死後のいざこさ2
「……あなたねえっ」
こらえきれない、と言いたげにルシェルは拳を握り、マイヤの目の前に仁王立ちした。
「えっ? あら、話してくれるの?」
「くれるの、じゃないっ! いったいどういうこと? どうしてエクトプラズムが残っているのよ!? 信じられない」
「ええ?」
マイヤはくるりと回ってみせた。
「そんなに変かしら、この姿?」
「変なんてもんじゃ……ああもうっ」
とルシェルは猫のように激しく顔をこすった。手を外すと魔法使いの目をしていた。
「あなた、人間じゃないわよ」
と言い放つ、その態度に迷いはない。
「え? 何を言っているの。私は人間よ。コヤの街のマイヤ。ユリウスの姉で……」
「そういうことを言ってるんじゃないわ。死してのちにエクトプラズムを残せるのは魔物か神様だけ! 金色の目をしていないものがそんなふうになるはず、ないもの。あなた人間じゃないんだわ」
ふうん、とマイヤは思った。正直言って、だからどうしたというのだろう、というのが本音だった。
――それがマイヤがユリウスのために生きることと、何か関係あるのだろうか。
ピンと来ていない様子のマイヤにルシェルは重苦しいため息をつく。
「そういうあなたは、何者なの? 【白の魔法使い座】の人なの?」
「ええ、そうよ。あなたに殺された仲間たちの一員よ」
マイヤはしょんぼりした。
「ごめんなさい。そうよね……」
ルシェルは気味悪そうにマイヤを眺めていたが、やがて慌ててフードを被りなおす。
「いけない。私、動けない子のお世話しなくちゃいけないの。あなたにかまってる暇なんてないわ。とっととどっかに行って」
「動けない子がいるの? そんな。なら病院か治療院に行くべきだわ。どんな怪我なの、病気なの」
きぃーっとルシェルは癇癪を破裂させる。美しい顔でもそんなふうにすれば歪み、こまっしゃくれた子猫がびゃあびゃあ泣いたようになる。
「あんたなんかに関係ないでしょ! ふん。全部全部カーレリンのせいだわ。ハインリヒ様のせいなんだからね!」
そしてマイヤを押しのけるようにして、といっても彼女たちは全然触れ合うことができなかったのだが、行ってしまった。
マイヤはしばらくそのままそこにたたずんでいたが、ふいに、
(――きゃ!)
と声も出せずに驚くような衝撃が耳から脳を貫き、みぞおちにまで落ちてきた。それでやっと足が動いた。
壁を潜り抜け、階段もなんのその、背中から落ちても傷ひとつ追わない。エクトプラズムの身体も案外に便利だった。
奥棟にマイヤは舞い戻り、そこに自分の身体があるのを見つける。
彼女自身は自分が風に等しい速さで王宮を駆け抜けたことも、そもそもルシェルが去ったあと、少年の死体のある部屋に一週間ばかりたたずんでいたことも知らない、わからない。
ユリウスが水晶宮殿をあとにして十日が経っていた。マイヤの身体は腐敗防止を施され、今は死に化粧もされていつもの自分の部屋に、寝台の上に戻っていた。
ユリウスが再度、悲鳴を上げた。
(泣かないで)
と思ったが、王は泣いてなどいないのだった。涙は出ていない。彼は泣くことができないから。
ギルベルトとユリウスだけがそこにいた。寝台のマイヤに取りすがるユリウスの声は、たぶん誰の耳にも届かないよう事前に人払いされている。王の感情をあらわにした姿など、恥でしかない。
「すまなかった。留守を任されたのに。ああ、許してくれ、弟よ……」
と、ギルベルトがユリウスの背中をさするが跳ね除けられている。
ギルベルトは臆せず、言葉を続ける。すごい人だ。マイヤがそんな態度取られたらなんと声をかけていいのやらわからず沈黙するか、逆に怒り狂って対話をやめてしまう。
