王の悲劇
マイヤの胸につんざくような衝撃が走ったのは、習慣にはなったものの成果の見えるあてのない勉強をしていたそのときである。
夜会のお作法の項目だった。お辞儀の角度はこう、歩く速度はこう。失礼のないようお相手のご家庭についてお聞きする方法は。使用人への目線の配り方は。何しろ正解を知らないのだから大変だった。アマルベルガがいてくれたらよかったのに……【小さな大陸】のマナーや文化は、こちらよりずいぶん進んでいるそうだから。
そう思って頭の上で伸びをした、そのとき。
「ギャア!!」
もんどりうって床に倒れ込む。ひっくり返されたインク壺、飛んだ文鎮、台無しになった教本、小冊子。
絨毯の上でマイヤはのたうち回った。そのくらいの衝撃だった。胸元を抑えて、はたしてそこには両親の形見があって、それを潰してはなるまいとそれだけで丸くなってこらえた。
ひいひい言いながら椅子に縋り、立ち上がろうにもできず、膝をついて這いずる。喉の奥で血の味がして咳き込んだが、血なんて一滴も出てこない。
「――ゆ、ユリウス……ユリウスが……」
ユリウスに何かあったのだと、直感した。
それ以外に必要な情報は何もなかった。耐えがたい衝撃は即座に苦痛に変わり、息が詰まったのはやがて深呼吸ができるまでに回復した。相変わらず痛みは痛みとしてそこにあったが、肉体はどこも傷ついていない。そしてマイヤは、苦痛なら耐えることができた。
廊下に走り出ると、いつもはおごそかなほど静かな王宮内が蜂の巣をつついたような騒ぎである。マイヤは走り出した。ユリウスがいつもいる、いくつかの執務室や政務のための会議室の場所は知っていた。行ったことはないけれど、今なら迷いなく行ける確信がある――ユリウスがどこにいるのか今のマイヤならわかる。
(冴えてる、私。何かおかしい。でも、大丈夫……)
そうしてマイヤは走り、走り、いよいよ王宮内でもとりわけ厳重な警備の政治区画へたどり着いた。行き会う使用人や貴族たちは物珍しげに、あるいは感情の読めない好奇心で道を譲ったてくれた。
衛兵や侍従武官が彼女を止めようとしたことは一度や二度ではなかったが、今のマイヤはなんなくその手を躱した。けれども運の尽きというのはあるもので、いよいよユリウスがいるだろう奥棟に踏み込んだマイヤは捕まえられかけた、比喩ではなく。
「きゃ――あ!」
横合いから腕が出てきた。見れば知らない顔の警護兵である。
「何するの、離して!?」
「捕らえました!」
と彼が報告する先、駆けつけてきた部隊長の腕章をつけた男が頷く。
「陛下に毒を盛りましたね? でなければ突然お倒れになるはずがない」
「何――言ってるの。離してよ! ユリウスのところに行かなけりゃ!」
「ふん。今逃げようとしていたのが動かぬ証拠だ! おい、連れていけ」
更に二人、兵が出てきてマイヤの腕や背中を合計三人で掴み、持ち上げる。さほど大柄でもない彼女は手も足も出ず、抵抗も封じられ弱弱しく藻掻くしかできなかった。
王宮での居場所がないということ、すなわち後ろ盾がなく、また貴族の友人たちとの連携に組み込まれていないということは、こういう意味を持つ。権勢を誇った宰相ですら、王の機嫌ひとつで牢獄に放り込まれるのが王政である。
今回の場合はマイヤのことを嫌っていた、もしくは危険視していた誰かの差し金だろうが、本人にはそんなことわからない。
「離してよ……離してったら!」
ギリギリ掴まれる腕の痛み、犬のように掴み上げられた屈辱を一人前に感じながら、むしろ黒い目に闘志を燃え立たせてあがいた。
その有様は一部のカーレリン人にとってぞっとするものであったらしい、警護兵の一群は殺気だった。
「穢れた血め……草原の盗賊が、なんで神聖な王宮に住み着いた!?」
「私は盗賊なんかなじゃないわ!!」
日本人である。
「私、私はユリウスの――姉よ! 家族よ!!」
と、ますます怒らせるようなことを言う。隊長が激昂したのを感じて、警護兵たちは手に力をこめる。
