夢のはざま3
マイヤは勇気を振り絞って声を上げた。ユリウスの手をしっかり握りしめ、彼の体温に頬を紅潮させながら。
「違うわ。違う」
最初は小さく、次に大きく。
「違う! 私を殺した人たちは、ユリウスのことも探していたもの。彼のことも殺すつもりだったんでしょう。最初から、王子様とも王様とも認めていなかったくせに!」
はあ、と肩で息をするマイヤは、ユリウスがそこにいなければ老人の眼光に倒れていたに違いない。
老人は本心を伺い知れない目でただそこに立ち、マイヤの言葉に何の反応も示さなかった。彼はただユリウスだけを見据え、その反応を叩き潰そうとしていた。
(もうだめ、なのか……)
と、ユリウスは悟る。頼もしかった老将軍が、すでに手の届かない場所まで行ってしまったことを思った。
思えば彼はカーレリンのため、実の息子さえ犠牲にしたのである。今更、何か別の新しいものを信奉しろと言われても無理だったのかもしれない。
コトヴァ老はただ十年以上前のカーレリンを、その輝かしい時代を愛しており、ユリウスはあの時代を再現するための駒にすぎない。
例え責任はなくとも、その立場に生まれたからには背負わねばならない運命がある。逃れられない鎖と枷がある。覚えていないほど幼かったならば無罪ではない。ユリウスはコトヴァの中で、なんらかの責任を放棄したのだ。老人はそのことについて、罰を与えているつもりなのだ。
「あなたが真にオウル家の血を継ぐ者であるならば、あの程度の刺客など打ち負かしておしまいになったはずだ。手違いから立ち回りは見られませんでしたがな、それで見極めるつもりでしたのに」
「ふざ……けるな、何人死んだと思っている!?」
「今となっては後悔しております、あの時点で見限っておればと。仕事から逃げ出す、軟弱な王にならずともすんだかもしれません」
マイヤが声を立てずに涙を流し始めた。彼女が泣くのはユリウスの代行だ。
「弱い王などいないほうがマシです。試されるのがお嫌なら、強い王におなりになればよろしい」
「カーレリンが再興しないまま、フェサレアの統治下で民が抑えつけられていた方がよかったのか?」
「元のような国にならないのであれば、再興も意味はないでしょう。あなたは試練をくぐり抜け、私はそれをよしとした。だからお助けしたのです。フェサレアを打ち負かすことに協力したのです。――しかし今になって、女に現を抜かしダンジョンなどというおもちゃにかまけている。臣下が失望するのも当然というものです」
「ダンジョンが爆発したら、また大勢が死ぬ。俺はそれを止めるつもりで……」
「戦の誉なき戦いに意味などありませぬ。死ぬ者は死なせておけばよろしいのです」
マイヤはユリウスの腕を抱きしめ、彼の肩に顔を埋めて泣いている。コトヴァはその鬱陶しさに苛立ったように頭を振った。それが彼がユリウスの最愛に見せた唯一の反応だった。
もはや対話が成立する段階は、とうに過ぎていたのかもしれなかった。ユリウスはコトヴァが街の老人たちのように衰えを見せはじめたところで、隠居を勧めるべきだった。
若い王はまっすぐに老人を見つめた。敬愛と尊敬は残ったが、それまでのような一途さは消えてしまった目で。
「――ラルフ・リュサルール・コトヴァ。そなたに蟄居を命じる。加えて、王宮に伺候する権限を解く。山間の領地に帰り、家族の思い出とともに暮らすがいい」
それはコトヴァにとって、思いがけない命だったに違いない。正気とそれ以外の間を目まぐるしく行き来する魂が、見えたかに思われた。人狼が主からの命を受け取って行動するには、長い数秒が流れた。
「……いたしましょう」
ああ、この声は聞いたことがある。最初に会ったときの会話だ。人狼が主の血族を見分ける第六感のことを、彼は寂しそうにこう言った――ご理解いただけない。人狼の忠義など、一度愛したものを愛し続ける偏執のことなど、他種族には理解できない……。
おそらく部屋の外には武装した男たちが控えており、ひょっとすると天井を突き破れるよう上の階にも待機していたし、下にもいた。それら全員にコトヴァは何も号令せず、また一人たりともその意思に反して動くことなく、老人が背中を向けて去ることで事態は終わった。
