新しい日々
マイヤはあれから平穏無事に暮らしている、悠々自適と言ってもいい。キャヴェロからは手紙が来ているようだが、ユリウスが止めてくれている。侍女も侍従もみんな優しい。マイヤが王の姉で、ここは王の家だからである。
いっぺん身の安全が確保されればあっという間に思考を止めてしまうのが、この娘の悪いところだった。今も幸せそうにシードケーキをぱくつき、花茶をごくごく飲んでいる。貴重なガラスポットの中ではデウェルの花がくるくる揺れる。
「あなたはのんきねえ」
とアマルベルガは呆れる様子。マイヤとクレトをリリンイアまで送ってくれ、今までと同じにすぐ旅立ってしまうのかと思っていたが、本人曰く面白そうだからもうちょっといるわ、とのことだ。マイヤは純粋に嬉しい、そして今、毎日が楽しい。
「だって、毎日ユリウスに会えるんですもの」
と、にやにや笑いが止まらないのだった。
「やっぱり家族は一緒にいるのが一番よ、セプヴァーンのお城は正直――合わなかったわ」
アマルベルガはそんな彼女にちらりと視線を向け、何も言わない。クレトはこくこく頷き、
「おかあさま、城に呼ばれていじめられるんだ。疲れて帰ってくる。おれ、一緒に行ってあげたかったもん」
女たちは顔を見合わせた。
「おかあさま、きちんとお弔いされたかな……」
「ええ、きっと。まさか打ち捨てられるなんてことはないわ。あの方はれっきとした貴婦人だもの」
「それにかけてはわたくしも保証する、貴族の遺骸をぞんざいに扱えばばちが当たるわ。キャヴェロは閉鎖的だけど馬鹿ではなくてよ」
クレトは安心したようだった。指の先がインクで黒く染まっている。
アマルベルガは手元の大きな一枚紙に魔法陣を書き込み、クレトに観察させている最中だ。この子は素質があるわ、と自信たっぷりに言う。
マイヤは魔法の心得などまったくないので、興味深く彼らの手元をのぞき込んで、一緒に勉強させていただく。
「魔法陣と魔力ある人間がいれば魔法は発動するけれど、さらに威力をあげたければ使わなければならないものがあるわ。その際は魔法使いが身に着けていなくてはならない。さあ、何だと思う?」
「魔石! ダンジョンから取れる、きらきらの魔石!」
「そう、正解。わたくしのいたところでは魔石は貴重だったから、こっちに来たら魔法使いはみんな贅沢に魔石を使うので驚いたわ」
「アマルベルガはどこの人?」
「【小さな大陸】の出身なの。海を渡ってきたのよ」
「じゃあ、じゃあ、船に乗ったんだ!? いいなあ。大きかった?」
……などなど。どうやらアマルベルガはクレトと喋るのが純粋に楽しいらしい。
クレトはこちらに来てからすっかり元気になり、身長の伸びるのも早まったようだ。くるくるの黒髪はゆるやかなウェーブに変化しつつあり、五年もすれば天使族の色違いのようにきれいな少年になるだろう。
「魔石を使う上で気を付けなくてはならないことがあるの。さあ、なあに?」
「ええっと――融合?」
「その通り。力の強い魔石は使用者の魂と肉体を侵食することがあるわ。むやみに魔石に頼りきると危ないというのはそういうことね」
「ふうん?」
「魔石が魔法使いを食べてしまう、ということよ」
ぴんと来ない様子のクレトであるが、基本的なことは分かっているみたいね、とアマルベルガは満足そうだ。
「お母上様の教えかしら?」
と水を向けられ、マイヤは首を横に振った。
「トゥラウベラ様ご本人は、魔法はお使いになれなかったわ。魔法使いだったのは――」
と、そのとき廊下がにわかに騒がしくなった。
ここは王宮の奥棟にあたる客人のための一室だから、つまりここまで騒ぎが届くということは王宮に入れる身分の人物が騒動を起こしたということになる。滅多にないことだ。
