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3話 第1側室……側……側……側室?

「昨夜は無事、殿下の訪れもなかった事だし、今日は後宮の中を見てまわって、午後から他の側室へ挨拶しに行くわ」



後宮生活二日目。

自分の寝台で、一人すがすがしく目を覚ましたアルーシャは、身支度を手伝う侍女達に告げた。


側室として後宮に上がりながら、初夜に独り寝するのは普通『無事』ではないのだが、アルーシャの性格に慣れた侍女達は何も言わない。

少々理解しがたい思考と言動をする主人ではあるが、それは他人がいない室内に限った事。

それを分かっている侍女達は、主の希望通り散策と挨拶回りの準備をするだけだ。


次兄からつけられたシエラは幼少の頃から知っているが、他の2人の侍女は後宮入りに合わせて母方の親戚が勧めてきた娘だ。

後宮入りは普通の嫁入りではない。

アルーシャと次兄は、実家に長く勤めている侍女達を連れてくるべきだと言ったが、親族の顔を立てる事も大切だという母の主張に仕方なく折れた。

1人は、母の実家が懇意にしている商家の娘。クアラス家での勤務態度に問題は無く、母方の祖父からの紹介でもあったから連れてきた。

もう1人は、母方の叔父の姪だか孫だか……。叔父曰く、不器用だが優しく思いやりがあるとの事で、アルーシャと年が同じ事から、後宮生活での慰めにと勧められ連れて行くことにしたのだ。


