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13 違和感


「おかえり! お義兄ちゃん」


場所は"星野勇気"の自宅。勇気が玄関の扉を開けると、すぐに結愛が出迎えてくれた。まるで待ち構えていたかのように。


「早かったね! 扉探し、なんて言うから夕方丁度くらいまで帰ってきてくれないって思ってたのに。・・・あれ、それにしては疲れてない?」


二人は、肩を並べてリビングに入る。勇気は、結愛が口にした疑問に対し、未だぼんやりとしながら応える。


「まあ、ちょっとハプニングが起きてな。早めに帰ってきた。 ・・・あー、先に手を洗ってくるな」


「あ、うん。行ってらっしゃい」


勇気は、リビングで結愛と別れ、洗面所へと向かった。


ーーーーーーーーーー


(大変な休日だった・・・)


場所は洗面所。勇気は、ため息をつきながら水道の蛇口を捻り、両手を水に潜らせる。両手から伝わる冷たい感触が、いくらか勇気の意識をはっきりとさせる。


(だけど、尊康・・・、どうして急に俺と話そうなんて思ったんだ? 学校では、いつも誰かに遮られていたから、言葉を交わしたことは一度もない。だけど今日は、向こうから話しかけてきてくれた。一体どういう風の吹き回しだ?)


勇気は、頭の中をぐるぐると回し始めた。今なら幾分か冷静に、中藤尊康について思考が出来る状況だと判断したからだ。


(学校では、俺が尊康に声をかけようとすると、必ず遮られた。言ってしまえば無理矢理な展開で。一度目は恵に、二度目は桜に。勿論偶然かもしれない、だけど、もし何かの思惑が働いていたら? ・・・そうだ。幽は、「世界がバランスを取ろうとしている」と言っていた。俺を「"星野勇気"に仕立てあげようとしている」と。これは、世界が"星野勇気"としての在り方を維持しようとしているということ、"星野勇気"の人間関係から察するに、彼は、女性以外と言葉を交わしたことが殆ど無いように思える。つまり"星野勇気"は、女性に囲まれていなければならない、ということか。だから、今まで、俺は中藤尊康と会話することが出来なかったと? この世界に来てから、俺は他人から、"俺"としてではなく"星野勇気"だと強制的に認識されているのだから、そんな答えでも何らおかしくはない筈だ。・・・なら、今日の出来事は何だ? 今の仮説が正しいなら、中藤尊康は間違っても俺と会話しようとは思わないだろう)


勇気は、再び水道の蛇口を捻って、水を止め、手拭き用のタオルに手を伸ばす。勇気は、手を拭い始めると同時に、思考を再開する。


(俺と会話しなければならなかった理由・・・、あの時彼は、妹である中藤美麗の付き添いとして楽器店に来ていたな。中藤美麗? そうか、彼女だ! 彼女の存在が、中藤尊康を突き動かしたに違いない。"星野勇気"の交友関係が女性に限られるなら、当然、"星野勇気"は中藤美麗もその輪に引き入れようと考える筈だ。彼が俺と同じ存在なら、生徒を極端に嫌うことは無いだろうから・・・。だが、中藤美麗、彼女は違う。彼女は生徒会に強い嫌悪を抱いている。それは、生徒会副会長である"星野勇気"も例外ではない。彼女が生徒会を嫌っているままでは、中藤美麗を"星野勇気"の輪に引き入れることは出来ない。だから中藤尊康が必要だったんだ! 中藤尊康は、中藤美麗の兄でありながら、生徒会に敵対心は持っていない。その存在は、中藤美麗が生徒会に抱く感情を緩和させるのに、もってこいだ。その上、中藤美麗には音楽で接すれば、警戒心を多少解ける事が、中藤尊康のおかげで分かった。それを知ったとき、"星野勇気"はどうする? 音楽をきっかけに、中藤美麗、そして軽音部と和解するに違いない。考えろ、これは好機なんだ。今なら、中藤尊康との会話を、世界が許してくれている。今どう動くかによっては、もしかすると元の世界に帰るための糸口すら見付けられるかもしれない)