アマルベルガがいそいそ立ち上がるのに、今度はマイヤが呆れる番だった。どうもこの神秘的な令嬢は、その能力や胡乱な言い回しにそぐわず出歯亀気質らしい。
「何かしら? わたくし、様子を見てくるわね」
と、うきうき彼女がいってしまうと、マイヤとクレトはくすっと笑いあった。
「クレトも行く?」
「ううん、おれ、これやってる」
と、描き途中の魔法陣を掲げてみせる。
廊下は侍女たちのきゃらきゃらした笑い声、走り回る侍従たちの足音に満ちている。普段は決してそんなことはないよう躾られた使用人たちは皆、カーレリンの縁者だが、今はフェサレア方言を含んだ囁き交わす声さえあった――公爵様が? 魅惑の? 独身の。ギルベルトさまが、うそ? あはははっ。ワーキャットの興奮したフーッという威嚇音。ノームたちのヒューマン語よりはるかに速い早口。
まるでコヤの街の昼下がりのようだった、休憩が終わって足早にお店に戻る途中の街のざわめき……。平和だった。お腹はシードケーキでくちくなり、花茶は香り高く、今のマイヤに心配ごとはなにもない。
セプヴァーンに戻らなくてもいいと、ユリウスは言った。もういいよ、こっちでなんとかするから。守ってくれるのだとマイヤは解釈した。芯から嬉しかった。
それに、はじめて口づけを交わしてしまった、弟と……。どうしよう? 冷静になって考えてみると、どうしてユリウスはあんなことをしたのだろう。思考はふわふわと、とりとめもない。ぐるぐる同じところを巡り、たぶん今夜またユリウスに会えたら、このごろ忙しそうだからきっとまたおやすみなさいを言うだけだろうけど、顔が真っ赤になってしまうかもしれない。
つまるところマイヤはアホになっていた。ユリウスに関しては元からわりとこんな感じだったが。
だからというわけでもないが、アマルベルガが体重を感じさせない足音で踊るように部屋にとんぼ返りしてきて、歌うように、
「――公爵のギルベルトが女の子を連れて帰ってきたのですって、【大神殿】から!」
ころころ笑いながらまろび込んできて、そのまま長椅子に直行、ころんと転がって笑い出したときも、いまいち状況が掴み切れなかった。
「それだけで、この騒ぎ?」
「刺激の少ない王宮だもの。王妃と側室が喧嘩したり、貴族同士が娘の嫁入り先で刃傷沙汰に揉めたり、しないお上品な王宮よ。ふふふっ。些細なことでも大騒ぎよ。わたくしも覚えがあってよ。おっかしいったら」
クレトはもごもごシードケーキを頬張りながら、
「公爵って?」
「私の弟の、ユリウスのお兄さん。でも半分しか血はつながってないの」
とマイヤが答えると、
「へええ、公爵様と血がつながってるなんて、ユリウスってすごいんだあ」
と目を輝かせるのだった。たぶんクレトの頭の中では、ユリウスの方が庶子か何かになっていそうだ。
「髪を伸ばしてるんでわからなかったわ。あれがあのギルベルトなのね……」
「お知り合いなの?」
しまった、といわんばかりにアマルベルガは舌の先をぺろっと出した。
「ナイショ」
「はいはい、いつもの内緒ね。もう」
「ふふふー。マールは不可思議なのよ――あらクレト。上手に描けてるわ」
そのようにして時間は過ぎた。
ギルベルトは何人かの神官も伴ってきた。いずれもユリウスの正当性に異議を唱える派閥の神官で、曰く新しい王を“精査”して結果を持ち戻り、【大神殿】にて女神にその即位を神託にて改めてもらう、という目的がある――のはもちろん建前で、彼らの本当の目的は王宮で神官が再び力を持つようになること。具体的には神官を王の側近にして神殿権力の優位になるよう政治を動かすことだろう、とアマルベルガは言う。
「たとえば王属神官は王の専属懺悔師にして相談役だから、彼もしくは彼女を通じて神殿は王の意向を知ることができるようになるわ」
