6話 ひい爺さんからヤバイ奴
翌朝、昨夜の情報を集めてきたシエラから、勉強会の中止の知らせを受けたアルーシャは、興味なさ気にパンをちぎる。
乾燥してボロボロと崩れるパンを皿の中にある山羊の乳に入れ、テーブルの上にある茶色い陶器の瓶から煎って砕いた木の実をスプーン3杯。
白くて丸い陶器の瓶から刻んだ乾燥果実を2杯と、象牙色をした素焼きの瓶から煎り麦をスプーン4杯。
蜂蜜が好きでは無いアルーシャは、琥珀色が緩やかに波打つ硝子の小さな瓶を遠ざけ、代わりに植物油と細かく砕いた胡椒と岩塩を入れた。
平民から王族まで食べるナソド王国の伝統的な朝食は、大変栄養が豊富である。
ナソドという国名は、古代語で『果実の地』という意味がある。
その名の通り、国には至る所に果物や木の実をなす樹木が自生しており、それは町の中ばかりか王城の中まで生えていた。
アルーシャの庭にある木も、その全てが何かしらの実をつけるものである。
小腹が空いたら、そこら辺の木になっている果実をもぎ取って食べるのは、ナソド王国では普通の事。
他人の家の土地や庭にあるものには手を出さないが、道端や公園に生えている木から取って食べるのはこの国では普通だった。
しかし、だからといって根こそぎとってしまうのは卑しい人間のする事で、それを許されるのは役所から制限付きの許可を得た貧困者か、行政が行う収穫員だけである。
それ以外の者は、成人男性が両手で持てる量が上限で、それ以上とろうとする者を発見した場合は、その果実を口に詰め込み食べきるまで拘束できるという法律がある。
ナソド王国の果実について一つ、諸国に広く語られる昔話がある。
その昔、西方の海洋国家と国交を始めた際、海賊上がりだったその国の使者が城や町中の木の実や果実を根こそぎ持って帰ろうとした。
収穫時期だったこともあり、その量は小麦の大袋で120袋もの量だった。(当時は1袋約40kg)
夜間にひっそり行われた犯行だったが、そのあまりの量と身勝手で悪質な行いに、王や貴族はもちろん王都の民も怒り心頭。
城下町の広場に大篭を用意させると、使者達を全裸にして縄でしばり、盗んだ果実と共にその中へ放り込んだ。
『何だただの晒し者か』と安堵した使者達だったが、彼らに罰を与えると思われた人々は、何故か建物の中に入り、屋根の上で酒盛りを始める。
宴会は夜まで続き、ようやく辺りが静かになり始めた深夜、それは起こった。
はじめはどこか遠くから聞こえた馬の蹄の音。
それは次第に増え、町の外から中央広場まで徐々に近づいてくる。
同時に、草木が揺れるざわざわとした音に、聞き慣れないざわめき。
気づいた人々は口を閉ざし、あるいは眠りに落ちた者を静かに起こして、蹄の音に耳を澄ませた。
人々の異様な雰囲気に、拘束されていた使者達は目を覚まし、不安げに辺りを見回す。
『一体何が起こるんだ!』
晒し者の仕打ちと、更に訪れる不気味な空気に、使者の一人が耐えきれず叫んだ。
しかし、それを囲んで見下ろすナソドの民は無表情に、あるいはニタニタと笑い、口を閉ざすだけだ。
そうこうする間に、蹄とざわめきが近づき、人々の目は爛々と輝き、使者の顔は恐怖に固まる。
はじめに現れたのは、一頭の馬と一人の騎士だった。
『ナソドの恵みは神竜より賜り、天と地に育まれし国宝!それを汚さんとする卑しき盗人どもには、大地の罰が下されよう!』
右手で手綱を操り、左手で国旗が結びつけられた篭から濡れた木の実を零して馬を駆る、金の髪の少年騎士。
それを追うように、同じく木の実を零す篭を持ち馬を駆る4人の騎士達が現れる。
屋根の上の人々から歓声が上がり、騎士達は輝かんばかりの笑顔を返して、手にしていた篭を使者達がいる篭に投げ込む。
そのまま王宮へ馬を走らせる騎士達を、平民も貴族も手を叩いて見送る。
訳が分からず呆然とする使者達だったが、しかし次に広場に現れた者達に、彼らの口からは断末魔のような悲鳴が上がった。
それは精霊たちに導かれてやってきた、夥しい数のリス、鼠、野兎などの小動物の群れ。
夜の明かりに照らされた無数のそれらは、黒く蠢く波となって使者達が入れられている大篭へ殺到した。
響き渡る絶叫。上がる歓声。再び酌み交わされる杯。
