15話 後宮は歴史的建造物
王子の頬にできた手形については、さすがに緘口令が出されたらしい。
犯人の情報は得られなかったが、その代わり、あの後王子が、一連の騒ぎを聞いて怒髪天な王妃様に呼び出され、赤みが引いたばかりの頬に愛の拳を受けたという情報は得られた。
さらにその夜、国王陛下にも呼び出されて説教をされたらしいので、いい年をした男のプライドはズタボロになっていることだろう。
反省ついでに側室に手を出してくれればありがたいと思ったアルーシャだったが、あの王子なのですぐに期待するのはやめた。
王子が第8側室の部屋を訪れてから3日。
後宮内の騎士は減らないが、新たな騒動が起きなかったおかげで、側室達は落ち着きを取り戻していた。
幽霊の正体が、王子が側室達を心配して、密かに配置した警護の者だったという噂が流れたのが大きいだろう。
偶然見つけた侍女達が、幽霊と見間違え、訂正する間もなく噂が広がったため騒動になったという事にして火消しをしたようだ。
流石に、騒ぎを起こした幽霊の正体は王子でしたなんで言えないので、そうなるだろう。
噂を信じた側室や侍女たちは、てっきり後宮に無関心だと思っていた王子が、密かに側室達を守ってくださっていたと、嬉しそうにしているらしい。
引きこもっていたミナリスも、王子直々の説明と心を砕いた手厚い警備に感激し、無事元気を取り戻したそうだ。
宿下がりの願いも取り下げたので、神殿から怒られる事もなさそうだ。
めでたしめでたし、である。アルーシャ以外は。
一人素直に喜べないアルーシャは、侍女からの報告を聞いて乾いた笑いを返すしかない。
この秘密は墓場まで持って行かねばならないようだ。
口封じに消されない事を祈ろう。
王子はさておき、補佐官であるロウフェイルトは必要だと判断したら平然と殺る命令をしてくるタイプだ。あのインテリメガネはやばい。敵にしたらダメな目をしてる。絶対逆らわない。絶対にだ。
たとえ口外したとして、では幽霊に間違われた王子は夜中に後宮で何をしていたのかと調べられれば、アルーシャの元へ行き着く。
やっと王子が側室に手を出したと喜ぶ者ばかりなら良いが、アルーシャには正妃になれないので、揉めるのは間違いないだろう。
どちらにせよ、幽霊の正体は口にできなかった。
幽霊の事さえ忘れてしまえば、騒動は落ち着いたようなものだ。
後宮の隠し通路は側室の管轄外だし、そうでなくとも首を突っ込んで引っ掻き回す気はアルーシャにない。
後宮に入ってから、やっと訪れた平穏な生活に、アルーシャも余裕が出てくる。
いや、後宮内を騎士が大勢警備していたり土木工事しているのは、全く平穏ではないが……。
そんなおり、他の側室達から勉強会の誘いを受け、アルーシャは二つ返事で参加を決めた。
内容は、以前王立学術院の学者がしてくれた授業の復習で、後宮の建築様式を調べるというもの。
同時に、アルーシャに後宮内の主な施設を案内してくれるらしい。
最初の散策を蜘蛛やらメリッサで中断し、図書室以外引きこもっていたアルーシャにはありがたい誘いだった。
恐らく意図してだろうけれど、今の側室達は違う個性の美人が揃っているので、彼女たちを眺めるだけでもアルーシャは楽しい。
ウキウキで準備する彼女に、その腹の内を知る侍女たちは物言いたげな顔をしつつ黙って準備を手伝った。
そろそろ来年のドレスを注文する時期だと言う侍女の言葉を聞き流しながら、アルーシャは酒も飲んでいないのに上機嫌で図書室へ向かった。
「皆様、ごきげんよう。今日は皆様とお勉強できると聞いて楽しみにしておりましたわ。私、知らないことも多いかと思いますけれど、どうぞよろしくお願いします」
図書室には、既に半分の側室が揃っていた。
第2側室のツァルニと、第5側室のキュリア、第8側室のミナリスに歓迎されて、アルーシャはすでに資料が広げられた席につく。
少しの雑談を楽しんでいると、第3側室のノーラと第6側室のウルーリヤが到着し、勉強会が開始された。
以前は王立学術院の教授が来ていたらしく、今日はその授業の復習をしながらアルーシャが学ぶらしい。
