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32話 もう何も恐いものないわ


側室誘拐と同じ頃に慌てて出た怪しい船などすぐに捕まりそうだと思っていたが、予想に反して船はアルーシャが目覚めてから半日経っても順調に川を下っている。

流石は海賊国家……と言ってやるべきだろうか……。


暇つぶしにデュートと会話していられれば良かったが、自分の匂いが酷すぎてアルーシャ自身も必要以上に口を開きたくない。

それでも、こちらの言葉を無視せず状況を説明してくれたデュートの優しさと、それを大きく後押ししただろう貴族という己の生まれに、アルーシャはひっそりと感謝した。


ドアには当然鍵がかけられているが、見張りはおらず、誘拐犯は朝夕の食事以外に訪ねてくることもないという。

船を操縦するための人数が足りないか、周りの船に違和感を与えないよう甲板にそれなりの人数をおいているのだろうというのがデュートの考えだ。

アルーシャが持つ漁師だった頃の記憶には、小さな漁船の知識しかないので、それが正解かどうかはわからない。

見張りの陰を感じさせないのは、人質の脱出に備え、油断させる目的もあるだろうとアルーシャは考えた。



小窓の向こうに見える雲は夕暮れの色を反射し始めている。

もうすぐ夕食らしいが、デュートが言うには出てくるのは残飯同然で、食事中縄を解いてくれることもないので、床に置かれた皿に顔を突っ込んで食べることになるという。

プライドの問題ももちろんだが、貴族として、側室として、そんな扱いを受け入れることはできないアルーシャは、食事が来ても目覚めていないふりをすると決めた。

空腹は感じるが、人質になっているとはいえ、王子の側室がそんな食事の仕方をしたと知られれば、王子はどうでもいいが王国の名に傷がつく。

意識を取り戻したと知られれば、身なりを整えさせられて、身の危険が増すという理由もある。

これまで汚れた姿のまま放置されているのだから、今更意識のないアルーシャを身綺麗にする気はないはずだ。

それに、馬車で倒れてから衣類を着脱した形跡がない事が、女性としての尊厳を守った証拠にもなる。


不快感と屈辱に、密かに奥歯を強く噛むが、叫び出すほどではない。これ以上の屈辱と劣悪な環境、そして理不尽を受け、時には誰かに与えた野盗時代の記憶が、アルーシャを絶望させずにいてくれた。


縛られている縄は全く緩む様子が無く、固く粗い縄の繊維でアルーシャの柔肌にはヒリヒリとした痛みがある。


攫った奴ら全員、絶対神殿の裁判に突き出して吊し上げてやる。

王子や国が何を言ってもかまうものか。むしろ、もし止めてきたら神殿に逃げ込んで、誘拐犯ともども王子を訴えてやる。

普通の令嬢なら、自害するか泣いて修道院に駆け込む状況にしてくれたウリオス王子に、アルーシャの中では怒りと憎悪が膨れ上がる。


「馬鹿王子が……尻が3つに割れるまでメイスでぶん殴ってやる……」

「……ナソドの側室……恐っ」


背を向けたままブルリと震えて呟いたデュートを一瞥するも、アルーシャは咎める事無く再び目を閉じる。

水も食事も取っていないので少しだけ体調が優れないが、下手に何か口に入れてこれ以上体を汚したくない。


「なあアルーシャ様よ、何でそこで王子様に怒るんですかい?普通、助けてーって思うところじゃないんですか?もしかしてだけど、アンタ……王子にはめられてこうなったとか……?」

「違うわよ。詳しくは、機密になるでしょうから言えないわ。貴方だって、余計な事は知らずにいたいでしょう?……さっきのは私の失言だったわ。忘れてちょうだい」


「……そうさせていただきます。俺は命が一番大事ですから」

「利口で結構ね。では、そのまま、たまたま船を盗まれた何も知らない商人でいなさい」


「そうします。ウチの組合は、高貴な方とは縁遠い、庶民に寄り添った商売なもんで」

「態度と口調で分かってたわよ。話してくれてありがとう。少し気が紛れたわ」


「俺もですよ。どういたしまして」



貴族恐い。関わりたくない。

そんな気持ちを全く隠せていないのに、デュートはアルーシャとの会話を嫌がらずにしてくれる。

この優しさと気遣いが王子にもあればと思いながら、アルーシャは床に感じる波とは違う微かな振動に目を閉じた。

それは、人が歩き回る振動だ。

船室にいても感じるという事は、何か活発に動く事があったのだろう。

ただ、そこに荒々しさはないので、夕食の支度や灯りの設置をしているだけだと思う。


部屋の中はどんどん暗くなるが、人質に灯りが与えられるはずがなく、広がる影が辺りを飲み込むばかり。

今頃王宮はどうなっているだろうか。

できれば、上を下への大騒ぎで、王子を吊し上げる貴族で大混乱に陥っていてほしい。

実際は、密かに追跡と人質確保するため静かで、王都で捕まえただろう協力者や敵の一部を尋問中で忙しいのだけだろうけれど。


元々は王子が起こした行動が原因の誘拐だ。

何の説明もしないのはまあ、あの王子だし……。だが、それでも何の準備も計画もなくやっているはずはない。

次兄セルダンに、可愛い妹を利用することを許させたのだから、王子の行動には相応の計画と狙いがあるはずだ。


後宮に入れられた時は、暇つぶしがてら王国の未来のために王子をけしかけるだけと思っていたが、ずいぶんととんでもない仕事を与えてくれたものである。

次兄も王子も、ちょっとは何か説明してあげようと思わなかったのだろうか?

