想いは全部過去にある
時刻は夜。今日の月は赤と青が同時に同じ高さまで上る“紫の夜”で、妖精たちが活発になる。
またノームたちには大切な繁殖の儀式を行う日であるから、王宮内で細かな仕事を請け負う彼らも一斉に休暇を取っていた。
仕事を片付けて寝るまでの間、ユリウスはマイヤのいる客室を訪ねていた。姉はこれまでのように針仕事をせず、大きな読本片手に地理学らしき教本の文字を難しい顔で追っている。
「あれ、いらっしゃい。今日もお疲れ様」
と笑う姉に、どうしていきなり勉強を始めたの、と聞けば、――ユリウスのお供ができるくらいにはなりたいの。と純粋に決意を秘めた顔で言った。裏も表もあったものじゃない、少なくとも、貴族たちが警戒するようにその権利もないのに王妃の座を狙う平民女のつもりはないのだろう。
――けれどマイヤを社交界や公の場に連れ出せば、たぶん死んだ方がマシと思うほどの目にあわされる。だからユリウスはマイヤが勉強をしたいと言い出したとき、そうか、と頷いただけで教師をつけたりはしなかった。彼には姉を日の当たるところに連れ出すつもりはない。人には向き不向きがある。マイヤに貴族の真似事は無理だ、ということが誰よりもよくわかっていた。
「疲れたよ、姉さん……」
と、自覚していたより大きなため息がハアーと漏れて、ユリウスはマイヤの寝台に直行し、ごろんと寝転がる。洗われたシーツから太陽とハーブの匂いがする、使用人たちはきちんと仕事をしている。
「お疲れ様」
と寄ってきたマイヤが、毛布の上のユリウスのかたわらに腰を下ろした。重さの分、羽毛がそっちに沈む。
「俺がいない間、なんかあった?」
「ううん。何も。ああ――またどこかの子爵夫人様がお茶会の招待状をくださったけど、知らない人だったから」
「断った?」
「うん」
「それでいいよ。笑いものにされるか、俺への無理難題を伝言されるおちだから」
マイヤは悲しそうな顔をした。
「疑り深くなっちゃって。そんなふうに穿った見方ばっかり……」
とはいうものの、コヤの街で似たように過ごしていたことは、マイヤ本人忘れたらしかった。
ユリウスとしては、あんなに母と仲良くきゃあきゃあ隣近所の悪口言って盛り上がって、よく飽きもせずと思ったものだった。それこそ貴族のご令嬢連中は、マイヤとなんら変わりない。
彼は目を開けた。姉が幸福そうにこっちを覗き込んでいるのに満足して、手を伸ばしその首筋を捕まえて優しく引き寄せた。
何度目か忘れたキスは相変わらずやわこくて、いい匂いがした。胸の中のささくれが全部治った気持ちさえした。角度を変えて何度か唇をついばみ、舌をすり合わせて唾液を飲んだり飲まれたりする。マイヤの方もこなれてきたもので、ちょっと歯で舌にいたずらしてみたり、冷たい手でユリウスの喉元をくすぐって息を乱す。
気持ちよさに頭がふわふわした。やがて一通りが終わってふうふう言いながら口が離れると、妙な照れ笑いがお互いに浮かんでやまなかった。マイヤは雰囲気を誤魔化すように、指先で口元を拭いながら、
「今日はどうだったの、双子ちゃんは?」
と、なんとなくそんな話が始まる。どうだった、というのは人狼の幼体の性質通りに溢れんばかりのやんちゃさで大人たちに手を焼かせる、リカとルルことリカルドとルーシィのことだ。アウレリオ家が置いていった二人は今年で十三歳、そろそろ身長が伸び大人びてきたかと思いきや、まだまだ芋虫を収集したりそれを同い年の女中の頭に降らせて泣かせたりしている。
「まだまだ子供だ。また今日も使用人仲間を集めて何かを企んでいた。ヴォルコフのところの中尉が青筋立てて探し回ってな……」
「コトヴァの殿様の部下の方ね?」
「うん。ああそれで、中尉がそこだと叫んで扉を開けたらたまたま侍女がいて、悲鳴を上げてな、あれは見物だった!」
ユリウスの笑い声に合わせ、マイヤもふふっと肩を震わせた。
「いいなあ、いつも楽しそう」
「そりゃ、楽しんでもらえそうなところばっかり話してますから。あんたに楽しんでもらおうと思って」
肩をすくめた弟の胸をマイヤは叩いた。
「いつもあなたが話してくれる、私が知らない人や場所の話が好きよ。母さんだって父さんの話を聞きたがってた」
「ちょっとは外に出れば。友達作って遊びにいけよ。マイヤの分の予算、次年度から組む予定だから」
「それはさすがに悪いわ」
と、眉を下げる姉は、まったく一度は人妻だったとも思えず幼げである、悪い意味で。
「でも、私ももっと頑張って、内助の功というの? 内向きのことであなたを補佐できるようになるからね。お茶会を開いて貴婦人の方々にいらしていただいて、旦那さんの秘密とか、いっぱい聞けるようになるから。ホラ、貴族の殿様はそうして奥方から裏事情を聞き知って、ご自分の政策に生かしたりなさるのでしょ?」
今度はユリウスが眉を下げる番だった。一年が過ぎ、二年が過ぎて、そろそろユリウスは十九歳になる。コヤの街がああなったときのマイヤと同い年だ。世間知らずの姉がきらきらした目で輝かしい未来を信じている様子なのを、苦々しさ半分、愚かさを愛でる気持ち半分で見つめた。