内容は、このナソド王国をはじめとする、オルーフォン大陸東部南部の国々の建築美術について。
元々、住人の半分が精霊だった旧ダルレシオ王国から分割されたため、この大陸の古い建物は他大陸とは違う様式が多かった。
分かりやすいのは、柱の形状や窓枠飾りの系統、それに窓の形や壁画のモデルだ。
貿易の増減に比例して他大陸の文化流入量も変わり、その影響が各時代の建築に大きく影響している。
他大陸の壁画は神竜や冥府の管理者、再創期の世界再生の様子が主に描かれているそうだが、オルーフォン大陸は住人の性質から精霊王や動植物が多い。
彫刻のモチーフに用いられるのも、他大陸のような実写的な動植物ではなく、精霊のセンスで作られた題材不明の抽象的な形状が多かった。
改修のたび、当時の最先端の様式で手を加えられるために、この後宮は様々な時代の様式が混ざったらしい。
以前、授業のために来ていた教授は、後宮が宝の山のように見えたらしく、柱や壁を見ながら感動して泣いていたらしい。
「座ってばかりでは、疲れてしまいますでしょう?皆様、これから後宮内を散策しながら、使われている様式を見てあるきませんか?」
「ノーラ様、良いタイミングだと思います!私、今日はそれを楽しみにしてました。皆さんも、行きたいですよね?」
「あらあら、キュリア様ったら。もちろん行きますから、落ち着いてくださいな」
「そう言うツァルニ様だって、ソワソワしてるじゃないの。じゃあ、決まりね。ミナリス様とアルーシャ様も、いいわよね?」
「はい、ウルーリヤ様」
「楽しそうですね。もちろん、私も賛成です」
いち早く立ち上がったキュリアに、他の側室達は微笑ましく笑いながら、それぞれ資料を手に席を立つ。
机での勉強でも中心になっていたノーラが先頭になって図書室を出ると、一行は渡り廊下で足を止め、使われている柱を囲んで資料を囲んで話し合った
その後も、歩いては足を止めて資料を囲み、途中中庭で休憩をするものの、東屋の柱と天井彫刻の年代が違うことに気づいて議論がはじまる。
結論は教授が授業に復帰するまで持ち越ししようと決め、再び後宮内を歩いた一行は、昼食まで時間を忘れて壁画や窓枠の様式を見ていた。
後宮の柱や窓は、ナクハ朝を土台にソベル朝を融合させたコスフォイモ朝。
150年程前に生まれたコスフォイモ朝は100年前辺りには主流な様式となり、後宮だけでなく城内の一部にもその作りが見られるらしい。
王城の大部分は、180年前の大改修のため、ほとんどがソベル朝。
150〜70年前に建造、改築された箇所は、コスフォイモ朝。
それ以外の箇所は、近年修理改造した場所らしく、80年程前に隣国の文化の影響を受けて発生したクロカ朝。
まだ教養を学んでいる最中だというミナリスは、最初こそ楽しそうだったが、途中で理解の限界を超えたのか最後は必死にメモをとるだけになっていた。
アルーシャも実家でも学んではいたが、久しぶりに年代別の様式の名前を見るとワケがわからなくなってくる。
自分も次の授業までに、部屋で復習した方がよさそうだ。
「楽しかったけれど、少し疲れてしまいましたね!」
「そう言ってるキュリア様が一番元気そうよ?でも、確かに少し疲れたわね。私、午後から音楽室に行くつもりだけれど、一緒にどうかしら?」
「いいですね。確かに、午後は何も考えずに楽器を弾きたいです。ご一緒しますウルーリヤ様」
全く疲れが見えないキュリアとウルーリヤに、他の側室達は苦笑いするも、楽しそうだと次々参加を決める。
アルーシャもせっかくだからと参加を決め、結果午後からは全員が音楽室で遊ぶ事になった。
一度それぞれの部屋に戻り、果物だけの軽い昼食を済ませて音楽室に向かうと、先に着いていたキュリアとミナリスが本を手に壁を見ている。
どうやら午後になっても午前中の気分が抜けなかったらしい。
その後やってきたほかの側室達も同様で、結果、楽器そっちのけで一緒に音楽室の窓枠や天井飾りを見て『コスフォイ朝』『コスフォイ朝』と連呼する集団が出来上がったのである。
正直、何かの宗教みたいだったと思ったが、知っていると、窓枠飾り一つでも見ていて楽しくなってくる。
