部屋に来るらしかった。

 親友の部屋は鎌倉にあるとのことだった。


「一緒に行くよね」


 もちろんだった。


「いい療養になるよ」


 キミは微笑みを浮かべて言った。


    *      *      *


「再来週の1週間」


 私は言った。


「鎌倉に住んでいる親友と部屋を交換することにしたから」


 バリに一緒に行った親友にお願いして、快諾してもらった。

 あなたの気晴らしにも、リハビリにもいいと思ったからだった。


「鎌倉かあ。ボクの好きな町のひとつだ」

「ふうん。誰と行ったのかしらね」


 あなたは苦笑いしていた。


「小学生の時に修学旅行で行ったんだよ」

「それが本当だとしても、そのあとでいろいろあったんでしょ」

「キミはボクのことをよく知ってるなあ」

「あなたのことなら、世界でいちばんよく知ってるわ」


 私は自信を持って答えた。


    *      *      *


 キミは鎌倉での1週間を、ずっとボクと一緒に過ごすことに決めていた。

 ふたりだけでこれほど長い時間を過ごせるのは、初めてだった。


    *      *      *


 劇団の公演は、私の部屋から充分楽にかよえる近隣での二日ふつか間だけだった。

 あなたに見てもらえなかったのは残念なことだった。

 とはいえ、これでやっと一段落したので、鎌倉での1週間はずっとあなたのそばにいるつもりだった。


    *      *      *


 キミが決めたとおり、キミとボクはほとんど離れることなく、ずっと一緒に過ごした。

 ボクの体調はまだまだ万全ではなかったけれど、無理のないペースで町中を散策した。

 キミはボクと腕を組んで歩いた。

 雑誌で調べておいたからと、いろいろなカフェでコーヒーを飲んだ。


    *      *      *


 私はあなたのペースよりもちょっとだけ遅めに歩いた。

 調子に乗ってペースが上がってしまってはいけないと思ったからだ。

 あらかじめ調べておいたお店で、コーヒーを飲んだ。

 そうすることで、自然に休憩ができるようにしておきたかった。

 コーヒーのお供にはときどきチーズケーキも食べた。

 私だけでなく、あなたもチーズケーキが好きなのだと知った。


 親友の部屋は海のすぐそばだったので、毎朝海岸で散歩をした。

 あなたの町に海はないから、毎朝海を見られることは新鮮に感じられたようだ。

 あなたは普段より積極的に見えた。


    *      *      *


 まだ寒い時期だったこともあって、海に入ることはなかったけれど、海はすぐそこにあった。

 毎朝ふたりで海岸を散歩した。

 ボクは弱々しくて遅いながらも、だんだんと普通に歩けるようになってきた。


    *      *      *


「海は、毎朝違う表情なんだな」


 空とおんなじだ。

 そう言ったあなたの声はまだ少しかすれていた。


「でも、キミは変わらずそばにいてくれる。変わらない笑顔をくれる。とても心強い。大きな声は出せないけれど、小さな声でも、みんなに自慢したいくらいだ」

「そんなことを言ってくれるなんて、だいぶ元気になってきたんじゃない?」

「いいや、まだまだだけどね。でも、冗談ではないよ。素直な気持ちさ。病気で死にかけてみると、きっと素直になるんだと思う」

「なら、まだしばらく病気でもいいかも」


 あなたはまた苦笑いしていた。


「それはもう勘弁してほしいな」

「もっと素直になってくれるなら、勘弁してあげる」


 あなたは普通に笑っていた。


    *      *      *


 その日の空は曇っていて、海は少し荒れていた。

 なのに、ボクはそんな海をとても美しいと思った。

 初めての感覚だった。


 近所で採れたての苺を買って、キミとボクは海を眺めながら食べた。


    *      *      *


「集中治療室に入って、身動きできないまま天井だけを見ていたときに、いろいろ考えたんだ」


 あなたは苺をひとつ手に取ったままで話しだした。


「どんなこと?」

「すごく息苦しかったからだと思うんだけど、普通に息をできることは、なんて素晴らしいんだろうって感じた」


 あなたはしみじみと言った。


「ボクたちがあたりまえだと思っていることって、それをあたりまえだと思えるのは、とても幸せなんだって、気がついた。こうして海が見えること、つまり目が見えること。波の音が聞こえること、つまり耳が聞こえること。話ができること、動けること、他にもたくさん……」

「……」

「キミが買ってきてくれた苺を食べられること、おいしいと感じること、そして、キミがいてくれることだって」


 あなたは少し涙ぐんでいた。

 そんなあなたを見るのは初めてだった。


「ボクは自分で思っていたよりも、ずいぶん幸せなんだって分かった」


 私は胸がいっぱいになって、もらい泣きしてしまった。


「そうだね……私も、たくさんの幸せに恵まれているんだね」


 あなたは私の目を見て、微笑んでくれた。


「これで、勘弁してくれるかな」


 あなたは言った。


「そうね、勘弁してあげる」


    *      *      *


 風が冷たかった。

 キミとボクは肩を寄せ合っていた。

 距離を感じることはなくなりつつあった。


    *      *      *


 私たちはもうしばらく海を眺めた。

 とても温かい気持ちだった。


 手に取った苺を、あなたはおいしそうに食べた。


 甘酸っぱさがこの世界いっぱいに広がった。


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