慰めなら慣れ親しんだ侍女を連れて行かせろと思ったアルーシャだったが、次兄から、側室の侍女として不適格なら即時実家に送り返して良いと許可を得た。

今のところ未熟さは残るが、アルーシャが実家にいる間、彼女の性格に素早く順応してみせたので、少しだけ期待している。

結果、一応長い目で見てやらないこともないと思って後宮に連れてきたのだった。


「さあ、まずは建築史に名を残すこの後宮を見学しに行きましょう」


荷ほどきの続きを引き受けたシエラに留守を預け、アルーシャは新人侍女二人を連れて後宮見物へ出かけるのだった。







長い年月をかけて増改築を繰り返してきた後宮は、様々な時代の建築的特徴が見られる事で国内外で有名である。

一部は建国以前からある建物で、歴史学者からは是非一度足を運んでみたいと言われている。

あまり勉学に興味が無いアルーシャだったが、学者が口を揃えて見たいと言う建物ならば興味が湧く。

その建物を見て歩くのは、後宮入りに際して唯一出来た楽しみだった。


後宮の入り口は飾りの無い石造りだったが、妃の部屋の周りはそれぞれ違う装飾がされていた。

第9妃であるアルーシャの部屋は青と白の石を使っているが、施された彫刻は森のそれだ。

濃淡様々な青色の葉が茂る木の幹は白く、時折野ウサギや鹿の姿が掘られている。

よく見れば、青々とした葉の中にも鳥やリスのや、枝に絡みつく蛇の姿も見えた。


侍女達と笑い会いながら隠れた動物を探していたアルーシャだが、ふと、動物たちが同じ方向を向いている事に気がつく。

はじめは妃の部屋の扉の方を向いているのかと思ったアルーシャだが、物言わぬ動物たちはアルーシャの扉を過ぎても向きを変えない。

気づいていない様子の侍女達と彫刻を愛でるふりをしながら、アルーシャは動物たちが視線で示す先を追う。

侍女達の部屋を過ぎ、もうすぐ青い森が終わるという所で、動物たちの視線は一対の小鳥の夫婦によって交わった。

白い巣の中で身を寄せ合う小鳥の上には、鮮やかな青で身を隠した鷲が不自然に翼を広げ、巣がある木の反対側には、茂る木々の合間を歩く牡鹿の姿があった。


再び鳥の巣へ視線を戻し、青いつがいを見た彼女は、その鳥の周りにある隙間に気づく。

人目がなければ、触れて確認してみたいところだが、それを留めて彫刻がよく見えるように数歩下がる。

なるほど、つがいの鳥の隙間部分は、離れて見れば一見わからないように出来ていた。

視線を上げて鷹を眺め、その視線の先を辿って天井を見上げて見る。


アルーシャにつられた侍女と見上げたアーチ状の天井には、雲を描くように掘られた曲線……の下で、銀色の巣を張った手のひら大の蜘蛛がカサカサしていた。



「ァア゛ア゛ァアアァァァ!?」

「キャァアアア!」

「イヤァアアア!」



女性としてどうかと思われる悲鳴を上げたアルーシャと共に、侍女も乙女の悲鳴を上げ、慌てて蜘蛛の下から離れる。

数歩離れて傍にいた護衛騎士達が駆け寄るも、蜘蛛は人間達をあざ笑うかのように糸を垂らし、手足を動かしてその存在を見せつけながら降りてきた。


虫や蜘蛛の類いが大嫌いな侍女の一人が、助けようとした護衛にたまらず抱きつき、騎士の鼻の下が伸びる。

後ろから来たもう一人の騎士は、侍女に足止めされた同僚にぶつかって地面に転がり、すぐさま起き上がろうと顔を上げるも、運悪く窓から吹き込んできた風で捲れ上がった侍女とアルーシャのスカートの中を見て固まっていた。

しかし、残されたアルーシャと侍女は、転んだ騎士にかまう余裕などない。

彼女達のスカートを捲り上げた風は、あろうことが、ゆっくりと糸を伸ばしていた蜘蛛の体を揺らし、彼女達の方へその体を運んできたのだ。

見たことの無いサイズの蜘蛛に迫られ、2人は完全にパニックである。



「ァオォゥ!!オゥ!オゥ!」

「キャァァ!キャァァ!」


「何事だ-!」

「いったいどうしたー!」

「アッハッハッハッハ!」


風に煽られ揺れ迫る蜘蛛を、アルーシャはオットセイのような声を上げて避ける。

円を描くように揺れる蜘蛛に、侍女の悲鳴も止まる事は無い。

静かな後宮に響いた幾度もの悲鳴に、廊下の向こうから男達がやってきたが、確認する余裕などなかった。



「何事だ!お前達、一体何をしているのだ!」

「アハハハ!!アッハハハハハ!」



男達の中にいる、赤っぽい髪の男が何か叫んでいるが、蜘蛛から逃れる2人にそんな余裕はない。

だが、耳に入った笑い声に、昨日後宮へ案内した男の顔が頭をよぎったアルーシャは、まさかと思って振り返った。



「お前は、クアラス家の……?ロウフェイルト、お前、見ていたのなら笑っていないで説明しろ!」

「ロウフェイルト、これは一体……」

「アッハッハッ!無理!無理!」


そこには、床に崩れ落ちながら腹を抱えて笑うロウフェイルト。そして、アルーシャの夫である第一王子リウオスと、ドレス姿の……立派な体格の……男?女?男?が、騎士を引き連れて立ちすくんでいた。