宴は夜明けまで続き、ボロボロになった使者達は動物を率いていた少年騎士達に連れられて国境へ捨てられる事となった。
一般市民どころか、貴族や王族まで参加した狂乱の宴は、翌日何事もなかったかのように生活する人々の異常さとともに、各国大使から本国へ伝えられ広く知られることとなったのである。
因みに、その時の金髪の少年騎士は、正確には騎士ではなく、当時環境庁の事務次官をしていた貴族のお坊ちゃんだった。
名はディレイン=クアラス。
刑の発案者としても有名で、ナソド王国史上頭がおかしい人トップ10に入る彼は、何を隠そうアルーシャの曾祖父である。
そして、ディレインと共にいた4人の騎士の内の一人が、当時外務庁長官の長男だったケルドムルザ=ニリテ。
今日アルーシャの部屋を訪れる、王子の補佐官ロウフェイルト=ニリテの高祖父である。
アルーシャの祖父の代で起きた北方民族との戦いにより、北に領地を持つニリテ家は多くの勝利を収めて武功を立て、以降、武門の家として名を馳せた。
一族の男の殆どが軍に所属するニリテ家で、ロウフェイルトは高祖父以来の文官である。
元々は王子殿下の乳兄弟であり、王子の成人とともに補佐官に就任された彼は、親兄弟とは違う線の細さで随分と御婦人方の噂になった。
しかし、線が細いとはいっても、それは体を鍛えに鍛えた軍人ばかりのニリテ家の中での話。
他の貴族子弟に混じれば普通だし、文官としてはかなり鍛えている方だった。
ロウフェイルトが、彼の高祖父のようにぶっとんだ事をしてくれる人間だったらいいな、と期待しながら、アルーシャは朝食を終えて身支度を調える。
シエラが出しておいてくれた浅黄色のドレスに着替え、花瓶から白い花を1輪引き抜くと、茎を適当に折って頭の上に差した。
薄く粉をはたき、柔らかな色合いの紅を唇に乗せて、下瞼にも同じ色を細く滲ませる。
化粧道具を広げ、ドレスに似た黄緑色を指の腹で拾うと、淡く色づくように上瞼を塗った。
「シエラ、どうかしら?イカスと思わない?」
「思いません。何処から見ても阿呆です」
化粧は普通なのに、頭の真上に花を咲かせて目を輝かせる主に、シエラは冷たく言い放って花をもぎ取る。
『コイツは分かっていない』と言わんばかりの表情をするアルーシャを無視し、その耳元に花を差し直したシエラは、彼女の頬に桃色の粉を乗せると適当すぎる化粧とドレスの皺をなおした。
「アルーシャ様、昨夜の件についてですが、どうやらこの部屋の庭の向こうは、第4妃であるシューリーン様のお部屋との事。侵入者は、その元婚約者との噂がございます」
「あら、皆が好きそうな噂ね。確か彼女は、南方にある……ベッハ出身だったかしら?工業の街の。そこの領主の娘だったわよね。後宮入りの前に婚約を解消していたはずだけど……」
「私だけでは、それ以上はまだ調べられませんでしたが、後宮内は未だ騎士が多くおります。私達侍女の動きも気にしている様子。お気をつけ下さいませ」
「あら、洒落にならない何かが起きたのね。丁度ロウフェイルト様がいらっしゃるし、軽くブッ込んでみようかしら」
「お気をつけ下さいませ」
「大丈夫よ。どうせ知られて困ることは教えてくれないわ」
「お気を付け下さいませ」
「そういえば、聞いてよシエラ。ロウフェイルト様、王子の補佐官のくせに、一昨日の蜘蛛の騒ぎで、私を助けるどころか指さして大笑いしてたんだけど、どう思う?」
「アルーシャ様が、根元が腐ったカカシのような動きをしながら奇声を上げていたと伺っておりますので、そのせいではないかと」
「あ、そうだわ、実家から持ってきた荷物に林檎の蜂蜜漬けがあったわよね。お昼に食べたいわ」
「かしこまりました」
「よろしくね」
好き勝手に喋るアルーシャを適当に受け流したシエラは、化粧道具を仕舞うと来客の準備を再開する。
大人しくソファに腰掛けたアルーシャが待ちくたびれて居眠りを始めた頃、ロウフェイルトが訪ねてきた。
「お時間をいただき恐縮ですアルーシャ様」
「こちらこそ、ご足労いただきありがとうございますロウフェイルト様。どうぞ、お掛けになって下さいませ」
側室への正式な訪問なためか、今日のロウフェイルトはフワフワした癖毛の茶髪を香油できっちりと撫でつけている。