「お前を襲った犯人は宮殿に入り込んでいたとわかった。どこの間諜か、わからないが」
と続きを話し始め、ユリウスもそれを聞いているのがわかる。
なるほど、怒り狂うユリウスを宥めるためにも、暗殺者の記憶を聞かせて気をそらす必要があったのに違いない。マイヤは素直に感心した。ユリウスは――弟は確かにマイヤのことを愛してくれていたが、それ以上にカーレリンのことも愛しているのだ。どっちも選べないくらい、ユリウスの中で大切なのだ。
「もうしょうがないわ、死んでしまったものは……強く生きないと。王様なんだもの」
などと弟の背中に向かって語り掛けたが、届くはずもないのだった。というか今この状況が生きているのか死んでいるのかもわからない。
「あ、でもねユリウス。私ひとつ思い出したことがあったの、あの治療院で襲われたでしょう。みんな殺されてしまって……あれはコトヴァの殿様の指図だったのよ。いいえ、私がそう思っているだけなのかしら? 部下の方たちの独断だった? でも、あのとき私があそこにいたことを、あなたが来る予定があったことを知っているのなんてコトヴァ様かギルベルト様しかいなかったはずでしょう。どうして……どうして自分たちが担ぎ上げた王子を、わざわざ殺そうなんてしたのかしら?」
とつとつと、マイヤの言葉は溢れてやまない。せめて残しておきたかったのだ、これからもっと辛い道を歩むだろう弟へ。
「あと、私を殺したのはルシェルよ。許せない! 魔法塔にいたってことは【白の魔法使い座】の一員だったのかしら。でも魔力がもうないとも言ってたわ」
マイヤは触れられない弟の背中を抱きしめ、肩に頬を乗せた。
「何かもっと別の生き甲斐が、あなたにあるといいんだけど」
ギルベルトの手がマイヤをすり抜け、そのままユリウスの背中を撫でたので、ぞわわっと悪寒が走ったマイヤは飛び上がる。今度はユリウスも拒絶することなく、異母兄にされるがままになっている。
「う。人に身体の中に手を突っ込まれるのって気持ち悪いのね……」
とマイヤが背中の布地を引っ張ってひいひい言っているうちに、ギルベルトがまるで歌うように、
「マイヤ嬢の敵討ちをしてやらなけりゃならない。そうだろう? お前は男だ。王だ。身内を殺されたということは、究極に舐められたってことなんだぞ。男が舐められて生きていけるものか。立ち上がれ」
と畳みかけた。――洗脳のようだ、とマイヤは思い、もはや止められる立場でないことに歯噛みした。せめてユリウスがマイヤのために生きていたように、カーレリンのために生きようと思ってしまわなければいいが。
マイヤがユリウスのため、父母のためといった理由なしに生きることがかなわなかったように、ユリウスもまた自分自身のために生きることができない人間なのだ。
十年前に滅びたカーレリンの、その火、軍のあげる鬨の声、攻撃魔法、降り注ぐガラス片、目の前で殺されたのだという王と王妃、などの――記憶が、拭いきれない黒いシミとなって彼の心に救っている。幸せになってはいけない、いけないと声がする。でも男の子だから、アルフォンソとフランチェスカとマイヤに愛され可愛がられて大きくなった子だから、それを振り払おうとダンジョンに駆けていくことができた。
マイヤにはできなかった。それは、別に、いい。
だってユリウスのために生きるのは、これ以上ない幸福だったから。
ただ今こうして目の前に己の死体を、涙を出さずに嗚咽だけを漏らすユリウスを置いて、ここを去っていかなければならないのだと思うと、もっと別に何かできたんじゃないかと思う。もっとたくさんの人のために、ユリウスのためという理由以上に、何かが……。