勇気は、そこまで考えてタオルを置き、洗面所の出口の扉に手をかけた。


(とはいえ、これから何が起きるかは分からない。此方が行動する前に、些細な出来事から、まるで突風の如き勢いで「一件落着」してしまう可能性だってある。・・・そうなれば、俺の恋路は、きっと、絶たれてしまう。それだけは絶対に避けないと)


勇気は、気難しい顔をしながら洗面所を出て、リビングへ戻る。勇気が、リビングへの扉を開けると、結愛が暖かい笑顔を向けた。


「おかえり、紅茶淹れといたよ」


結愛が、小洒落たカップに注がれた紅茶を、机に置いた。


「あー、ありがとう。頂くよ。・・・。"星野勇気"は紅茶が好きだったのか?」


勇気は、紅茶を一口飲んで、何となく結愛に尋ねた。


「・・・、うん、そうだよ。取り敢えず・・・、なんて言うのかな、"お義兄ちゃん"の好きなものだったら間違いないかなと思って。・・・、もしかして苦手だった?」


おずおずと応える結愛に、勇気は首を振る。


「いや、そうじゃない、美味しいよ。ちょっと気になってさ。"星野勇気"と、俺とじゃあ、少し違うところもあるんだなと思ってな。こう言うのも変だけど、少し安心したよ」


(こうやって、俺と"星野勇気"の違いを見付けていければ、・・・俺が"夢"を見る事も少なくなるだろう)


「・・・? お義兄ちゃん?」


結愛が心配そうに勇気の顔を覗き込む。


「えっ? ・・・ああごめん、ぼーっとしてた。そういや、この紅茶、何時から用意してたんだ? 紅茶ってそんなにすぐ淹れられるものじゃ・・・。あっ、まさか天上社にそういう製品が?」


勇気は、取り繕いながら結愛に尋ねた。結愛は、笑って応える。


「んー、あるにはあるけど、私が手間のかかる方が好きなだけだよ、その方が愛情を込められるから。すぐに用意できたのは、お義兄ちゃんがもうすぐ帰ってきそうだなーって思ったから、ちょっと早めに準備始めてただけ」


「そうなのか、よく分かったな?」


「分かるよ、私だもん。・・・まぁ実際、お義兄ちゃんの携帯が何処にあるか分かる、ってだけなんだけど。それはそうと、紅茶の淹れ方とかよく知ってるね? 前まで知らなかったのに・・・」


「・・・あー、ちょっと前に、なんて言うか、優雅な食卓に憧れたことがあってな? 少しかじった」


「そうなんだ。・・・。本当、不思議だね、"記憶喪失"だけでこんなに_」


─~♪~♪~♪─


と、勇気の携帯電話が軽快な音楽を奏でた。


「・・・! 電話?」


その聞き覚えのある音楽を聞いて、勇気は携帯電話の画面を見た。


─『発信者 橘桜』─


「もしもし」


勇気は、通話ボタンを押して、携帯電話を耳に当てた。その瞬間、橘桜の風貌と、いつも眠そうに見える顔から発せられたとは考えられないような、炎のように熱い声が響いた。


《勇気さんキーボード弾けるって本当ーっ!?》


勇気は、骨まで響いたその声を聞いて、怯みながら応える。


「・・・っ、ああ、本当だけど。・・・あー。美麗に聞いたのか?」


《そうだよー、って経緯を話してる時間も惜しいー! ねぇねぇちょっと今からー・・・》


桜は、そこまで言って、言葉を詰まらせた。


《・・・、あー、ちょっと待ってー。勇気さんさー、今日の用事は終わったー?》


桜は、窺うように訊ねた。勇気は、楽器店での出来事を思い出しながら、応える。


「用事? ・・・まぁ、一応は終わったよ。それが何か?」


直後、桜が歓喜の声をあげた。


《よっしゃー! ね、ね、暇ならちょっと今から家来てよー! 勇気さんのキーボード聴きたいー!》


「え、今からか!?」


《当然だよー! もちろん、駄目なら仕方ないけどさー。もし勇気さんが記憶喪失になっちゃってる間だけ弾けるなら、今聞かなきゃ損でしょー? もしかしたら明日記憶が戻っちゃうかもしれないしー。お願いー!》