前髪が上がっているため、白銀で細工された細いフレームの眼鏡と、禿げる気配など皆無と言わんばかりな生え際が目についた。
先日後宮へ案内されたときは、他の仕事の合間だったためか、多忙さが窺える少しくたびれた様子だった。
整えた身だしなみに、一見隙がなさそうだが、眼鏡の奥にある目は充血しているし、その下にはうっすらくまがある。
顔色も決して良いとは言えない。
その原因は恐らく昨夜の騒動で、流石のアルーシャも今の彼をからかうのはやめる事にした。
「ロウフェイルト様、余計なお話は抜きにいたしましょう。昨夜の侵入者は、第4側室であるシューリーン様の元婚約者様と噂に聞いております。それ以上は存じておりません」
「こちらは侍女がお一人になったと伺いましたが……。ええ、そうです。仰る通り、進入したのは元側室シューリーンの婚約者だった男です」
側室の前に『元』がつき、アルーシャの眉が跳ねる。
よもや同意の上で元婚約者を引き込んだのか。後宮やばい、恐ろしいと内心震えながら、巻き添えを食らう前に、何が何でも無関係を主張しなければと手に汗を握る。
涼しい顔をして内心冷や汗をかくアルーシャを見つめながら、ロウフェイルトは出されたお茶に口を付け、小さく息を吐いた。
「ご安心下さい、アルーシャ様は今回の件とは無関係と結論が出されております。ほんの数日前に後宮へ上がったばかりですからね。動かせる人間も、侍女がお一人だけですから」
「それを聞いて安心いたしました。それで、今夜は安心して眠れるのでしょうか?」
「進入経路は既に抑えておりますので、どうぞご安心くてお過ごしください」
「……承知いたしました。では、今日は図書室で本を借りて、部屋で大人しくしていましょう」
「念のため、後宮内の警備を増やしております。解決するまで、ご協力ください」
詳しい説明をしてこないロウフェイルトに、これはまだ解決まで時間がかかりそうだと思いながら、アルーシャは忙しそうな彼を送り出す。
シエラが手早くティーセットを片付けるのを横目にショールを羽織ると、アルーシャは早速図書室へ向かった。
昨日まで2人だった護衛が、3人に増えたのはかまわない。
だが、廊下には数メートル間隔で騎士が立ち、庭にはアルーシャの兄が所属する実力集団の第1騎士団の姿まであった。
風上を選んで歩いた方が良いだろうか。いや、流石に後宮の警備をするなら、あの汗の臭いはどうにかしてくるだろう。そうであってほしい。
気持ち呼吸を浅くしながら、アルーシャは足早に後宮の図書館へ続く渡り廊下を進む。
ほんのりとした尿意を感じた彼女は、足早に図書館へ向かうと、適当な本を数冊選んですぐに自室へ引き返す。
ゆっくり本を選ぶと思っていた護衛の騎士達は、慌ててアルーシャの後を追ってきたが、思ったより遠かった図書室のせいでアルーシャの頭の中はトイレでいっぱいだった。
表紙で選んだ鉱物辞典を、侍女へ預ける事を忘れる程度には、アルーシャの膀胱は危機だった。
駆けるように階段を下りながら、ふと、階段の踊り場にある窓から、茂みの中に光るものを見つける。
厄介なものを見つけた気がしたが、見て見ぬふりもまずそうだ。
アルーシャは内心で舌打ちすると階段を駆け下り、護衛がついてきている事を横目で確認すると、渡り廊下から茂みに分け入った。
何かを訴える女の声と、くぐもった声が聞こえる。
今日の靴がヒールの高い靴で良かったと思いながら、兄達から教わった人体の急所を思い出しつつ、アルーシャは荒事の現場に飛び出した。
「んむー!!むむむーー!」
「さあメリッサ様、どうか、私に全てお任せになっ……誰!?」
「る……るごぉぉぉ!!?」
飛び込んだ現場では、昨日の茶会でメリッサへの心酔を隠さず語っていたカパネラが、当のメリッサを押し倒していた。
乱雑に縄で縛られ、猿轡を噛まされているメリッサは、カパネラの侍女らしき数人に手足を押さえつけられ、捲れ上がったドレスの裾から金の臑毛が豊かな足を晒している。
その光景の衝撃で少しだけ濡れてしまった下着の感触に、アルーシャは腹から悲鳴を上げると手にしていた図鑑をカパネラの顔に叩き付けた。
小さく呻いたカパネラがよろめくと同時に、図鑑を振り上げて2撃目を叩き込む。
