くしゃハラ
「ふ、へ……へえっくし――」
「もう、いやあああああっ!」
な、なんだ? どうしたんだ?
おれは思わず体をのけぞらせた。突然、女子社員が甲高い悲鳴を上げ、椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、そのままオフィスから飛び出していったのだ。
彼女はたしか、新入社員だったはず。ストレスか? いや、それとも生理……?
「いやあ、彼女どうしちゃったんだろうなあ。ははは。さ、仕事仕事っと」
空気が凍りついたのを感じて、おれは場を和ませようと冗談めかして言った。パソコンの画面に視線を戻し、ふっと息をつく。係長ともなれば、こういう気遣いもやらねばならないのだ。
「あの、係長……」
「ん?」
背後から声をかけられて振り向くと、新入社員の鈴木が立っていた。やけに神妙な顔をしている。
「あの、ちょっと言いにくいんですが……」
「どうしたんだよ、おーい。ははは、あっちの悩みかあ? 若いなあ」
「いえ。その……係長がやってるのって、くしゃハラですよ」
「ははは……は? くしゃハラ……?」
くしゃハラ……ハラ? ハラスメントの“ハラ”か? セクハラと聞き間違えたらしい。だが、おれはセクハラなんてした覚えはないぞ。むしろ気をつけているほうだ。
「くしゃみハラスメントです」
「くしゃみ!?」
「はい。では、お伝えしましたので……」
「い、いや、ちょっと待ってくれよ。ははは、どういう意味だ?」
おれが呼び止めると、鈴木はわずかに眉をひそめた。静寂が漂い、ふと周囲を見渡すと、同僚たちが冷ややかな視線をおれたちに――いや、おれに向けていた。
おれは慌てて検索バーに『くしゃみハラスメント』と打ち込んだ。
「えっと、くしゃみハラスメント……“口や鼻を覆わずにくしゃみをする行為”……なんだこりゃ」
「では、失礼します」
「いや、待ってくれって。たかがくしゃみくらいで、そんなさあ。それに、生理現象じゃないか。ははは……」
おれがそう言うと、鈴木は露骨に顔をしかめ、ため息をついた。そのまま自席に戻ると、隣の同僚たちが『よく言ったな』とばかりに鈴木の肩や背中を軽く叩き、無言で頷き合った。
おれは咳払いをして、パソコンに目を戻した。画面に並ぶ説明文を読む。
“突然のくしゃみは攻撃的な音であり、受け取る側によっては深刻なハラスメントと認識される場合がある”……か。
……いや、なんだそりゃ。まったく理解できないぞ。だが今は、何にでも“ハラ”が付いて問題視される世の中だ。無視するってわけにもいかないだろう。
あ、そういえば子供の頃、近所にやたらでかいくしゃみをするおじさんがいたな。夏場は窓を開けっぱなしにしていたから、特によく聞こえたものだ。確かに、あれには苛立った。
おれもいつの間にか、あのおじさん側に回ってしまったということか……。仕方ない、改めよう。これも社会人の義務だ。
それからおれは、常にハンカチを携帯し、くしゃみのたびに必ず口と鼻を覆うようにした。音を抑える努力も怠らなかった。
「へ、へ、へ、へくしょ――」
「もおおおおおっ! いやあああああっ!」
なのに、なぜだ。
また女子社員が悲鳴を上げて、オフィスを飛び出した。さらに、他の女子社員たちまで顔をしかめ、おれに冷たい視線を送りながらぞろぞろと出ていく……。
いったい、どうしてだ。こんなにも気をつけているのに……!
「へ……へ、へっくしょおい! あーちきしょう! おっぱいオーマァンコゥ!」




