2話 来ない前提なんで
再び歩き始めたロウフェイルトについて行くと、廊下の壁から窓が減り、代わりに燭台と曲がり角が増えた。
空気の中に緑の匂いを感じ始め、そろそろ後宮へ到着かと思った頃、廊下の先に装飾が施された大きな格子扉が見える。
その両脇には槍を持った2人の騎士が、置物のように微動だにせず、あたりを警戒していた。
格子扉は、動植物をあしらった彫刻が見事で、絡み合う蔦薔薇は本物のように自然な作りだった。
蝶番は大きな蝶の形をしており、細部までじっくり眺めたくなるくらいだ。
格子の向こうには、楽園もかくやという程に、色鮮やかで美しい庭園が広がっている。
だが、これは後宮の扉である。
古今東西、数々の愛憎と陰謀が渦巻いたと歴史に綴られる王城の後宮。
ナソド王国代々の王太子とその妻が住まい、世継ぎを生み育てた後宮。
今日からアルーシャが住む、王子と8人の側室がいる後宮。
その入り口が、装飾で誤魔化しているとはいえ、鉄製の重厚な檻なのである。
しかもよく見れば、奥にもう1つ似たような格子扉と、堀代わりのような小川まで見えるではないか。
やばい所に来てしまった。
彼女の心情を表すのは、その一言だった。
「この格子扉は、2年前、ウリオス殿下が側室の皆様の安全の為に作られたものです」
まじまじと見過ぎていたせいだろう。ロウフェイルトが格子を前に振り返る。
装飾しても檻は檻。
仮にも自分の妻達を猛獣扱いするとは、王子が剛胆なのか、元側室達が相当危険だったのか。
何も返答出来ずにいるアルーシャを気にした様子もなく、ロウフェイルトは扉をくぐり、アルーシャも内心嫌々で中へ足を踏み入れた。
途端に、緑と花の香を纏う風が頬を撫でる。
廊下の片側は壁が無く、手すりの向こうには背が低い木が植えられていた。
後宮と王宮との間にはまた鉄の格子扉と見張りの騎士が立ち、その向こうから後宮の建物までは、アーチ型の小さな石橋がかけられている。
橋の下には縁を石で囲まれた人工の浅い小川が流れ、元を辿っていくと後宮の庭園が見える。
後宮の廊下は所々手すりが途切れていて、どこからでも庭へ降りられるよう階段がつくられていた。
壁紙や漆喰で装飾されていた王宮に対し、象牙色の石で作られた後宮は所々に彫刻が施されるのみで、華美さはない。
王宮よりも、後宮の方が古い時代に建てられているはずだが、建物自体の色合いが少なく、よく手入れをされているおかげか、さほど古くささは感じなかった。
建物だけみれば、王子の後宮と言うにふさわしい、伝統を感じられる美しい後宮なのに、あのゴツい鉄格子で全て台無しである。
嫁入りしに来たはずなのに、まさか幽閉される気分になるとは思わなかった。
否、幽閉気分に関してだけは、少しだけ予想はしていた。
だがそれは後宮に入って外界から遮断される生活を送る事に対してであって、あの下敷きになったら死にそうな格子扉を見てではない。
そして、それは後宮入り後暫くしてから感じる予想であって、後宮に足を踏み入れる前に感じるなどとは夢にも思わなかった。
しかし、残念ながら逃げ場は無い。
ロウフェイルトに促されるまま二つ目の格子扉を抜けて廊下を行くと、すぐに広い庭が見えた。
長兄が言っていた、側室達が大乱闘を起こしたという庭園だ。
一応箝口令が敷かれた事件だが、母の友人の御婦人方がお茶会で噂していたくらいだ。表だって話題にしないだけで、事件を知る者は少なくないのだろう。
たしか、事件の首謀者は後宮から出された後、人様の婚約者を寝取って一時期噂になっていたはずだ。
自分と同じ人間という生物でも、思考回路の構造が違えば全く理解出来ない生物に見える事を知った出来事だったので、よく覚えている。
それはそうと、今後2年間の後宮生活、良い暇つぶしや玩具を見つけなければ、退屈で石になってしまうかもしれない。
何か新しい趣味でも見つけようかと考えながら歩いていると、アルーシャが宛がわれた部屋へ到着し、先に着いていた侍女達に出迎えられた。
無事アルーシャを送り届けたロウフェイルトは、帰り際、何も書いていない本をアルーシャに渡すと、本来の職務である王子補佐官の仕事に戻っていった。
日々の出来事を書き留めると良いと渡された本は、なるほど、側室への贈り物としても申し分ない、上質な紙が使われている。
今後宮にいる側室達も、皆同じように日記を書いているらしい。
月日の感覚を忘れないためのものだろうが、暇つぶしの一つにはなるかもしれない。
既に荷物が整頓されている室内を眺めると、アルーシャは応接用の椅子に腰掛ける。
実家から連れてきた3人の侍女達は、お茶の準備をする者、日記帳を寝室に持っていく者、アルーシャの傍に控える者と分かれた。
「アルーシャ様、お疲れ様でした」
「少し、気疲れしたわ。ねえシエラ、あの格子扉は見た?後宮の正面入り口の扉なのだけど」
「わたくしどもは、まだ使用人用の裏門しか存じません」
「そう。使用人の扉は普通なの。なら、後で正面の入り口を見に行くといいわ。きっと驚くでしょうから」