(記憶が戻るなら、それは喜ばしいことじゃないのか? ・・・分からないな、そういうものなんだろうか)


勇気は一瞬、薄情なんじゃないかと思ったが、よく知る他人の知らない一面を目の当たりにしたとき、興味を惹かれるのは確かだ。勇気は、桜の誘いを受けることにした。


("星野勇気"との違いを示し続ければ、彼女も、違和感に気が付くかもしれないしな)


「・・・あー、分かった。家は何処なんだ?」


《あっあー・・・、そっかー。んー、よし! じゃ電話越しに案内するから家出てー》


「了解した。・・・えーと、結愛_」


勇気は携帯電話から耳を離し、結愛の方へ視線を向ける。結愛は、勇気が口を開く前に応えた。


「私は大丈夫だよ、楽しんできて」


そう、結愛は微笑んだ。勇気は、軽く頭を下げ、再び玄関へと向かった。


「あっ、ちょっと良い?」


と、結愛が呼び止めた。そして、勇気の持つ携帯電話に向かって声を張った。


「桜先輩! 後でお義兄ちゃんが演奏してる姿、動画でくださいね!」


勇気は、はっとして、通話をスピーカーに切り替えた。


《了解ー! バッチリ撮っちゃうから私に任せてー! 勇気さんもそのつもりでねー!》


「分かったよ。それじゃ行ってきます」


「うん、行ってらっしゃい!」


勇気は、結愛に見送られ、"星野勇気"の家を出た。日は未だ高く、青色の空だ。


《じゃあー、まずは左ねー》


「分かった」


勇気は、桜の案内を頼りに、歩き始めた。


《結構直進が多いから、道もすぐに覚えるよー》


「そうなのか。・・・よく、"星野勇気"の家から案内できるな?」


《お互い、何回遊びに行ったと思ってるのさー、余裕だよー。それじゃあ次はー・・・》


ーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーー



《・・・で、前に見える焼肉屋さんで曲がって、勇気さんがさっき居た楽器店が見えたらもうすぐだよー》


勇気は、桜の案内通りに、交差点を曲がった。すると、桜が勇気の名を呼ぶ。


《おーい勇気さんー! ここだよー! 前、前ー!》


携帯電話の奥から聞こえた大声を聞いて、勇気は前方に目を凝らす。道の先で、桜が手をはためかせているのが分かる。


《今行くねー!》


桜が、勇気の方へ小走りで向かっていく。勇気も、それに合わせ軽く足を速める。そうして、二人は対面すると同時に通話を切った。


「どうしたんだ、電話で案内するんじゃなかったのか?」


「うん、そうしようと思ったんだけどー、案内してる途中で、「あっ、これ直接会いに行った方が楽だなー」って思ってさー、来ちゃったー。勇気さんも、こっちの方が面倒じゃないでしょー」


桜は、にへらと笑った。


「・・・あー、違いないな。それじゃ、付いていくから案内頼むよ」


「任せてー」


二人は、肩を並べて歩き始める。


「そういえば、「弾きに来い」って事は、家にあるのか? キーボード」


「そうだよー。親が音楽関係でさー、ちょっとしたスタジオがあるんだー、大体の楽器が揃ってるよー。今は殆ど私の部屋になっちゃってるけどー、たまに軽音部で集まって練習したりもするんだー」


「へぇ、軽音部で・・・、楽しそうだな」


「楽しいよー。何が良いって、茜ちゃんが家に来てくれるのがたまらなく良いんだー。茜ちゃんの私服なんて、滅多に見られるものじゃないしー。あっ、もちろん皆でやるセッションも好きだよー」


(セッションか・・・。そういえば、誰かと一緒に弾くとか、したことがなかったな)