普段なら、面白い奴が出てきたと喜ぶアルーシャだが、生憎今はそれどころではない。

見ていないで助けろと言いたかったアルーシャだったが、視界の端に入り込んだ黒い影に慌てて身を引く。

貴様の敵はこちらだと言わんばかりにやってくる蜘蛛は、とうとうアルーシャの顔面めがけて迫り、彼女は咄嗟に手にしていた扇子を振り上げた。



「っふぉおい!」


豪快なかけ声とともに繊細なレースを体に叩き付けられた蜘蛛は、尾から伸びていた糸もプツリと切られ、廊下の向こうへと飛ばされていく。

その先には、驚愕に目を見開く女装男と、ポカンとした表情の王子ウリオス。

護衛達が「あっ」と声を上げるとほぼ同時に、アルーシャによって叩き飛ばされた蜘蛛は、ロウフェイルトの綺麗な茶色い髪にへばりついた。



「アッハッハッハッハッハ!」



蜘蛛の行き着いた先に、アルーシャはしまったと顔を顰める。沈黙したその場に、気づいていないロウフェイルトの笑い声だけが一際大きく響いた。

カサカサと手足を動かす蜘蛛に、騎士も王子も固まってしまったが、しかしそこで彼らと共にいた女装男が動いた。

彼……彼女?は蜘蛛を恐れないどころか、ロウフェイルトの頭の上で固まる客人を手で鷲掴みにすると、ごく落ち着いた様子で窓の外に放った。

その姿に、笑っている一名を除き、周りの男は半歩引いている。


そんな光景を眺めながら、アルーシャは今後の説明の内容を考えるが、脳内は女装男でいっぱいだった。



『これは何かのお祭りかしら?』



いや、たとえ祭りであったとしても、王子の後宮に女装男がいる理由がわからない。胸板が厚い。

後宮にいるということは、よもやはあれは王子の側室だろうか。いよいよヤバイ所に来てしまった気がする。


仮にあの女装男を側室だとして……否、女装男ではなく本当に女性だと仮定したなら、何番目の側室だろうか。脚や腕の毛がどうなっているのか非常に気になる。

首まで覆うふんわりとしたドレスが体型をカバーしようとしているが、顔が普通の肉付きなのでどうしても太っているようには見えない。

秀麗な顔には綺麗に化粧がされ、何とも言えない色気を感じるが、首から下がゴツ綺麗なドレス姿なので、不気味で仕方が無い。何だこの化け物は。誰だこんな面白そうなものを作ったのは。自分で鏡を見て疑問に思わなかったのか。



とにかく、仮にアレを側室だと仮定すると、王子と共に来たという事は、幼馴染みでもある第一妃のメリッサ様なのだろうか。

メリッサ様は長く病に伏せっていたために公の場には殆ど出てこなかったが、金の髪や深い青い瞳と高い身長は、噂される特徴と一致する。

だがメリッサ様が男だという話は聞いたことが無い。女装男だという噂も聞いたことが無い。あるわけがない。



メリッサ様は公爵家のご令嬢。

幼少より長く煩った病により、子を望めなくなった事から、王子妃の候補から外されることとなった女性だ。

もし、彼女が健康な体であれば、王子の最初の婚約者が亡くなられた後、後釜として婚約者になっていたはずの人である。



見た様子、顔色も良く、肉体もムキムキで健康そうだし、病の陰は見えない。

病ではなく、別の色々な問題がありそうな見た目だが、それは今はおいておこう。


では彼女は、もしかしてメリッサ様では無い別の側室なのだろうか。

しかし、同じ金髪青目の側室は第5側室のキュリア様だが、彼女はかなり小柄という噂だ。筋肉質な女装男という噂は聞いてない。聞くはずがない。



そうこう考えている間に、手をハンカチで拭った女装男は、王子と2~3言葉を交わし、護衛を連れてこちらへ歩いてくる。こっちくんな。

床の上で腹を抱えながらプルプルしていたロウフェイルトは、王子とその護衛に立ち上がらせられると、そのままどこかへ行ってしまった。


アルーシャは自分の護衛と侍女に姿勢を正させ、多分側室だろう女装男へと頭を下げる。



「見苦しい姿をお見せしました。昨日より後宮へ召し上げていただきました、第9妃のアルーシャと申します」



見苦しいどころではない姿を見せてしまったし、むしろ目の前の女装男の方が現在進行形で見苦しい姿を晒しているが、アルーシャは何事もなかったかのような顔色で挨拶をする。

対する女装男も、小さく頷き返すと、同じように淑女の礼を返してくれた。酷い破壊力だった。


しかし、女装男は返事を口にはせず、少し困った顔で周りを見ると、護衛の1人へ目をやる。

何か問題でもあるのか(いや、色々と問題だらけだが)と内心首を傾げているアルーシャに、女装男の護衛が申し訳なさそうに口を開いた。



「アルーシャ様、恐れ入りますが、こちらはウリオス殿下の第1妃メリッサ様です。メリッサ様は声が不自由でいらっしゃいますので、ご無礼とは存じますが、後ほどお手紙でご挨拶をさせていただくという形にさせていただけませんでしょうか?」



『この護衛正気だろうか…』



明らかにメリッサという名の別の何かを側室という護衛に、アルーシャは自分の耳とそれ以外の色々なものを疑った。主に目の前の現実とか、自分の記憶とか、この世界の常識とか。

しかし、とにもかくにも、この目の前の女装男は第一側室のメリッサ様なのだ。護衛騎士がそう言い、女装男も全く否定しない以上、この状況ではそうなのだ。


そういう事にしても、この女装男……いや、メリッサ様は、つい先ほど、目の前で王子と話をしていなかっただろうか?