上半身を起こすと、すでに目線はユリウスの方が高い。
「そういうことにあんたを使うつもりは、俺にはないよ」
はっきりさせておかなければならなかった。もっと早くてもよかったくらいだ。マイヤは虚を突かれた顔をして、はたと動きを止めてしまう。
「マイヤにそんなことができるとは思ってないから、俺は。あんたは……ほんとはちゃんとした家で旦那と子供がいたら一番よかったんだろうけど、前の結婚の終わり方からしてもう次は難しい。でも王宮にずっといるのも外聞がある、いつか頃合いを見て爵位と領地をあげるよ。そこで暮らすといい。俺もたまには会いに行くから」
ユリウスとしては、真面目に話したつもりだった。言い聞かせるような口調になってしまったのは、マイヤにこれまでそのようにされてきたことへの意趣返しを、無意識のうちにやってしまったのかもしれない。
「そんな言い方すると、母さんそっくり……」
と、マイヤは俯いてヒューッとため息を漏らす。骨が目立つ細い白い手がくしゃっと敷布を握りしめた。
「母さん、いつもそうやって私を押さえつけてたもの。やることなすことダメって言ってきたもの」
ユリウスは目を瞬かせた。
「あんたと母さんにはそういうのないと思ってた。俺と父さんにはあったけど」
「母と娘よ、ないはずないでしょう」
――ましてや生さぬ仲だ、ユリウスが連れてきてフランチェスカが手を伸ばした、そこから始まった関係だとしても。
血がつながっていなければ許せないところ、許せるところ。どんな関係でも同じだ。
そういえば、父母が亡くなってはじめてだ、その話をするのは。ユリウスは何の気なしに口にした。
「墓参り、結局行けてないな」
「そうね……行けたらいいけど、あなたの身を危険にさらしてまですることでもないわ。二人もわかってると思う」
「知ってたのか」
実際、ユリウスは何度か暗殺未遂にあっている。事前にたくさんの臣下が助けてくれて、なんとか生き延びたようなものだ。情勢が安定しているとはいえ、戦乱はまだ遠い時代のことではない。フェサレアの生き残り、ユリウスの正当性を認めない強硬派、それからネテロスらしき一派は一番すばしっこく尻尾を掴ませず、護衛隊も苦労していた。
だからユリウスは王宮から動けない。ダンジョンを見に行きたくて足が疼くことはあるものの、それを理性で押さえつけて動かないようにしてきた。
それから父母の思い出話に花が咲き、ふとマイヤは口を滑らせた――もっとずっと前から言いたかったのかもしれない。足の悪い母が天気の悪い日、古傷が痛むのを紛らわせようとうわごとのように、こう言っていた、
「ああほんとに――あなたがあの子だったらよかったのに! ソフィヤが王子に愛されてればよかったのに!」
声真似は思ったより上手くて、声の質はまったく違ってもユリウスは母が帰ってきたかのように錯覚する。目をつぶればそっくりだ。節や抑揚のつけ方、目くばせの角度まで。
「そんなこと、言ってたのか。母さん……」
ふふ、とマイヤは笑って頷いた。仕方ない、しょうがない、と言うのに慣れ切った女の仕草だった。
「体調が万全じゃなかったんだもの、そんなときは誰だってそうなるわ」
「母さん、は……その、俺たちが普通に思いあってないこと、気づいてたんだな」
と口にしたことで、ユリウスはようやく自覚した。自分とマイヤがかなり前から、自分たち自身でも気づかないところでそうだったこと。
同じ家で育って同じ姓を名乗っていたくせに、気持ちはそうではなかったことに。
マイヤは黙ったまま天蓋を眺める。そこには見事な刺繍でカーレリンの建国神話が描かれていた。
そびえるダンジョンの頂に立った王。二人の妃を持った王の両手から、それぞれの名家の血統が薔薇の蔓として表現されている。ラシュカーとクース。何度も融和しようと結婚し、ローゼン家やベルジック一族、テュターリリエ家などが生まれ、そして結局は破滅してきた二つの家。
父がユリウスに期待をかけ、職人の道を示そうとしたのはカーレリンを諦めたかった心の裏返しだし、母がマイヤを慈しみながら暗い気持ちを共有させたのは、ソフィヤが死んでマイヤが生き残ったことへの呪詛だ。
誰が悪いわけでもない。そうやって生きる以外なかっただけ。そして子供たちふたりは生き延びたのだ。それは父母の勝利だった。
ふたり、抱き合ってちょっとした悲しみを分かち合った。もう取り戻せない悲しみを、世界じゅうでお互いだけが理解できた。同類を相憐れむ感情ほど強いものはない。自己憐憫じみて醜悪な、強い愛情がユリウスとマイヤを結んでいた。
それをあえて言葉にすればこうなるのだ――本当の意味で私たちを愛してくれていましたか、と。大きなものに問いかけるのだ。
よくよく考えてみれば、どうしてキスだけして次へ進もうとしていなかったのだろう?
まだきょうだいだとでも、信じていたのだろうか。
ユリウスは分厚い毛布をはねのけてマイヤに覆いかぶさった。びっくりしたけれど、当然にいやではなかったから、マイヤは身体の力を抜いた。
越えてはいけなかった一線を越えた。