「桜、覚えるのが比較的簡単な曲、何かあるか? ちょっと合わせてみたくなった」


勇気が尋ねると、桜は宝石のように瞳を輝かせた。


「本当!? それなら、良いのがあるよー! じゃあ練習してみよっかー! 丁度、着いたしねー」


桜は、言いながら足を止めた。そして、近くの住宅を差す。


「さ、いらっしゃいー」


桜は、家の扉を開け、勇気を招いた。


「ああ、お邪魔します」


勇気は、玄関を潜る。桜は、玄関の扉を閉めると、近くの内線電話に手を伸ばす。


「ちょっと待っててねー、お父さんにささーっと伝えちゃうからー」


桜は慣れた手つきでボタンを押し、受話器を耳に当てた。


「お父さんー? 桜だけどー。・・・うん、ただいまー。ちょっと勇気さんと一緒に、下のスタジオ使うねー。・・・うん、そうそうー、勇気さんとー。・・・でしょー!? うん、私もビックリしたよー、キーボード弾けるんだってー。・・・え、もう新しいの入れたのー? 流石お父さんー、ありがとうー。じゃあ使わせて貰おうっとー。それじゃあねー、用があったら呼んでー」


桜は、話終えると、受話器を置いた。そして、勇気の方へ向き直る。


「じゃあ行こうかー、こっちだよー」


桜に案内され、勇気は桜の後ろから付いていった。ポスターや、写真の飾られた廊下を抜け、階段を降りる。


「"下のスタジオ"って事は・・・、地下か?」


勇気は、階段を降りながら桜に訊ねた。桜は、少し振り向いて答える。


「そうだよー、色々楽器が揃ってるんだー。地下室は好きー?」


「ああ、好きだよ。やっぱり、地下室とか、秘密基地とかいう響きを聞くと、心が踊るよ」


「あ、分かるー、なんか惹かれるよねー。さ、着いたよー」


桜は、スタジオへ繋がる扉の鍵を開ける。そして、扉を開け放って大きく腕を広げる。


「さぁーようこそー、入って入ってー」


中は、五、六人が集まって合奏をするに十分な広さがあり、各種、ギター、ベース、ドラム、キーボード、中にはアコーディオンやバイオリン等、様々なジャンルの楽器が並べられている。見るものを圧倒する、まるで博物館のような空間だ。


「これは・・・凄いな」


勇気が感心した声をあげると、桜は笑いながら応える。


「でしょー? 私が産まれたときからしょっちゅう、此処で音楽の楽しさを教えられてさー。元々興味はあんまりなかったんだけどー、茜ちゃんが軽音部を作りたいって言うから今はこの通りー。・・・えーと、勇気さんがキーボード弾くならこれかなー? お父さんが入れてくれた新商品ー」


桜は、喋りながら深い菫色のキーボードを差した。勇気は、そのキーボードを覗き込む。どうやら、勇気には見覚えがあったようだ。


「あれ、これって・・・、俺が楽器店で弾いたのと同じやつだな」


「そうなのー? じゃあ私の目に狂いはなかったってことだねー。勇気さんの事は、茜ちゃんの次に分かるからねー。勇気さんの好みもばっちりー」


「そうらしいな。"星野勇気"は良い親友を持っていて、幸せそうだな。それじゃあ、何か弾かせて貰おうかな・・・」


勇気は、キーボードに向かい袖を捲る。すると、桜が呼び止めた。


「あー、ちょっと待ってー勇気さん。その前に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ちょっと頼み事があるんだけどー」


桜は、視線を動かさず、そう声を張り上げた。程なくして、宇宮輝の慌てた声がスタジオに響いた。


「桜先輩!? っ、勇気先輩の目の前で私を呼ぶなんて! っていうか、どうして毎度毎度私の場所が分かるんですか!」


輝が、声と共に顔を出した。桜は、首をかしげて応える。


「えー? でももう、勇気さんには打ち明けたんでしょー?」


桜はおどけた様子だが、輝は、心底慌てている。


「そっ・・・! そうですけど! ・・・うぅ、私にも心の準備というものがですね!?」


「なんか不服だなー、勇気さんに呼ばれた時は、どうせなにも言わずにひょっこり出てくるのにー」


「それは勇気先輩だからであって・・・! というかそれでも心の準備は出来ていませんからね? 勇気先輩が私を呼んだときなんて、今より酷い・・・心臓が破裂しそうになりますよ!」