マイヤは目を白黒させるのだった。
とっくの昔に話に飽きて、得意の一人遊びに興じていたクレトは、
「あ、鐘が鳴った」
と、ぱっと顔を輝かせる。
「おれ、行ってくるね」
「ああ、はいはい」
「行ってらっしゃいな。転ばないのよ」
と母親が二人いるみたいに手を振る女たちを後目に、クレトは遊びに出かけてしまった。王宮には住み込みで働く使用人たちがおり、彼らのための住居区画が城壁の外に造られている。昼ごはんが終わり、次の業務も終わり、今おやつの時間が終わった。こうなると子供たちが学校から帰ってくるので、一緒に遊ぶのだ。
「で、」
子供の背中を見送ったあと、アマルベルガはちろりとマイヤを見て、
「あの子の預け先は決まったの?」
「今、ユリウスが探してくれていて、……」
「あのねえ」
完璧な令嬢は優雅に髪を耳にかける。
「それはあなたが探すのよ。信頼のおける人に心当たりがないなら、そういう人から紹介してもらうの。クレトを見つけたのはあなたなんだから。生まれ故郷のセプヴァーンから連れ出したのでしょう? なら、あなたに責任があるのよ。犬猫じゃあるまいし、かわいいところだけかわいがってポイなんて人道に悖ります」
灰色の目がわずかに険しい。マイヤははっと夢から覚めた心地で恐れ入った。
「そう――ええ、そうね。その通りだわ。ちゃんとします」
「そうなさって。わたくし、あなたのことは好きだけれど、いつまでもふわふわしていたら嫌いになってよ」
と冗談めかして言い、そのときにはいつもの不可思議なアマルベルガだった。
――マイヤはクレトの行き先を、つまり養子縁組の先を見つけなければならなかった。当たり前だがマイヤはクレトの親でもなんでもなく、いわば誘拐犯である。王の庇護があるから逮捕されていないだけ。トゥラウベラがいない今、クレトに対する権利を持っているのはキャヴェロ家だった。マイヤが急に死んだらクレトはセプヴァーンに連れ戻され、そこにはパトリシアがいる。そうなる前に、安心できる場所を彼に提供する義務がマイヤにはある、アマルベルガの言う通り、彼女がクレトの運命を捻じ曲げてしまったのだから。
「信頼のおける貴族の知り合いはいて?」
とアマルベルガはシードケーキに付け合わせの糖蜜づけナッツを口に運ぶ。ころころと黄金色したナッツが小さな赤い口に放り込まれていくのが、どうしてかこんなにも綺麗な仕草だ。
「ううん、ぜんぜん。でも、これから頑張って作るわ。……お茶、お茶会なんかもしてみようと思うの」
友達を作るのだ、と、マイヤは前向きな姿勢を見せた。マイヤの立場は今、なんになるのだろう。出戻ってきた王の姉? 王の乳母の娘? そのどちらも正解ではない。マイヤはなんでもない、ただの厄介者だ。せめて負債にならないようにすべきだった。ユリウスがマイヤのせいで不利益をこうむるなど、あってはならない。
アマルベルガはにっこりした。
「それはそうとあなた、随分と言動がおしとやかになったわね」
「え? そ、そう? そうかな」
「ええ、貴族っぽくなったわ」
灰色の目がきらりと光る。
「いいでしょう。わたくしがもっと洗練させてさしあげてよ」
「エ」
「短期講座になるから、オホホ、ずいぶん詰め込むことになりそうだけれど。【小さな大陸】は戦争が少なかったぶんマナーは洗練されていてよ。みっちり仕込んであげる。――それから、仲良くした方がいい人の見分け方も。お任せなさいな、アマルベルガの専売特許よ、それは!」
「えええ……」
マイヤは静かに冷や汗をかき、一方のアマルベルガはやる気満々である。
「自力で言葉を覚えられたあなたならやれるわ。鼻持ちならない輩の鼻を明かしてやりましょう。うふふふふ」
それで、そういうことになった。
特訓は熾烈を極めた。