その前にも、『何事だ-!』と低い声で叫んでやってきていた気がしたのだが、あれは夢かなにかだったのだろうか?


もしや、その声が不自由なために女性らしからぬ低い声が出ているという事か。そういう設定なのか。設定を作る前に考えるべき場所があったのではなかろうか。



どちらであっても面白い事が増えそうで、しかし下手に首を突っ込めば厄介な事は間違いないので、アルーシャは騙されて退散する事にした。



「まあ、お気の毒に……。そうとは知らず、失礼いたしました。でしたら私からも、後ほどお手紙を送らせていただいてよろしいでしょうか?」

「是非、よろしくお願いいたします。……メリッサ様も、楽しみにしていらっしゃるとの事です」



護衛の言葉に合わせて蕩けるような笑みを返すメリッサに、侍女達がほうっとため息をつき、アルーシャはにやけそうになるのを押さえて控えめにほほえむ。

次兄に叩き込まれた清楚で儚げなその笑みに、メリッサは一瞬目を見開き、彼女の護衛達も息を呑んだ。



「では、メリッサ様、ごきげんよう」



惚けるメリッサ達をそのままに、アルーシャは侍女達を連れて廊下を引き返す。

出来れば当たり障りの無い位置から後宮の人間関係を眺めていたかったが、予想外の形で第1妃と出会ってしまった。

しかし、殿下が幼い頃から密かに思いを寄せていたと噂されていたメリッサの、予想を遙かに裏切る見た目に、アルーシャの中では好奇心がみるみる膨らんでいく。



公爵家の一人娘であるメリッサは、7歳の頃に謎の病にかかって以降殆ど表には出なくなり、今回の新たな側室集めまで殆ど忘れ去られた存在だった。

対し、彼女の兄であるイルフェンは、その整った容姿と王子付きの近衛騎士という仕事柄、よく女性達の噂に出る。

アルーシャも以前夜会で遠目に見たことがあるが、確かに彼の髪の色や雰囲気は、幼いころに1度だけ見たメリッサとよく重なった。


重なるどころか、恐らくあの女装男、メリッサの兄のイルフェンだろう。

王子の幼馴染みで、近衛騎士で、公爵家の次男で、愛妻家で二児の父で、結婚前は彼に恋い焦がれる乙女が沢山いたと噂の。



しかし、彼は自らを妹のメリッサだと名乗り、酷いドレス姿まで晒し、そして王子もそれを了承している様子だ。

ならば、彼は……否、彼女は、公爵家の御息女メリッサ様なのだ。れっきとした淑女なのである。



アルーシャの、奇声を上げて慌てる姿から一転して落ち着いて対応する様子に随分驚いていたようだが、どうやら彼女は自分も変わり者だという自覚がないらしい。

それでこの先やっていけるのか、他の側室からはどう見られているのか、自分はどういう立ち位置になれば良いか。





考えることが沢山で嬉しくなったアルーシャだったが、しかし自室へと戻ると表情を引き締める。

一緒に散策へ出た侍女達は、もう落ち着いた様子で部屋の隅に控えていた。


彼女達が言うべき言葉を待ち、様子を見ていたアルーシャだったが、しかし返されるのは不思議そうな表情と「どうかなさいましたか?」という言葉だ。



「親戚の娘だからと思って連れてきたけれど、失態が過ぎるわね。突発的な事態で主を守らないどころか、護衛の足を引っ張る侍女はいらないわ。叫ぶだけで何もしない侍女もね。お兄様には手紙を出しておくから、教育をやりなおしてもらいなさい」