「なんだか・・・申し訳ないことをしていたみたいだな」


勇気が、輝の台詞を聞いて口を挟んだ。輝は、突風のように勇気の方へ向き、慌てふためく。


「ああっ、ごめんなさい! そんなつもりではなかったんです、私は大丈夫ですよ! 勇気先輩が必要としてくれるならば、どうぞ私を手足として使ってください! 私の事などお気になさらず!」


「っ、ああ、ありがとう」


(不味いな、何か訊こうとしていたんだが気圧されて飛んでしまった。・・・えーと、あぁそうだ、思い出した)


「・・・あー、桜は知っていたのか? 輝がストーカーだって」


「まあねー。隠れてる輝ちゃんを、前に偶然見付けちゃってさー」


輝が、呆れたように目を逸らしながら、桜の言葉に口を挟む。


「偶然ですって? 冗談は止めてください、あの時声をかけられた時の威圧を私は忘れていませんからね。今回だって・・・、本当に何者なんですか?」


「別に何者でもないってー。ただ、見付けるのが上手かっただけだよー。そういえば、輝ちゃんって勇気さんの家でもそれやってるんでしょー? もし結愛ちゃんに見つかったら、威圧どころじゃないでしょー?」


「大丈夫ですよ。結愛さんは、勇気先輩への愛情は世界一ですけど、その他の感覚に関しては人並みですから」


「あれ、そうなのー? 輝ちゃん、結愛ちゃんの事もよく見てるんだねー」


「当然です。勇気さんの自宅へ入るならば一番警戒しなければならない相手ですからね。多少の調査は必須事項です。・・・って、そんなことより。頼み事でしたか? 何が必要なんです?」


輝が、話の軸を元に戻した。桜は、頷いて答える。


「そうそうー、ちょっと動画録ってくれないかなー。勇気さんのー」


輝は、それを聞いて首をかしげる。


「動画・・・、ですか? あまり録ったことがないから、得意ではないんですけど・・・」


輝が言うと、すかさず桜が口を開いた。


「輝ちゃん、勇気さんの盗撮動画のストック、幾つある?」


「え? ・・・えーと、あまり録らないので・・・、10000をやっと越えた辺りですね」


「・・・うん、十分だねー。ほら、結愛ちゃんに頼まれたのどうせ聞いてたでしょー? 勇気さんがキーボードを弾いてるところを録って欲しいんだー」


「え、私が録るんですか? ・・・えーと、どうして?」


「勇気さんがキーボード弾いてる姿なんて、今後見られるかどうかも分からないんだよー? そんな姿を綺麗に写すとか、ちょっと私には自信無くてさー、だから輝ちゃんにお願いしたいんだー」