当たり前のことだが、誰にだって尊敬するもの、崇拝するものというのはある。警護兵はたいていが父から息子へと職務を譲り渡し、二百年に渡って水晶宮殿を保護してきた。それはいまいましいフェサレア人たちがふんぞり返っていたあの頃も同じく。自負があるのだ、彼らには。崇高なる宮殿を、決して二度と蛮族の土足に踏ませまい、という。
マイヤもユリウスもあまりに認識が甘すぎ、拙すぎた。王家の血を持っている、というただそれだけのことを、ただそれだけであるがゆえに人を従わせる力のある事実のことを、舐めていたのだ。
大いなる始祖イシュリアの血を継ぐ者だけがくつろげるはずの王宮に、黒髪と黒い目を持って上がり込むことの重大さを、ぜんぜん、まったく、理解していなかったのだ。
セプヴァーン城で暗黙の了解を破って人々を怒らせたときと、何も変わっていない……。
マイヤの肩がいやな音を立て、骨がたわんだ。彼女は怒り狂って自分を抑える誰かの手に噛みついた。
「――待て。手を離しなさい!」
と、低く厳めしい声が飛んだ。その場の全員が、柱に隠れて見物していた女中も侍女も、堂々と姿を現したままの官僚も、自然とそちらを見た。コトヴァ老である。
フェサレアに奪われた地位を回復され、今なお年若い王の傍に侍る宰相のような立ち位置の人狼の老人だ。マイヤは即座に解放された、というより警護兵たちがおののいて自主的に手を離したのだった。隊長も気を付けの姿勢で腕を背後に回している。
マイヤはひねった肩を無意識に撫でたが、それでまた敵を増やした。わざとらしい被害の主張などしない方が賢明だった。
「まさか将軍閣下がこちらにいらっしゃるとは……」
しどろもどろの隊長を、マイヤはドラゴンの威を借りるサラマンダーのように睨んだが、誰も彼女の方など気にかけない。
コトヴァはゆっくりと歩き、その足がすでに萎えていること、本当なら杖をついてもいいくらいに衰えていることは誰の目にも明らかだった。幾多の戦乱を乗り越え、滅亡を経て祖国を取り戻した老将軍はすでに老いているのだ。
マイヤが眉を寄せたのにコトヴァは顔を向け、
「早く行って差し上げなさい。陛下は待っておられよう」
それでマイヤは脱兎のごとく駆け出した。あとには老人とその他、彼の体調を心配する者たちが残り、主の危機に駆けつけるほどの体力すら持たない老いた人狼をみんなで労わった。
この一件で罰せられた者は誰もいなかった。その後、誰も彼もがそれどころではなかったのだ。
***
そのようにしてマイヤは走り、とうとうユリウスのいるところにたどり着いた。そこは王の寝室だった。正確には王と王妃だけが入れる寝台をまんなかに置いた、初夜の儀式のための一続きの間で、普段は閉鎖されているが今回ばかりは開け放たれていた。一番近い寝台がここだったためだ。
寝台にユリウスが寝かされている。侍医と看護助手が傷の様子を見るため覆いかぶさり、破られた服についた血、血の赤!
マイヤはそちらに飛びつきたかったが、わらわらと出てきた侍従武官がマイヤを取り囲んだ。
「お控えください! 王陛下は重篤であらせられます!」
と抑えた声で凄む。ここでマイヤが高貴な女性らしく威厳を持って命ずることができればよかったのだろうが、残念ながら錯乱した彼女にそんなことは望めない。怒鳴ろうとしても走ってきたせいで喉はひきつれて声ひとつ出ないのだから、まさしく日頃の引きこもりの結果が最悪の形ででた様子。
「――治癒の魔法使い、参りました!」
と、【白の魔法使い座】の面々が到着し、マイヤのすぐ脇を通り抜けて寝台へ。先頭を切るのは中年男のツァベルで、他の魔法使いたちも軍人のようにあとに続いた。手に手に呪文書や魔石のついた杖を持ち、ローブを纏った老若男女の魔法使いたち。絨毯を剥がし、寝台を取り巡る魔法陣を描く者。中空に呪文を書く者。人間の赤ん坊ほどもある深紅の魔石が寝台の枕元に置かれ、ピィンと音がしてすべての魔法がその魔石を中心に発動し始める。
その有様はすぐそこなのに、その中心にユリウスがいるのに。マイヤだけが、そっちに近づけないでいる。
侍従武官たちは丁重に、だが確固とした強さでマイヤを部屋の外に追い出そうとした。腕や肩が痛むのもお構いなしに、マイヤは彼らともみ合った。市井のコソ泥が警邏の手を逃れようとするみたいに。髪は乱れドレスの裾はめくれ、そのさまはあまりに滑稽で、悲惨ですらあった。清廉な美しさでたたずむことが仕事の令嬢とは似ても似つかない。それでもこれがマイヤだった。