王の強権発動により有力者が王宮政治から排除されたとなれば、貴族からの反発は当然予想される。コトヴァを慕う勢力があまりに騒げば、彼は自らの名誉のため国に対して謀反せざるを得なくなるかもしれなかった。そうなればフェサレア以上の苦難が国を襲う。
ユリウスもまた、話し合いによらず臣下を追いやった王として、暴君と謗られる可能性がある。
これからの水晶宮殿は荒れるだろう。――と、ユリウスの袖を引く手がある。マイヤである。
「ユリウス、ここ、火の痕があるわね」
と、今気づいたかというように見上げて言うので、
「カーレリンが一度、滅びたときのままなんだろう」
こんな部屋は王宮では珍しくはなかった。フェサレアもカーレリンも、古くなった水晶宮殿を修繕するより新しい宮殿の計画を練る性質がある。どちらも実現しなかったことを含め、奇妙なところでよく似た国家だった。
マイヤはふらふらと部屋の中を見て回り、ユリウスが咎めないのをいいことに煤を被って変色した小箪笥の引き出しを開け、しゃがんで絨毯を撫で、壁の隅々まで丹念に見て触れて回る。
「おい、どうした?」
「ここ、あなたのお母様がいらした部屋だと思う」
「は?」
「だって私、ここにいた記憶があるもの」
えっ、という顔でふたり、見つめ合った。
瞬間に、記憶の奔流が目と目の間を流れる。ぱちぱちぱち、と小さな火花が目の奥に散った。ユリウスのいつも頭痛がする頭の中の部分を、優しい風が撫でた。
王妃は嫉妬深い人だったので、王は彼女をあまり愛さなかった。平時における【王冠】の官吏は王妃の仕事である。とはいってもそれは普段、宝物庫に厳重に安置され、人目に触れることはない。けれど彼女はどうやってかそれを取り出して眺めた、ここで。この部屋で。
(あ――)
貴婦人の爪紅の鮮やかさ。歌う声。寂しい、寂しいと泣く声。けれども子供に会えて嬉しいと、無事に産めてよかったと、喜ぶ声。
王陛下は今日もお気に入りの侍女のところ。明日は楽しい舞踏会で若い娘と一緒に踊る。わたくしがここにいることなど忘れている……。ああ、それでも。それでも。
「ありがとうユリウス。わたくしのところに来てくれて」
それで、おしまい。赤子は乳母に奪い去られる。いつもそう。ずっとそう、一人目も二人目も三人目も……四人目も。
――でも、愛しているわ。
【王冠】はそれを聞いていた。ハインリヒ六世も気づいてはいたのだろう、王妃が国宝を自室に持ち出して何やらしていること。王妃は魔法使いだった、危険は承知していた。けれど彼はせめてもの贈り物として、彼女にそれを許したのだった。
マイヤの膝ががくんと折れた。ユリウスはほとんど反射的にそれを受け止めに行った。間に合わなかったが、絨毯があったのでさほどの衝撃でもない。
「マイヤ!」
「ユリウス、私……ああ、ただいま。おかえりなさい。ずっと待っていたわ」
マイヤは両手を伸ばし、ユリウスを抱きしめる。その手のやわさ、腕のぬくもりにユリウスは静かに息を吐く。
それは夢の中で接触した過去の人たちが鍵を開けた、ユリウスの中の能力だった。魔法使いの母から生まれて、魔力を持たないなんてことがあるものか。それは隠れているだけだ。
カーレリン王国は【王冠】と【王の指輪】こそが王の証であり、国家存続の証だと二百年に渡って信仰した。王族の身体に紐づけて、決して盗まれたり壊されたりしないようにしようと考えついた。それは王ではだめで、末子や王女など力弱い者、万一負荷に耐えられず死んでしまってもいい者でなければいけなかった。そうしてユリウスが選ばれた。
魔力のない状態では知覚できなかったその縁が、魔法使いたちが複雑な古代語により畏れ敬って呼ぶ目に見えない鎖が、今、ふたりの間を繋いでいる。なにもかもが落ちるべきところに落ち、固定され、安定して、安心しているようにさえ思えた。
マイヤは――【王冠】は、彼女の主の腕の中に抱き留められる。至福。陶然……当然、そう。前から決まっていたこと。わかっていたこと。
本当ならもっとずっと前に終わっていた人生を、引き延ばした果ての結論。
「ああ、私、ようやくわかったわ。このために生まれてきたの……」
「いやだ」
と、ユリウスは首を振る。ぜったいに、それだけはいやだ。
「行かないと」
「どこに? どこにいくつもりだ、マイヤ。お前の居場所はここだろう」