「そういうことなら・・・構いませんけど。では、私はこれで」


「あっ、ちょっと輝ちゃんー? どこ行くのさー」


桜が、姿を消そうとした輝を呼び止めた。輝は、不思議そうに答える。


「え、動画を録るんですよね? ですから定位置に・・・」


桜は、一つため息をついて、輝に言う。


「輝ちゃん、いいー? 結愛ちゃんにも送る動画なんだからー、"正面から"録らなきゃ駄目なんだよー?」


輝は、桜の言葉に貫かれたかのように硬直する。


「・・・え、正面・・・・・・、から?」


稲妻のような静寂が走る。そして、徐々に、輝の耳が真っ赤に染まっていく。


「・・・ぇぁ、っ、無理です・・・! 正面って・・・、そんなっ、そんなこと! っ、ごめんなさい!!」


輝は、顔まで真っ赤にして、姿を消した。桜は、輝の取り乱した態度に目を丸くする。


「・・・あー、輝ちゃんって結構純情なタイプなんだー。仕方ない、私が録るかー・・・、残念」


桜は、肩を落としながら携帯電話のカメラを起動した。勇気は、その様子をぼんやりと見ていたが、視界に、妙なものをを発見する。


「なぁ、桜。そこ、肩のところからカメラが覗いているんだけど」


「え、本当ー?」


勇気の指摘を受け、桜は自分の肩の方を見る。確かに、勇気の方へ向けて、カメラが覗いている。もちろん、宇宮輝のカメラだ。どうやら、桜のすぐ後ろに隠れているらしい。


「輝ちゃん・・・、それは大丈夫なんだー・・・」


桜が、言いながら輝の方へ振り向こうとすると、輝が制止する。


「あっ、桜先輩! あんまり動かれるとバランスが崩れます! 今軽く体重を預けているので!」


「乗っかってるの!? 全然気付かなかった・・・ もー、言ってくれれば多少屈むのにー」


桜は、笑いながら、姿勢を低くする。


「じゃあー、勇気さんー。輝ちゃんの準備も整ったことだし、いつでもどうぞー」


桜は、肯定のハンドサインを示した。勇気の目の前には、中腰の桜と、彼女の肩に乗っているカメラ。そして、輝のものであろう、カメラを支えている両腕だ。少しばかり異様にも見えるこの光景に、勇気は苦笑しながら首をさする。


「・・・あー、なんだか小恥ずかしいな・・・」


そう言ってから、勇気は演奏を開始した。


まず、最初の音を鳴らす。その音は、勇気の耳から、脳、腕、全身に響いた。純粋で真っ直ぐなその音は、勇気の心を踊らせる。勇気は、突き動かされるように指を滑らせた。


曲が中盤に差し掛かる。勇気は、曲調に合わせて、指を弾ませるように動かした。勇気は、演奏する内に、いつのまにか笑っていた。勇気は楽しかった。この世界に来てから、今日まで、キーボードに触れてこなかった故の懐かしさか、それとも、天上社製の非の打ち所がないキーボードのお陰か。どちらと言うわけでもない。その両方だ。


曲も終盤に入る頃。勇気は、ふと桜と輝の方を見た。輝の顔は見えないが、桜は、純粋にこの曲を楽しんでいる様子だ。勇気は、彼女の様子が嬉しかった。今まで、自分の演奏を人に聴かせる経験をしてこなかったからだ。勇気は、初めての感覚に、気分を高揚させた。


そして、最後の音を鳴らす。


勇気がキーボードから指を離すと、辺りは静寂に包まれた。心地良い余韻が部屋の中を駆け巡る。少し間があって、二人分の拍手が聞こえる。勇気は、少し恥ずかしく思ったが、それ以上に嬉しかった。勇気は、はにかみながら感謝の言葉を口にする。


「ありがとう、二人とも。・・・えーと、どうだった?」


勇気が訊くと、桜は目を煌めかせながら見開いた。


「凄く良かったよー! 勇気さんー! 知らない曲だったけど、それでも十分引き込まれた! それって凄いことだよー!? ね、ね、輝ちゃんはどうだったー?」


桜が、言いながら振り返る。


「あれ、輝ちゃんー? どうしたのー?」


桜が、心配そうに視線を落とす。輝は、桜の足元で、カメラを片手に蹲っていた。輝は、微動だにしないまま、桜の言葉に応える。


「・・・ちょっと、心を落ち着かせています。ただでさえ最近供給過多だったのに・・・止めを刺された気分ですよ、もう暫く勇気先輩を直視できません、眩しすぎます。・・・。あ、桜先輩、これ、ちゃんと完璧に録りましたので、どうぞ、結愛さんに送ってあげてください」


輝は、体勢はそのままで、カメラを桜に手渡す。桜は、苦笑しながらカメラを受け取って、自分の携帯電話と共に操作を始める。


「・・・うーん、なんだろう。結愛ちゃんが、勇気さんに抱く愛は言わずもがなだけどー、輝ちゃんも半端じゃないねー・・・。愛の方向性が違う気もするけどー・・・。よしっとー、送信完了ー。ありがとうー、輝ちゃんー」


桜は、携帯電話とカメラの操作を終わらせて、輝にカメラを返す。輝は、未だ体勢を変えずにそれを受け取る。


「どういたしまして・・・」


「輝ちゃんの復帰は遠そうだねー・・・。そ・れ・よ・りー! 勇気さんー、何か合わせようよー! 勇気さんの演奏聴いてたら、早速私も弾きたくなっちゃったー」


桜は、無邪気な目で勇気を見る。勇気は、笑って頷いた。


「ああ、勿論」


「よーし、じゃあちょっと待っててー、楽譜諸々取ってくるからー!」


桜は、そう言って、スタジオを飛び出していった。


(活発な人だな、桜は。言われた通り待つとするか。・・・あー、輝は・・・、大丈夫か? ずっとあのままだけど・・・)


