恋文
『おはよう。今日もいい天気だね。貴方にとって今日が素敵な一日になりますように』
ここまで書いたところで私は一度メールを打つ手を止め、少しだけ悩んでから『愛してるよ』と付け加えた。そして文面を何度も何度も見直してから、震える手で思い切って送信ボタンを押した。
送信されたことを確認すると、私は携帯を机に投げ出しそのままソファに飛び込んだ。こういった言葉は何度か送ったことがあるが、やはり恥ずかしい。鏡を見なくても自分の顔が真っ赤に火照っていることがわかった。
彼と私は二週間前に恋人同士になったばかりだが、会ったことは一度もない。とある掲示板で出会い、成り行きでメールを始めた……という、所謂ネット恋愛だった。
その掲示板はゲームについて語る場だったのだが、彼と私は驚くくらい趣味が合っていた。ゲームのことばかりではなく、好きな漫画やドラマ、更にはアーティストまで丸被りだった。そこに運命を感じた私たちはメールを交わすようになり、次第に絆を深めていった。
『君のことが好きです。僕と付き合ってくれませんか?』
先に告白してきたのは彼の方だった。まだ一度も会ったことがない相手と……と、躊躇いがなかったといえば嘘になる。しかしメールの文面から垣間見える彼の優しさや、ほんの少しの切なさ。私はその全てが好きで、心から愛したいと思った。
それから今までの二週間の間、私は本当に幸せだった。メールの量は以前より増え、私の頭の中は彼のことだけで満たされていった。彼からメールが来ると嬉しさで心が弾む。素直な気持ちを送るたびに恥ずかしさと甘酸っぱさでいっぱいになり、『好き』と彼に言われるだけで口元が緩み、彼のことしか考えられなくなる。
顔の火照りが冷めたためソファから起き上がると、ふと私は彼に会いたいと思った。今まではメールするだけで十分だったのに、そう思い始めると止まらない。この目で彼の笑顔を見、この耳で彼の声を聞き、この手で彼に触れたい。メールの文面だけではなく、色んな面から彼をもっとよく知りたい。
机に投げ出されたままの携帯を見ると、まだ彼からの返信は来ていなかった。返信が遅い彼のことだ。返ってくるまでにはまだまだ時間がある。メールを待つ一時はじれったくもあり、幸せでもあった。
メールが返ってきたら、素直に会いたいと言おう。小さな決意を胸に抱き、私は再びソファに寝転がった。
* * *
目を覚ますと、時計は既に昼過ぎの時刻を指していた。
すっかり寝過ごしてしまった。僕はため息をついて、ゆっくりと身を起こした。カーテンは既に開いていて、窓からは高い位置にある太陽の光が差し込んでいた。
僕は辺りを見回し、携帯電話を探した。やがてすぐ傍の床に落ちているのを見つけると、拾い上げて画面を見た。
新着メール一件。差出人は最近付き合い始めた恋人だった。本文を読むと、僕の顔には自然と笑みが広がった。
画面に映る『愛してる』の言葉。きっとすごく恥ずかしく思いながら、何度も何度も躊躇ってこの言葉を打ったのだろう。僕にはメールを打ったときの彼女の気持ちがリアルに思い描けた。
『おはよう。返信が遅くなってごめんね。今起きたところなんだ』
そこまで打ってから、僕は一度手を止めた。しばし悩んだ末に『僕も愛してるよ』と打ち込んだ。僕らにとって飾り立てられた言葉は意味がない。結局、簡単な言葉が一番気持ちが伝わるのだと僕は思う。
送信ボタンを押すと、一度も見たことがない彼女の笑顔を思い浮かべた。きっと彼女は、とても優しい顔で笑うのだろう。メールから伺える彼女は、とても優しくて、暖かかった。
気づけば、僕が彼女に告白した日から二週間が経っていた。あの日から今日までの時がとても早く感じられるのは、それだけこの二週間が幸せだったからだろう。
突然、そろそろ彼女と会ってみてもいいのかもしれない、という考えが頭に浮かんだ。ネット上で出会った僕らは、友達としての付き合いこそ長くなるものの、まだ一度も会ったことがなかったのだ。
そんな相手を本気で好きになって、告白をして。僕はどうかしてるのかもしれない。しかし、どう考えても彼女が運命の相手だとしか思えなかった。ぴたりと一致した趣味や好みに、良く似た性格。彼女はまるで、もう一人の僕のようだ。
ふと喉の渇きを覚え、キッチンへと向かった。冷蔵庫の中から良く冷えた麦茶を取り出し、マグカップに注いで一気に飲み干す。心地よい冷たさが体の内部を走り抜ける。
ひとしきり満足すると、僕は半分ほどに減った麦茶を冷蔵庫にしまった。そして、水色でデフォルメされた猫が描かれたマグカップをテーブルに置き、ソファへと戻った。
* * *
ぼんやりとした頭で目を開く。いつの間にか部屋は淡い夕焼け色に染まっていた。
私は眠ってしまったのだろうか? まるで抜け落ちてしまったかのように、その時間の記憶がなかった。最近そんな風にぼんやりとしてしまう時間が多く、そのたびに私は不安になる。
ふと携帯を見ると、メールが届いていた。すぐさまメールの文面を確認し、私は頬を緩める。
心が晴れると、いきなり腹が空腹を訴える音をあげた。私はそんな自分に笑いながらも、朝から何も口にしていないことに気がついた。確か冷蔵庫に昨日の夕食の残りがあったはずだと考えながら、キッチンへ向かう。
キッチンに立つと、私は少し違和感を覚えた。私がよく見知っているものが、ほんの少しだけ変わってしまったかのような違和感。
キッチンの傍にあるテーブルを見て、私は違和感の正体に気がついた。テーブルの上に置かれている、水色の猫のマグカップ。これは私が愛用しているものではなく、客人用の、普段は食器棚の高いところに収納されているものだ。
冷蔵庫をあけると、朝にはプラスチックの容器に並々と入っていた麦茶が半分ほどに減っていた。疑問に思ったものの、私が寝ぼけて飲んだのだと結論付けて、私は食べ物を捜した。
軽い食事を終えると、私は再びソファに座った。ケータイを手に取り、手早く返信を打ち込む。
『奇遇だね、私も二度寝してさっき起きたところだったんだ。それより、そろそろ貴方と会ってみたいな』
早く彼の返事が知りたくて、私は急いでメールを送信した。彼はきっと『僕も会いたい』と言ってくれる。そしたら何処に行くか相談して、二人で具体的なことをすぐに決めてしまおう。
彼と会える日が、とても楽しみだ。