実家にいるならば許したが、後宮に来てこれでは話にならない。

早々に新人侍女2人に見切りをつけたアルーシャは、彼女達に荷物をまとめるよう命じると、手紙の準備を始めた。



実家への手紙と、メリッサへのお礼の手紙。それから、蜘蛛を食らったロウフェイルトへ、詫びと、恐らく途中から見ていて助けるどころか笑っていた事への文句の手紙を書かなければならない。

王子へも、失態を晒し騒ぎを起こした詫びの手紙を書かなくてはならないし、もうすぐ事情を聞きにくるだろう女官への対応もしなければならない。



筆を取り集中し始めたアルーシャの視界の端で、出戻りを命じられた2人の侍女は目に見えて落ち込み、しかし事務的に促すシエラによって自分達の部屋へ連れて行かれた。

2人の侍女に、彼女達を強く推薦してきた親戚の顔を思い出し、アルーシャはため息を堪えつつ、父への手紙に封をする。



彼女達の普段の実務能力は問題ないが、咄嗟の時に正しい行動が出来ない人間を傍に置く気などない。

まして、今のアルーシャはクアラス家だけではない、末席といえどこの国の王子ウリオスの妻という立場もある。


本来、あの蜘蛛はアルーシャより先に周りの者が気づかなければならなかったものだ。

たとえ気づけなかったとしても、彼女が扇子を振るう前に、侍女と護衛のどちらかが対処するべき事案である。

蜘蛛が王子とメリッサの方へ行かなかったのは不幸中の幸いだ。

ロウフェイルトの方へ言ってしまった時点で、十分最悪の事態だが、少なくともアルーシャや家族の胴と首が離れる事は無い。

出来れば、王宮から与えられたあの護衛騎士も変えてほしいところだが、侍女の妨害がなければそれなりに働いていただろう事を考えると、それを願うのは保留にした。



けれどやはり、考えれば考えるほど、先ほどの失態に頭が痛くなる。

次兄の手紙に、代わりの侍女は昔からアルーシャについていた者か、次兄の侍女を回してくれるよう書いて封をしたアルーシャは、残る3通の手紙の内容を考えて深い深いため息をついた。