「後ほど確認して参ります。ところでアルーシャ様、この部屋へ到着するまで、ロウフェイルト様の前で何かおかしな態度はなさいませんでしたか?ご実家にいらっしゃる時のような、奇っ怪な行動はなさいませんでしたか?」
「……それは、セルダンお兄様から聞かれるよう頼まれたのね?」
真顔で失礼な事を問うてくる侍女シエラに、アルーシャは一瞬考え、問いかける。
無言で頷く侍女の後ろに、一瞬期待で目を輝かせる次兄の幻を見たアルーシャは、米神を押さえて小さくため息をついた。
「ただ歩いてここまで来ただけよ。おかしな事と言ったら……そうね、殿下が側室に目を向けて下さるよう励んでほしいと言われた事ぐらいかしら。セルダンお兄様の妹だから、期待しているそうよ。本当に、殿下の周りはなりふり構わない状況のようね」
「アルーシャ様、どうぞ、真に受けてハッスルなさいませんよう」
「……覚えておくわ」
「ハッスルなさいませんよう」
「国の将来がかかっているのだから、あちらの期待には、答えなくてはならないわ」
「淑女らしく行動してくださいませ」
「え?なぁに?なら、淑女らしく殿下を誘惑すればいいというの?確かにそれが手っ取り早くはあるけど、殆ど初対面の男性といきなり股座仲良くなるのはどうかしら?」
「言い方にお気をつけ下さいませ。しかしながら、側室になられた今、それも間違いにはなりません」
「あーあー。本当、何だって殿下は女8人……私も入れれば9人ね。それだけ嫁にしてる状況で煮え切らないのかしら。貴族の勢力図なんて、前の側室達のお陰でガッタガタじゃない。今更どうなろうと焼け野原は焼け野原よ。とっとと好みの側室に跨がってほしいわ」
「その場合、アルーシャ様が選ばれる可能性もありますが、よろしいのですね?」
「これ以上、事を引き延ばして貴族院を騒がせるくらいなら、そちらの方が余程マシね。さて、おしゃべりはこれくらいにしましょう。もうすぐ後宮女官達が準備に来る時間だわ」
「かしこまりました」
その後、お茶を飲み終えたタイミングで王宮の女官達が訪れ、アルーシャは初夜の準備に忙殺された。
丹念に体を揉みほぐされながら、来やしない王子のためとはいえ、これはこれで極楽だと楽しんでいる間に、日は沈み薄い夜着に着替えさせられる。
用意された軽食では足りず、おかわりして満腹になったアルーシャは、驚く女官や、頭を抱えたり心配そうな顔をしたりと忙しい侍女達に別れを告げて寝室に入る。
寝室の端、小さなテーブルセットに用意された酒とつまみを一人で楽しみつつ、手持ち無沙汰になったアルーシャは、ロウフェイルトから渡された日記を思い出す。
いい感じにほろ酔いな状態で、今日の出来事や今王子を一応待っている状態の事をつらつらと書いていると、段々眠くなってきた。
一応、日付が変わるまでは王子を待っていたアルーシャは、最後にグラス1杯の酒をひっかけると、鼻歌を歌いながらベッドに入る。
実家で使っていたベッドと遜色ない柔らかさ、しかし格段に良い肌触りのシーツを堪能しながら眠りにつくのだった。
「……何だ、この酒臭い女は……」
草木も眠る丑三つ時。
ようやく執務を終えて、初夜の側室が待つ寝室へ訪れた王子ウリオスは、酒臭い寝息を立てるアルーシャを前に呆然と呟いた。
ロウフェイルトからクアラス家の娘が来たと報告を受け、顔を見るだけと思って正規では無い道から忍び込んだのだが、目の前にいるのは単なる潰れた酔っ払いである。
大きなベッドを斜めに寝て占領し、半開きの目からは夢を見てるのかせわしなく動く瞳がのぞく。
だらしなく緩んだ口は、唇こそしっとりと艶やかだが、『くぇっくぇっくぇっ』という、謎の鳴き声……恐らく笑い声が酒の臭いと共に絶えず漏れていた。
確か、クアラス家のアルーシャと言えば、『月の妖精』と呼ばれていた気がするのだが……あれ?おかしいな?酒の妖怪だったかな?
首を傾げつつも、アルーシャ=クアラスの顔を確認するという当初の目的は達成できたウリオスは、進入したとき同様、テラスから静かに外へ出る。
木々に隠れながら無事に庭を出た彼は、雲の影から朧に見下ろす月に目をやり、困惑のため息をついた。
滅多に人前に出ない、深窓の美姫。麗しきクアラス家の至宝。
見目の麗しさで有名なクアラス家でも、一際の美しさと性格の酷さで学生時代から有名な次男のセルダン=クアラスが、大切に隠す妹。
話の種になれば……と、軽い気持ちでアルーシャの寝室へやってきたウリオスだったが、待ち受けていたのは王子として育った彼には初めての不思議な出会いだった。
それはそれは、困惑と戸惑いに溢れ、トキメキなどというものには一切かすりもしない、不思議な出会いである。
補佐官であるロウフェイルトは、ウリオスにとって彼女との出会いは特別なものになるはずだと言っていた。
確かに特別な出会いだったが、思っていたのとは何か違う気がする。
ウリオスを側室達と向き合わせるため、一役買ってくれるだろうとセルダン=クアラスは言っていたらしいが、ウリオスは今それとは別の何かと向き合わされている気がする。
表面上は平静を装いながら、心の中では『あれ?おかしいな?あれ?おかしいな?』と何度も首を傾げて、ウリオスは自室への道を歩くのだった。