音楽室の装飾をひとしきり見た後の演奏会は、皆既に体力が付きかけているのか、とても静かな曲ばかりになった。
「楽しいけど、疲れたわー」
ほどほどの時間で演奏会を切り上げたアルーシャは、自室に戻るとソファにごろりと寝転がる。
行儀悪いくテーブルの上の果物をつまみながら体を伸ばした彼女は、そのまま視線だけで室内を眺めてみた。
後宮の廊下や教養スペースは、ほとんどがコスフォイモ朝だが、アルーシャの部屋の中はナクハ朝とソベル朝が混ざっていた。
どこがソベル朝かというと……寝室の角にある大きな柱と、衣装部屋の突き当たりにある壁。
どうしてここだけ……と考えると、『隠し通路』という言葉が自然と思い浮かぶ。
「…………」
アルーシャは、疑問に気付かなかったことにして暖炉の方へ視線を移した。
だって、どう見てもフラグなのだ。それ以外の何者でもないだろう。
冗談ではない。絶対に調べないと、強く心に決めた。
そう、これはきっと、過去の改修の際、誰かが工事費をピン跳ねして、お金が足りなかったから昔の作りのままにされたのだ。
そうに違いない。
そういう事にしておこう。
余計なことを考えないよう、アルーシャは起き上がって姿勢を正すと、目を閉じて心を無にする。
こうして自分の内なる声に耳を傾ければ、一瞬で時が過ぎていくのだ。
次に目を開けた時には、夕食の前でソファに横になっていて、体もスッキリ疲れが取れているという寸法である。
侍女たちの呆れた声を遠くに聞きながら、アルーシャは深い深い自分の世界に潜り込む。
今日の晩御飯はなんだろう。夜はゆっくりと飲みたいから、量は控えめにしておこうかと考えていると、次の瞬間エリスに夕食だと言って起こされた。
食事と寝支度を整えたアルーシャは、テラスに酒の準備だけ頼むと、侍女たちを下がらせる。
飲みすぎないようにと釘を刺してくるシエラに笑顔だけを返してため息を受け取ると、アルーシャは一人楽しく晩酌を始めた。
林檎の果実酒で今日の自分を労うと、ついつい大きなため息が出てしまう。
未だ後宮内の騎士は減らず、どこにいても人の気配は絶えないが、既に慣れたものである。
むしろ、通常の警備状態に戻った時に、不安を覚えてしまうかもしれない。
この人数で大丈夫なのか。
ちゃんと不審者を捕まえられるのか。
今ですら、庭の茂みから覗く後宮百鬼夜行どもが野放しなのに。
「ア……」
アイツら何やってんだよ。
思わず口をついて出そうになった言葉を、アルーシャは咄嗟に飲み込む。
一瞬顰めそうになった表情を慌てて戻し、どうしようか考えた結果、とりあえず気づかないふりをして酒を楽しむことにした。
こちらに来ようか相談している百鬼夜行どもの存在になど、自分は気づいていないのだ。
だから帰れと願ってみたが、はやり奴らは今日も手ぶらで目の前に現れ、当たり前のように王子が挨拶してきた。
「そなたは、いつも酒を飲んでいるな。それほど好きなのか」
「ごきげんよう殿下。ええ、お酒は私にとって心の聖水でございますので、無くては心が淀んでしまうのでございます」
「……月ではなく、酒の妖精であったか……」
「あら?よく聞こえませんでしたわ。今、何かおっしゃいましたか?
「いや、すまなかった。何でもない」
「さようでございますか。殿下は、飲まれますか?」
「この後も仕事が残っている。やめておこう」
「かしこまりました」
じゃあ来んなよ。仕事して寝ろよと思いながら、アルーシャは笑顔を返す。
頼んできてもらったわけでも、正式な渡りでもない、かってに晩酌を邪魔しに来ただけなので、来訪の礼は言わない。
むしろ、王子をツマミに程よく酔うことはできないので、とっとと帰れと思っていた。
高級じゃなくてもいい。
昔懐かしいクソマズいエールでも良いから、何か1本ぐらい持って来てくれたなら、少しは歓迎する気が起きるというのに……。
そこら辺をフォローするのも側近の役目だろうと、王子の後ろに控えるロウフェイルトに目をやったが、そこには何も考えない方針を固めた男の疲れた顔があるだけだった。
色々と察して、同情した。