後宮を出てからの縁談が決まっているのは、こんな状況になる可能性を見越していたのかもしれない。

誘拐されて垂れ流しになる可能性まで見越してくれていたのか、じっくり聞いてみたいものである。

それはさておき、アルーシャの身が危険に晒されると予測していたなら、嫁ぎ先はある程度内情を知っている者になるが……もしかして、縁談は形だけで口封じに始末され……いやだ、何だかこれ以上考えたくない。


それでなくても、前世記憶が複雑で次兄がいなければ神殿預かりになりそうだった身なのだ。

神殿に預けて駄目なら一度冥府に戻し、魂の調整をするかもなんて言われた。複数の前世という負担を今後の転生に負担をかけないようにするための措置らしいが、つまり一度殺されるという事である。

前世記憶の影響で精神のバランスが崩れたら神殿送りにされるこの命は、重いようで軽いのである。

記憶を別人のように人格化して同居している時点で、十分バランスは崩れている気がするが……。



近づいてくる振動に、アルーシャは深く目を閉じて体の力を抜く。

同じく振動に気づいたデュートが体を動かした音が聞こえたが、アルーシャは眠りに落ちたように反応せずにいた。

やがて金属が擦れる音の後、扉が開けられる音がする。


「くっせぇな……ほら、メシだ。女はまだ起きないのか?死んでないだろうな?」

「さっき、また何か漏らしてたから、生きてると思うぞ」


「マジかよ。ったく、半端な毒飲みやがって……クアラス家は女もイカレてんのか」

「なあ、それより、俺も出すもの出したいんだ。ズボンの紐、解いてくれないか?」


「あー……仕方ねえな。ってか、俺も毎回お前の便所なんざ見たくねえから、紐といたままにしておくぞ?」

「そうだな、正直、その方が助かるよ」


食事を持ってきた誘拐犯とデュートの会話を、アルーシャは目を閉じたまま聞く。

目覚めてからは一度も漏らしていないのだが、デュートは誘拐犯がアルーシャに触れて脈の確認をしないようにしてくれたのだろう。

アルーシャにとっては結構不名誉なやりかたをしてくれたが、彼なりに頑張ってくれたのだと思ってアルーシャは自分を納得させる。

布が擦れる音が少しの間続くと、誘拐犯はここでの仕事を終えて部屋を出て行った。

再びガチャリと鍵をかける音の後、愚痴を零しながら足音が遠ざかる。



「アルーシャ様よ、奴は行ったみたいなんですが、ちょっと用をたしたいんで、そのまま目を、閉じてもらっていいですか?」

「わかったわ」



ため息交じりに告げるデュートに返事をすると、彼が床の上を這って移動する音が聞こえる。

お互い大変ね……と考えながら頭の中で王子をメイスでぶん殴っていると、用を済ませて戻ってきたデュートに食事を見て見るかと聞かれて、アルーシャは目を開けた。


「どう見ても奴らの食い残しなんですがね。酷いもんでしょう?」

「本当に、残飯を適当に皿に入れた感じなのね」


誰かが齧った跡がある果物や野菜が入った茶色いスープは、適当に水で増やしたようで上澄が透明になっている。

それでも、無いよりマシと言ってデュートは溜め息をつきながら皿に口をつけた。

明らかな家畜扱いに、アルーシャはその姿を見てやらないよう、目を閉じる。

精霊の血と文化が色濃く、温厚さでは竜族に次いで名を出される事もあるナソド王国だが、この仕打ちを平然とする誘拐犯は生きたまま割腹して野晒しにせねば気が済まない。

絞首刑や斬首なんて、簡単に死ねる計などで許してやるものか。


「デュート、無事解放されたら、好きな物を腹いっぱいに食べさせてあげるわ」

「そりゃ楽しみですね。期待してますよ」


これ以上の辱めは受けられず、そのため食事を求める事もできないアルーシャの言葉に、デュートは口の周りを肩で拭きながら曖昧な笑みを返す。

それに同じ笑みを返したアルーシャは、喉の渇きを耐えるために目と口を閉じた。


遅くても、明日にはこの船はシャーレス公爵領から外海へ出ようとする。

助けが来るとすれば、河川用の港があって航行が制限されている河口付近。

この船で強行するか、外海用の船に移動させられるか。どちらにしろ、そこに隙があるはずなのだ。

だから、明日の今頃には、この縄は解かれているはずだ。


デュートが何か話している声が聞こえるが、瞼の重さに抗えない。

それが強い眠気か、意識の消失なのか、迷う思考に後者だろうと考え、1日以上水を絶てば当然だと思ったところで、思考は途切れデュートの声も聞こえなくなった。



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