出戻りを命じた侍女達が去り、各所への手紙を書き終えると、アルーシャは腕を回して凝り固まった肩を解した。

手紙を受け取った侍女のシエラがじろりと睨んできたが、アルーシャは無視して大きなため息をつく。


「シエラ、代わりの侍女が来るまで負担をかけるわ。よろしくおねがいね」

「かしこまりました。では、まずその品の無い立ち振る舞いはおやめください」


「部屋の中なのだからいいでしょう?」

「私の負担を減らすためでございます。さあ、お早くいつもの分厚い猫を被られてくださいませ。ここは領地の森ではございません」


「変わった生き物が沢山いるところは同じよ。でも、貴方に倒れられたら嫌だから、気をつけるわ」

「私がどうであろうと、令嬢としての振る舞いにはお気をつけくださいませ」


「来る侍女が皆、貴方みたいだったら良いのに」

「……考えるだけで同情してしまいます……」


シエラの呟きを聞き流して、アルーシャは机の上を片付ける。

他の侍女を追い出した手前、細々とした身の回りのことは自分でしなければならない。

良いところのお嬢さんである彼女は、何でも自分でできるわけではないので、本当に細々とした事ばかりだが……。



「今日はもう何もできないわね。シエラ、私はもう部屋から出ないわ。手紙だけ、お願いね」

「かしこまりました」



侍女が下がるのを見送ると、アルーシャは本棚から適当な本を取ってソファにかける。

後宮入りに際し、母が半ば強引に持たせた小説は、男爵令嬢がひょんな事から国の王子と出会い、様々な苦難を乗り越えて結ばれる物語だった。

何でも、貴族の御婦人方の間で流行しているらしい。

これで、少しは年頃の少女らしい性格になってくれればと思ったのかもしれないが、本一冊でどうにかなるなら、とっくに何とかなっている。


母からもらったこの砂糖菓子のような物語より、以前盗み読んだ父の書斎の隅にさりげなく置いてあった大人の絵本の方が、今のアルーシャの役には立ちそうだった。


あの本は本当に良いものだった。

初夜は男性に任せれば良いという、何の指南にもならない言葉より、よほどアルーシャの不安を拭い覚悟を決めさせてくれた。

実戦への恐れが無くなったわけではないが、少なくとも何をされるかわからない恐怖や、何が正しいのか分からない不安は無くなったのだ。

主が訪れない後宮に入った今では、本当に役に立つのか定かで無いが……。



悉く自分の趣味趣向と合わない、しかし内容はたしかに面白い小説を、これも話題作りと後学のためと思い読んでいれば、あっという間に夕食が運ばれる時間になった。

食後、メリッサからの手紙と花を受け取ったアルーシャは、すぐに机に向かうと中身を改める。


内容は、手紙のお礼、後宮入りへの挨拶、こちらへの心配と、筆談という手間をかける詫び。それから、後宮内にあるお勧めの庭についてだった。

綺麗な字だと思う。

上等な紙を使っているだけではない。整った筆跡は流れるようで、同時にとても力強く、アルーシャが感じたメリッサのイメージ通りで笑みが零れた。

気遣いの中に、時折洒落た冗談を交え、後宮という場所での不安を励ます言葉と共に、アルーシャに似ているという白い花と清楚な香り。

まるで乙女が夢見る恋文のようで、アルーシャは出そうになる笑いを必死に押さえる。



「この方、本当に隠す気があるのかしら……?」



ニヤニヤ笑いながら呟くアルーシャを見るのは、彼女の就寝の準備に来たシエラだけだった。

己の奇怪な主人を見る目は、完全に死んだ魚だった。




同時刻、アルーシャと同じように手紙を手にニヤつく令嬢が一人。

堪えようと閉じた唇から、クフクフと押さえきれない笑みをこぼし、歓喜に身を震わせるのは、シャーレス公爵家令嬢メリッサ。

花のような顔に変態じみた笑みを作り、ベッドに寝転がる彼女は、長く艶やかな自身の金髪を指に絡ませる。


「やったわ。やっと主人公ポジっぽいアルーシャが後宮に来た!これでもうすぐ…彼女が上手く王子エンドしてくれれば……!人形王妃エンドからも!処刑エンドからも!この嘘っぱち病人生活からも解放される!念願の平民人生が、ようやく見えてきてくれたわ!」



喜びのあまりか、手にしていた手紙をグシャグシャにしていつのも気づかず、メリッサは足をバタつかせて寝台の上を転がる。

白い頬を興奮でバラ色に染め、青い瞳をきらきらと輝かせるその姿は、状況が違えば皆が胸を高鳴らせるだろう。

部屋に誰もいないことを良い事に、ひとしきり暴れて独り言を叫んだメリッサは、興奮冷めやらぬまま窓を開け、夜空を照らす月を仰ぐ。



「がんばってね、クアラス家の月の妖精さん。がんばって、王子をモノにして、ついでにイルフェン兄さまとか宰相補佐あたりも適度にたらしこんで、私と無関係のエンドを!。あ、でも、美貌の次兄らしいセルダンとの禁断兄妹愛エンドとか、側室達との百合ハーレムエンドも捨てがたいわ。……ハッ!確か司法局長も根暗っぽいけど美形だったし……そっちと調教18禁エンドも……ムフ……ムフフフフェへへへへへ。清楚でか弱くて儚げなアルーシャたんだもん、きっと皆夢中になるよね。あー、どのエンドでもいいから、思いっきり目の前で観察したいわー……ちょっと王子にお願いしようかなー。お兄様は最近全然おねがい聞いてくれないし。でも下手に動くと私の破滅エンドの可能性があるしなぁ……けど適度に私が動かないとあの王子とは進展してくれないかもしれないし……」


決して人には見せられないような笑みを浮かべながら、メリッサは月にむかってブツブツと語り続ける。

庭からその姿を目撃した護衛の兵は、一瞬びくりと震えて驚いたものの、その正体が公爵令嬢だとわかると何も見なかった事にして視線を逸らす。

鉄の格子がはめられた窓から、夜な夜な不気味な笑い声が響くのは、夜の警備に当たる彼らにとって公然の秘密になっていた。



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