3撃目を加えようとしたところで、カパネラが腕で顔を庇ったのを見るや、アルーシャは図鑑を両手で持ち、ガラ空きになった細い腰を思いっきり図鑑で突いた。
知らない女の悲鳴が聞こえると同時に、見知らぬ侍女がカパネラを庇うように崩れ落ちる体に覆い被さる。
視界に入った新たな暴行犯の一人に、アルーシャは躊躇うこと無く腕を振り上げると、フリルが可愛いエプロンの肩紐めがけて図鑑の背表紙を叩き付けた。
新たな悲鳴と同時に、こちらへ飛びかかってくる別の侍女。
避ける事ができないと察知したアルーシャは、向かってくる侍女に向かって倒れ込むように体当たりし、羨まけしからん胸と鎖骨の間に頭突きを食らわせた。
その衝撃と痛みに侍女の息が一瞬止まり、同時にアルーシャは1歩足を踏み込んで踏ん張ると、よろめいた侍女の腿に図鑑を振り下ろす。
侍女が悲鳴を上げて倒れ込むのを視界の端に、アルーシャは女二人に両腕を地面に押さえつけられながら、逞しい足をドレスから覗かせる女装男に次の狙いを定めた。
「アルーシャ様、もうおやめください!」
「落ち着いてください!アルーシャ様!!」
「ふぬぁぁぁぁぁ!変態!死すべし!死すべし!!死すべぇぇえぇし!!」
「誰か!もっと人を呼べ!アルーシャ様がご乱心だ!!」
「嘘だろ!月の妖精なんだろ?!クアラス家の血の方が強かったのかよ!!」
目の前の変態どもを1匹たりとも逃してはならない。
そんな強い思いと混乱のまま暴れ回るアルーシャを、やっと追いついた護衛の騎士達が羽交い締めにして止める。
なおも暴れようとするアルーシャに、騒ぎ声を聞いて集まってきた騎士達は驚きながら止めにかかり、ボロボロのカパネラ一味を被害者であるかのように保護しようとしていた。
「待て!アルーシャ様はカパネラ様に襲われかけた私を助けてくださったのだ!傷つけてはならない!」
「イル……メリッサ様、それは本当ですか?…え?メリッサ様が襲われたんですか?」
「侍女達に両手足を押さえつけられ、抵抗できなかった。加害者はカパネラ様とそこの侍女だ。全員拘束するのだ」
このままでは変態どもを逃がし、自分だけが加害者になってしまう。
それは流石に面倒が過ぎると思ったところで、騎士に助けられたメリッサがアルーシャを押さえつけようとする騎士を止めた。
脱げかけたドレスから逞しい筋肉を惜しげも無く晒すメリッサの指示に、騎士達はきびきびと従ってカパネラ達に縄をかける。
抵抗をやめたアルーシャは、腕を押さえていた騎士達に非礼を詫びられるも、自分がやった事は分かっているので当然彼らを咎めることはしない。
後ほど事情聴取のため騎士が訪れる旨を伝えられたアルーシャは、騒ぎが収まるまで待っていたシエラを伴うと、再び騎士に護衛されながら部屋に戻った。
「アルーシャ様、お召し替えないますか?」
「そうするわ。驚きすぎて、少し漏らしてしまったもの」
「アルーシャ様、おしめ替えなさいますか?」
「……そうしようかしら。この後宮、想像以上に恐ろしい所だわ」
「恐ろしいのは混乱してバーサーカーになるアルーシャ様かと思われます」
「だって仕方ないでしょ?呼び出しのリンチかと思って一応止めに行ったら、変態が変態を襲ってる地獄絵だったのよ?」
「だとしても、他の側室やその侍女を分厚い本で滅多打ちにした事に変わりはございません」
「いえ、あれはもう、側室としては無理よ。侍女でもなくなるわ」
「そういう問題ではございません」
「そういう問題よ。大丈夫、こんな事件、どうせ詳細は伏せられるんだから。今日は何も起きていないわ」
「そういう問題ではございません」
「あー、寿命が縮むかと思ったわ。シエラ、新しい下着と、薄紫のドレス出しておいて。ちょっと体を洗ってくるわ」
「湯を用意するまで、少々お待ちくださいませ」
「汚れを流すだけだから、水で良いわよ。着替え、おねがいね」
好き勝手言って浴室に入っていったアルーシャを見送ると、シエラは指示された通りに着替えを用意する。
すぐに体を洗って出てきたアルーシャは、シエラに着替えを手伝って貰うと、ソファに腰掛けてシエラを下がらせた。
図書館から借りてきた鈍器……否、鉱物図鑑を広げると、事情聴取が始まるまでの間、本の世界に没頭するのだった。