勇気は、蹲っている輝を見て、少し心配になり声をかける。


「なぁ、輝?」


「ひゃい!? っ、なんでしょう?」


輝は、素っ頓狂な声をあげた。


「・・・あー、大丈夫かな、って」


勇気が訊くと、輝は音を立てて立ち上がる。


「だ、大丈夫ですよぉ! ほら! この通・・・り・・・」


「っ、おい!」


輝が立っていられたのは数秒で、すぐに膝から崩れ落ちた。勇気は、思わず輝の傍まで駆け寄る。


「やっぱり駄目です・・・。勇気先輩が眩しすぎて、私はもう駄目です・・・。私って、潜伏中で精神を研ぎ澄ましていないと、勇気先輩の眩しさに触れた時、こうなるんですね・・・。体が、思うように動きません。家で、勇気先輩の写真を眺めているときは、こんなこと無かったんですけど・・・。生きてはいるので、どうかお構い無く・・・」


「そうか・・・。なぁ、別に非難する気はないんだけど、輝は、どうしてそこまで"星野勇気"に拘っているんだ?」


「えっ!?」


「・・・あー、いや、別に無理してまで答えないでくれよ。ただの、ちょっとした好奇心だからな。"星野勇気"の何が、輝をそうさせるのかと思ってさ」


輝は、暫く考える素振りをしてから、答える。


「・・・私、勇気先輩に一目惚れしたんです。もう、覚えていないと思いますけど、子供の頃、勇気先輩は、飛んできたボールから私を守ってくれました。その時の、勇気先輩の笑顔がとても眩しくて、忘れられなかったんです。その日から、どんどん勇気先輩への気持ちが大きく、抑えられなくなっていって、全てを知ってしまいたいと・・・、そう、思いました」


「・・・あー、笑顔か・・・。確かに大事だな・・・。でも、それだけでストーカーになったのか?」


「・・・それで間違いないです。私だって、人の笑顔一つでこんなことになるなんて思っていませんでしたよ。あっ、もちろん他にも好きなところはありますよ? 靴の履き方とか、耳たぶの感触とか・・・、あげ始めたらきりがありませんよ。けれど、それはストーキングを始めた後に好きになった点です。やっぱり、一番好きなのは今でも笑顔ですよ。誰かの冗談を聞いて笑っている顔、安堵したときに出る笑顔、そして、今日のように、何かを楽しんでいるときの笑顔。私にとって、勇気先輩の笑顔は生きる意味です。私は、勇気先輩の笑顔を見るために生きているんです」


(共感出来なくもないのが何とも・・・。うんうん、笑顔は"良い"よな、逞しい男のそれなんかは見ていて幸せな気分になるよな、分かるよ。だけど・・・)


「・・・そんなに好きなら、直接言葉を交わすんじゃ駄目だったのか? 今みたいに。笑顔だって、もっと間近で見られる筈だろ? なんなら、今からでも遅くはない筈だ。"星野勇気"が俺と同じ存在なら・・・、きっと貴女の事も許容してくれると思う。・・・彼は直接的な被害者だから、流石に、ストーキングは看過してくれないだろうけどさ」


「・・・分かっています。分かっていますけど、でも・・・、駄目なんです。これまでも、勇気先輩に全てを打ち明けようと、何度も挑戦してきましたけど、その度に、自分が何を話そうとしているのか分からなくなってしまって・・・恐れ、でしょうか。もし私が、自分で言うのもなんですが"天才"に生まれていなければ。もっと挑戦と失敗を繰り返して、恐れを払拭できていれば、想い人とただ言葉を交わすことくらい、簡単にできたのかもしれませんね。・・・今となっては、もう、ストーキングが身に染み付いてしまって、陰で勇気先輩を見守ることにこそ、心の平穏を見出だしてしまっているんです。もう、手遅れなんですよ、勇気先・・・ぱ・・・っ、あれ?」