「ううん、私――私の居場所は、こうなってしまった以上は、ここじゃない……」
ふたりは揉み合ったが、それはむつみ合いにとてもよく似ていた。本気でやり合うなんてできるはずはなかった。だって触れた肌と肌同士が、こんなにも甘い。肉が邪魔なほど骨が幸福に疼く。
「お願い、聞いて」
と笑って【王冠】は、己の役目を語る。
――ダンジョンはどうして封じられなければならなかったのか? 爆発事故や魔物の脱走が頻発したからだ、二百年前に。そして始祖イシュリアは人柱として白亜の塔に上がった。そこには古代文明の人々が封印の要として遺した聖剣があり、彼はそれを使って死ななくて済むよう足掻くことにした。彼は死ぬのがいやだった。王となったのは、死にたくないと足掻いた結果にすぎない。
ユリウスは後ろからマイヤを抱きしめる。吐息が彼女の耳に当たる。こそばゆい、気持ちいい。
「そう――言っているの、私の中のマリアンネ様が……」
「マイヤはマイヤだ。マリアンネなんて人はお前の中にはいないよ。お前はお前だし、俺は俺だ」
わかってないのね、と微笑むマイヤは姉の顔をして、かつて森の女神への信仰と、家や外での仕事に明け暮れていたときのように落ち着いていた。今、ここにいる瞬間が幸せだと心から信じていた。
「ダンジョンは封印されなければならないの。私は白亜の塔に昇る。てっぺんには……地球への出入り口がある。アルダリオン様しか扱えない門が」
古びた聖剣が、十年前のカーレリン崩壊とともに砕けた。そうしてダンジョンは地表に現れた。【王冠】と【王の指輪】には、その中に未だ遺るマリアンネの遺志には、それがわかっていた。鎮めなければならないと。
それができるのは、最強の大魔法使いアルダリオンが手ずから魔石にした、二番手に強い魔法使いマリアンネを素材とした魔道具だけだ。
「俺のせいか? 俺がそこを開けて、向こうへ行って、お前を見つけたから、お前が死ぬのか?」
「いいえ、いいえ。決してそうではないわ。もし万一それが真実なのだとしても、あなたの代わりを務めることができるのなら、私は嬉しい」
ユリウスはすでにマイヤの肩をがっちり掴んで、死んでも離すまいとする。彼にとって彼女は、もはや唯一無二である。換えはきかない。他の何を奪われようとも、他人がマイヤに触らたときほどの怒りではない。
「門が空いたのはたぶん、【王冠】と【王の指輪】の意思よ。マリアンネ様がそうしてくださったの。最後の希望をせめて逃がそうとして――」
事実、フェサレアの王族一派の残党狩りは熾烈で過酷だった。フェサレア兵はダンジョンの中にまで踏み込み、避難民たちを手当たり次第に切り捨てた。死体が見当たらない第四王子を連れていけは褒章がもらえた。手柄ほしさに、ユリウスと同じ年ごろの男の子たちが虐殺された。
きりがないことに気づいたフェサレア王が納刀令を出すまでの一週間に渡り、カーレリンの民たちは蹂躙され続けた。
ごく短い間だった。アルダリオンが見つけにくるまでの、人生に比べればほんの瞬きほどの時間。地球に逃げていられたのは、その間、せめて隠れていられたのは、まさに女神の思し召しだったのだ。
「だから、ダンジョンを鎮めにいかなきゃ。それが私の役目なら。あなたになんで助けてもらえたのか、ずっと考えていたの、ユリウス……」
愛おしげにマイヤはユリウスの硬い頬を撫でた。唇に触れる吐息には、夢が混じるよう。
マイヤがすっかり己の役目に酔いしれていることをユリウスは知って、頭をかきむしりたかった。こいつは――こうなったら言うこと聞かないから。
殴って縛って鎖に繋いで、ずっと足元に転がしておけばよかったのかもしれない。けれどユリウスにそれはできないのだった。社交も勉強も言外に押しとどめて知らんぷりしていた頃と同じようには。
「ユリウス、ユリウス」
と哀願するマイヤの声を、ユリウスはずっと聞いていた。腕の中の身体の柔らかさ、体温のかぐわしさよ。
失うことには耐えられそうもなく、けれどそれ以外に道はないことも頭ではわかっている。
ダンジョン爆発による損害も、嘆くだろう民の声も今は考慮の外である。ただ彼はマイヤを腕の中に抱き締めて、それからずっとそうしていた。手放すことの痛みについて考えるたび、頭の芯が割れるように痛んだ。




