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一回

第一回:王冠ケテルの簒奪

 およそ人間の自意識ほど、始末に負えぬ贅沢品ぜいたくひんは他にない。

 余が目を覚ました時、視界を支配して居たのは、天鵞絨びろうどの如き重厚な静寂と、微かに鼻を突く薔薇の香であった。

 

 余は、余の知る限りの余ではない。

 鏡の前に立てば、其処そこには十五歳ばかりの、透き通るような白磁の肌を持った小娘が独り、当惑した顔をして立って居る。世にいう「悪役令嬢」なる卑俗な配役を、余という得体の知れぬ精神が、唐突に簒奪さんだつしてしまったらしい。

 

 指先を動かしてみる。節くれ立った記憶の中の指ではなく、しなやかな、熱い血の通った少女の指が、余の思考を先回りするかのようにくうく。

 これは「余」という王冠ケテルが、見知らぬ肉体の玉座に腰を下ろした瞬間、王国マルクトの生理機能が、余の預かり知らぬ熱量をもって脈動を始めたあかしであった。

 ふと、鏡の中の少女の双眸そうぼうと、余の視線が真っ向から衝突した。

 この瞳の奥に宿る、神をも畏れぬと自負した余の自意識こそが、今や最大の矛盾アポリアはらんで居る。

 天上の玉座を僭称せんしょうし、万象を俯瞰ふかんせんとする「余」という高潔な意思。それは、この矮小な肉体の檻に囚われた瞬間、かつて余が嘲笑わらって止まなかった「孤独」という名の卑俗な湿気に、無惨にも侵食され始めたのだ。

 絶対的な個を誇り、他者の介在を排したはずの純粋知性が、今や侍女の差し出すてのひらの熱に、すがり付かんとする程の微かな震えを見せて居る。

 支配者たる王冠ケテルは、そのあまりの高さ故に、地に足の着いた肉体の「安らぎ」という汚辱に、あさましくも焦がれてしまったらしい。

 

 「お嬢様、お目覚めになられましたか」

 

 戸口で侍女が、うやうやしくも心底案じたような声を出す。

 その瞬間、余の峻厳なる精神に、耐え難い「生理的な矛盾」が突き刺さった。

 余の理性は、この女を「舞台装置の一部」として冷徹に識別して居る。だが、この若すぎる肉体は、彼女の気配を察した途端、喉の奥を卑俗な飢えで鳴らし、あさましくも唾液を溢れさせた。

 「余」が彼女に命じようとしたのは、状況を把握するための冷徹な尋問であった。しかし、唇を割り、声帯を震わせて飛び出したのは、己の矜持を泥塗れにするような、甘ったるい菓子をねだる獣の如き喘ぎであった。精神の支配を嘲笑うかのように、胃袋が、内臓が、生を渇望して不器味に蠢動しゅんどうする。

 さらに、余を苛立たせたのは、視界の端に映った一輪の枯れかけた薔薇だ。

 それを見た瞬間、肉体の底によどんで居る「令嬢としての記憶」が、不吉な熱を帯びて逆流した。余の関知せぬ「恋慕」という名のアレルギー反応が、網膜を真っ赤に焼き、肺腑はいふを抉るような激痛となって襲い掛かる。

 愛すべきものなど何一つ無いはずの余の瞳から、意志に反した大粒の涙が、真珠の如き輝きを以て零れ落ちた。

 

 気高くあろうとする精神が、あまりにも無垢で執拗な肉体の「愛と飢え」に、美しくも無残に破綻はじょうさせられてゆく。

 

 余という不純物が、この完璧な配役の中に放り込まれた――。

 の世界という巨大な算盤そろばんの玉の一つに、余という異物が紛れ込んだ。

 物語は、余の意志とは無関係に、すでに精巧な歯車を回し始めて居る。

 

 これが、長い「濾過」の始まりであることに、当時の余はまだ気づいて居なかった。


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