突然、輝が言葉を詰まらせた。


「・・・どうした?」


「なん・・・で、私、勇気先輩の前で何を・・・!」


輝の顔が、再び、耳からどんどん赤くなっていく。


「どうして・・・誰か他の人に相談しているみたいに・・・! あ、嗚呼ぁ・・・! 私、今とんでもなく恥ずかしいことを言っていたんじゃ・・・! っ、ご、ごめんなさいっ!!」


刹那、輝の姿が消えた。


「っ、待ってくれ、輝! それってつまり・・・!」


勇気は、慌てて辺りを見回す。輝の姿は見えない。勇気は、いてもたってもいられず、スタジオを飛び出した。


「輝! 何処だ!? 頼む、戻ってきてくれ!」


家の中を歩き回りながら、勇気は叫んだ。しかし、輝が返事をすることはもちろんのこと、気配も、物音も、何もなかった。


(・・・。流石だな。俺じゃあ何処に居るのか見当もつかない。直接問いただすのは、またの機会にするしかないか・・・)


勇気は、踵を返して、スタジオへと戻った。


(輝の、あの反応は・・・、彼女は、俺を"俺"だと認識していたのか? 何故だ? 必ず、きっかけがある筈だ。思い出せ、さっきは何があった? 輝が現れたあと、俺はキーボードを弾いて・・・、それだけか? "星野勇気"には出来ない、俺だけが出来る演奏を聴けば、俺を"俺"と認識できると? いや、違う。それだけで良いのなら、桜だって気が付いた筈だろう。・・・。輝は、この直後、"星野勇気"の眩しさに触れて悶えていたな。まさか、これか? ・・・確かに、この後俺が話しかけた時には、もう、輝は"俺"を認識できていた。・・・、何でだ? どうにも理由がわからないな・・・)


「おまたせー、楽譜と、あと飲み物諸々持ってきたよー!」


と、桜が扉を開け放った。勇気は、その音と、快活な声に押され、思考を手放した。


「っ、ああ、おかえり」


「沢山あるから色々ジャンルは多いんだけどー、私のお勧めはー・・・」


桜が言葉を詰まらせた。


「・・・、あれ、そういえば輝ちゃんはー?」


「・・・あー、それなんだけど、輝がずっと蹲ってたものだから、心配して声をかけたんだ。そしたら・・・えーと、飛び出して行ってしまった」


「あちゃー、止めを刺された"気分"で済んでたのに、本当に止めを刺しちゃったわけかー・・・。輝ちゃん、気の毒にー・・・」


「俺が無頓着だったのかな・・・」


「んー、まぁ、大丈夫じゃないかなー? むしろ良い薬になったでしょー。輝ちゃんも、これに懲りて、素直に勇気さんと話せるようになれば良いけどー」


「そうだな。・・・、ストーキングなんて、しなくても済むようになって欲しいもんだ」


桜は、勇気の言葉を聞いて、くすりと笑った。


「良い副会長だね、星野勇気さん?」


「そうか? ただ、お節介なだけだろう」


「・・・なるほどねー。あっ、そうそう。曲、どれを練習するー?」


「ああ、そうだったな。・・・えーと、お勧めは?」


「私のお勧めはこれー、ちょっとアップテンポで弾きにくいかもだけどー、さっき勇気さんが弾いてた曲と似てる曲調だから、覚えやすいと思うよー」


「へぇ、ちょっと見せて」


勇気は、桜から楽譜を受け取り、流れるように目を通す。


「~♪~♪~♪・・・、なるほど・・・、練習は必要だけど、うん、これならすぐ出来そうだ。早速始めるか?」


「もっちろんー! 今日はこれからだよー、勇気さん!」


「ああ、違いないな」


勇気と、桜は、各々が演奏する楽器へと向かった。


勇気は、この時、微かながらも違和感を覚えていた。それはきっと、希望的なものだ。辿っていけば、誰かの秘匿、そして、届かなくなる想いに気が付けたかもしれない。だが、勇気はこのとき、違和感を辿ることをせず、心の平穏、安定を求めた。もちろんその選択は間違いではない、勇気が、孤独とも言えるこの世界で正気を保つためには、"自分"から、手を離してはならないのだから。


故に、勇気は、この日を楽しむことに決めた。"星野勇気"には出来なくて、勇気には出来る事を、今、全力で楽しむのだ。






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