「……マイヤ、」
と、ほんの小さな囁き声で意識をなくしたユリウスが呟かなかったら、マイヤはきっとユリウスの死に顔を拝めなかったに違いない。
侍女から侍従武官へ情報が伝えられ、魔法使いたちも止めなかったので、マイヤはようやくユリウスの元へ転げながら駆けつけることができた。一日中走ってきたかのように汗でびっしょりになっていたが、なんのことはない、棟さえ違わない場所からやってきただけである。己のちっぽけさを憎む暇があるのだったら、今はただユリウスの手を握りたかった。
マイヤはそのようにした。かすかだが、反応があった。
「そのままにしていてください。陛下に呼び掛けて」
と魔法使いの一人が言い、
「ユリウス、ユリウス!」
マイヤはひいひい喘鳴しながらそれだけを連呼する。気の利いたセリフを考える頭も、語彙もない。
「ユリウス、いっちゃダメよ。ユリウス!」
矢には返しがついていた。すでに到着していた医者が切開し、鏃を取り出すと魔法使いが即座に治癒魔法をかける。傷口は塞がってもユリウスの意識は戻らなく、また身体は熱を帯びて痙攣し始めた。
傷は、ほぼ胸の中央である。心臓を貫かなかったから即死しなかっただけ。
時間の問題であることは、ずぶの素人たちにもわかった。
「ユリウス……ねえ、返事をして」
マイヤはわけがわからなかった。じわじわと混乱が、絶望が、腹の底からこみ上げてくる。
「師匠、これは……」
「うん。呪術だね。王を呪う言葉だ」
「矢に魔法言語で刻印が」
「解呪して」
「魔石が限界です。一番大きいのを持ってきたのに」
と呟いた女の子の魔法使いの声が震えている。ユリウスの枕元で深紅の巨大な魔石が、文字通りわなわな震えていた、まるで生き物のように。ぴしり、一筋のひびが入る。
「ああっ」
と女の子は呻いた。その、声に――いったいどういうことだろう、マイヤはとても、いらっとした。
声には明らかな恋情が含まれていた。同じ女だもの、マイヤにはそれがわかった。
何の役にも立っていないくせに、今はそんな状況じゃないのに、握ったユリウスの手がどんどん冷たくなっていくのに。マイヤはそれが、許せなかったのだ。ざわ、髪の毛の根本が逆立つ気さえした。
ユリウスのはだけられた胸のまんなかから、徐々に黒い何かが血管に沿って全身に広がりつつあった。心臓の鼓動に合わせて首の方へ這い寄ろうとし、臍の方へも勢力を拡大し、薄茶色い乳首をぐるっと回る。魔法使いたちは呪文を唱えながら杖の先をユリウスの身体に押し付けた。そこに灯る光がユリウスの体内に入り、黒を傷口へ押し戻そうとしている。
必死に働く彼らの顔を、マイヤは順繰りに見渡した。誰もが必死で職務を全うしている。遠巻きに見守る侍女たちは、女中に命じてお湯を汲んできては布を濡らし、ユリウスの額を拭く。侍医は注射針に薬を込め、魔法使いのリーダーであるツァベルと早口に相談しては注射をする。
「ああ、陛下。陛下」
と可憐な声。魔法使いの女の子は死に物狂いだった。はしばみ色の目、そばかす、茶色のふわふわの髪を二つに結ったはしっこい感じの、本物の女の子。鼻の頭に玉の汗を浮かべて、光る杖の先をユリウスに押し当てている。口の中で呟かれるマイヤの知らない呪文。
マイヤだけが、役立たずだった。
何をするでもなくただ弟の手を握ってその名前を呼んでいた。
大きな寝室は初夜のため以外に使われたことにため息をついているようだった。王が死ぬことははじめてではないにしろ、その若さを惜しむかのようだった。
腹の奥にめらめら炎が燃え、とぐろを巻いた蛇が鎌首もたげ、マイヤはどす黒い感情を持て余す。喉はもう治っていた。叫んだのかもしれない。
――許せなかった。
だから、逃げ出そうと言ったのだ。コヤの街に帰ろうと言ったのだ。
あそこが唯一の家だったのに。
「あああああああ」
と、マイヤは首を何度も横に振る。
「あああぁぁぁっ! ああ! あああああ! ユリウス、ユリウス、ユリウスっ!! ねえっ!?」
錯乱状態に入った。




