美しい暗殺者2
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――そういえば、これは経験済みだ、と気づいたときにはもう。マイヤの身体はこと切れていた。
美しい娘はとっくに姿を消している。ばたばた、兵士たちが駆け込んでくる足音が、する。
ああ、これはひでえ。みんなやられてやがる。おい、囚人は――絶対傷をつけるなと陛下よりきついお達しのあった……おい、だめだ! ちくしょう、やられちまってる、やられちまってるぞ!!
身体はずるずると床に這いつくばった形で、破られた喉笛からはまだ、だくだくと血が流れていた。流れ尽きるまでの猶予はもはやなく、止まった心臓から規則的に、名残りの血が送り出されることなく垂れている……。
ああ、ちくしょう。と兵士は呻いた。厳しい罰が下るのは間違いなかった、王が気を配った娘をみすみす死なせてしまったのだから。
とたんに地下牢は騒がしくなり、看守の遺体やマイヤの遺体の元に魔法使いが呼ばれ、なんの手違いか医者も呼ばれた。責任者に情報が伝達されていく。どんどん話が大きく、ややこしくなっていく……。
それをマイヤは、見ていた。すでに冷え始めた身体の中から。誰かが彼女の身体に布を被せ、まだ固まらないうちにまっすぐに伸ばし、仰向け、手を組み合わせようとしている。おい、とまた別の誰かが、地上に出してから整えればいい、こんなとこでそれをやって、扉を通らなくなったらどうするつもりだ? それもそうか、ということになって、その場には不謹慎な笑いが満ちた。
(なんて失礼な人たち)
と、マイヤは憤る。けれどすぐに、
(どうしてまだ意識があるのかしら? それとも、人間ってみんなこうなの?)
死んだ後もしばらくは、肉体に魂が残るのだろうか。女神の教義でそんな話はないし、前の世界の宗教もそんなことは言っていなかったと思う。
それに、前のときはこうではなかったような。
前……。
あの治療院に、いたときのこと。コヤの街が滅びて、マーネセンまで逃げようとして……トロールのグリーグに、アマルベルガに出会って、そしてユリウスに連れられ小さな治療院へ。誰かが乗り込んできて……殺された。
「あっ」
とマイヤは声を上げ、牢の中にいた人々はぎょっとして動きを止めた。何人か見送った経験のある年嵩の兵士が、
「よくあることだよ、肺に残っていた空気が押し出されたんだろう」
と言って、その場は収まった。なあんだ、という声。囁き交わす音。――喉笛が斬られているのに、空気がどうやって……?
けれどそうしたざわめきはすべて、マイヤの意識の外である。
――私は死ぬということを知っている。
の、だ、と。気づいてしまった。
そしてもっと重要なことにも気づき、魂の状態で悲鳴を上げた。今度は身体は反応しなかった。……私を一度、殺したのはコトヴァ様の手の人だった。
そうだ、思い出した。完全に思い出して、しまった。
あの小さな治療院、小柄な医者、亜人の助手、たくさんの傷ついた人たち。ご遺体。引き取りにくる埋葬人。建物と建物の隙間のような小さな小さな中庭に、マイヤは出ていた。気分転換しようと思って。
手首の骨にヒビが入っていると言われて、ユリウスに言えば怒るのはわかっていたから症状を軽めに伝えていた。日雇い仕事帰りのユリウスと一緒にカイン君がお見舞いに来てくれ、それが嬉しかった。その次の日、そう、ほんの次の日だ。
カイン君にはたくさんの知り合いがいるようで、その中に新聞社に見習いとして勤める少年がいた。いつか記者になることを夢見ていた。その新聞がずいぶんと下卑た、主要ではないニュースを誇張して煽り書くようなものだったと知ったのは最近になってからだ。
どこからどうして話が伝わったのかはわからない。でもきっと、そうなのだ。ギルベルト卿がユリウスを見つけたのも。カイン君の友達のあの子から話が漏れたのに違いない。
――ヴォルコフ卿。コトヴァの殿様の長年の部下で、信用されている人。その人の下で働いている、中尉や少佐や、とにかく軍で位のある人たち。
治療院を襲ったのはあの人たちだった。マイヤは彼らの顔を知っている。
あの日、夜になる前の時間、マイヤは中庭で花壇の世話をしていた。時間があるらしい小さなゴブリンたちが輪になって水タバコを吸う横で。かつて薬草園だったらしいそこが、あまりに日当たりが悪く、枯れて荒れ放題だったのがどうしてもかわいそうだったのだ。
治療院の中が突如として騒がしくなり、マイヤは震えあがった。治療院に続く裏口を閉めに行きたかったが、それより先に彼女の足元をかいくぐるようにして、ゴブリンたちが我先にと逃げていってしまった。だからだろうか、室内からは彼女の姿が襲撃者に見え、裏口を閉めようとするのは間に合わず……。
――私は刺された。
刺されたのだ、丁寧に丁寧に、心臓と肝臓と、喉と頭を。急所だけを各所三回くらいは刺された、最初の心臓への刺突で、マイヤはもう息絶えていたのに。
そして時間が経ち、――ああ、覚えている、覚えている!
遺体となったマイヤはもがこうとした、けれどそれは叶わない。死んでいるものは、死んでいるから動くはずないのだ。それが自然の摂理である。
あの、冷たい絶望。水を飲みこみすぎて頭と首の付け根のところがずきずきして、プールに潜ったときのきーんという音が永遠に続くのなんて目じゃない。
(ユリウス、ユリウス、だめ! コトヴァ様は――本当にあなたの即位を喜んでいたのじゃ、なかった。本物の味方じゃ、なかった)
あるいは今は、そうであるとしても。かつて、なんの理由があったか知らないが、一度でもユリウスを狙ったのであれば、マイヤはあの老人を許すことができない。
だってマイヤは覚えているのだ、あのときの襲撃者たちの会話を――おい、王子はいないじゃないか。くそ、しくじった。いつもこの時間は見舞いに来てるんじゃなかったのか! 仕方ない、ずらかるぞ。姉の方は殺した、これで十分だろう、もう王族がどうだなんて夢は見ないさ。奴は身よりのない孤児になった。後顧の憂いは断たれた。
そして治療院の中、動く者がどんどんいなくなっていった。うめき声、なんとか助かろうと這いずる音、悲鳴、断末魔、喘鳴が……ゆっくりゆっくり、小さくなり、かすれ、聞こえなくなった。
こんなに住宅が密集しているというのに誰も助けにこなかった、マイヤにはそれが一番恐ろしかった。
マイヤは叫ぼうとした、動こうとした、声を出そうと、いっそ金切り声を上げようとした。殺されかけるときの声でもなんでも。誰も彼女が、彼女自身の遺体の中にいることに気づかなかった。
助かるすべは、なかった。