人間が生まれた以上、なさなければならない何事かを、何も掴めなかったことが残念でならなかった。
ふとマイヤは身体が軽くなっていることに気づいた。身体、といっていいのかどうか。彼女が自分の範囲だと認識している、透明な形が揺らいでいる。輪郭がとろけ、どんどん意識がふわふわとして、
(人間って、こんな感じで死ぬのね)
と思った。風呂場に貯めた水に頭を突っ込まれ、鼻の奥がきんきんして頭が割れるようにどくどく痛む、あれに比べれば夢のような終わり方だ、とも。
「いい人生だったわ」
と、目を閉じた。これで終わりと思えば残念である。手に入れた、伝えるべき情報も伝えられないまま。
でもユリウスは生きているのだから、半分、マイヤの勝ちみたいなものだ。
「――いやだ」
とユリウスの声がした。マイヤの耳はそれに反応し、身体の中心の部分がぐいっと引き戻されて、指の先がぴくりと動く。そして目を開けると、目の前にユリウスの顔があった。
まだ若い、けれど男になりかけた顔である。目がすっかり白い光を放って、瞳孔くらいしか青い色が残っていない。白目の部分まで光るほどの白さ。顎の形がきゅっと尖りはじめていて、額のまっすぐさ、眉と上瞼が平行なところ、すっきりした鼻梁や薄い唇が驚くほど綺麗だった。
「いやだ。行かないでくれ。――あんたは行ってはならない。俺の傍に、いないといけない」
とユリウスは慟哭した、かすれた声で、涙なしに。マイヤの胸の上に突っ伏して。
そこには鼓動もなにもあったものじゃなかった。腐敗を禁じられているとはいえ、時間を止めたわけではない。すでに死後硬直も解け、だらんとした死体の胸。
「……ひゅぅ」
と、息が戻ったのは、だから見間違えかと男たちは思った。
がは、とマイヤは咳をした。血が通っていなかった身体にそれが巡り出す、激痛。けれども悲鳴を上げるほどの体力も、喉の力もまだ戻っていない。
「っげほ、げほ! かひゅ……っ」
咳き込みは激しく、ユリウスが慌てて身体を横にしてやらなければ、マイヤはそのまま自分の唾で窒息したかもしれなかった。ギルベルトが瞠目する。
――死者は蘇らない。リバースの呪文は遥か昔に消失した。
――マイヤは確かに一度、死んでいた。
「マイヤ! マイヤ!」
ユリウスの声には悲嘆と、確かな喜色が混じった。彼は姉の身体を抱き上げ、彼女が思う存分息をできるようにしてやった。首と上半身をぐいっと支えられ、死にそうなほど苦しい思いをしながらマイヤは、あ――この苦しさは知ってる、ことを知る。だからそれほど怖くはない、本当に。
覆いかぶさる人の体温、ユリウスの匂いがして、それはうちの匂いということだ。
心から安心しながらマイヤは、死に戻りの苦痛を全身で味わった。それは見る者によっては出産に似ていた。
がくがく暴れる手足をやんわり封じ込め、ユリウスはマイヤの顔をのぞき込む。やがて涙をぼろぼろこぼしながら黒い目が瞼から覗いた。
「――マイヤ、」
けほっと最後にもうひとつ咳き込んで、
「ユリウス……」
と声がする。今まで聞いたことがないほど潤んで深さのある声。
マイヤを抱きしめたまま、ユリウスは動かなくなってしまう。忙しない息の音、しっとり冷や汗の名残りで身体じゅうが湿っていて、彼が本気で嘆き悲しんでいたことを知らせる。マイヤは目だけ動かして、すぐそこにギルベルトがいるのを認めた。
恥ずかしい、とも思ったが、とはいってもやっぱり一番に優先しなければならないのはユリウスだから、彼女は黙ったまま弟の身体ごしにその背中を撫でさすり、彼の悲しみに寄り添った。
義理の姉弟を残し、ギルベルトは身を翻す。彼の目にその光景がどれほどおぞましく、痛々しいものに映っていたことか。王とその姉は知る由もない。




