脱出
トゥラウベラが死んだ。ある夕方、マイヤが一目を盗んであの家を訪れるとすでに冷たくなっていた。
マイヤはがたりと音を立てて尻餅をつき、動けない。セプヴァーンに来て初めて、ようやく、対等に話してくれた人だった。優しく上品で、生まれにそぐわない境遇にも負けない人だった。マイヤの言葉遣いや立ち居振る舞いを笑わず、むしろ矯正してくれた。
その人が寝台の上で死んでいる。冷たくなって、両手を組むことさえさせてもらえていない。
手土産の入ったバスケットから、オレンジがいくつか転がり出る。狭い家の底冷えする床に身体が冷えていく。
「クレト、」
と思い出して立ち上がった。
「クレト!? どこ!」
柱時計の中や戸棚の裏まで見てみるも、誰もいない。どこにもいなかった。
マイヤは小さな家を飛び出した。心当たりは一つしかない。城に駆け戻り、上の階に急ぐ。早く早く。足がもつれそう。
パトリシアの部屋にはいつも侍女たちが集っている。彼女たちなりの楽園、女の園、マイヤにとってトゥラウベラの家のようなところ。まっすぐに鍵のかかっていないその部屋に押し入った。
「まあ、若奥様。ご無礼な……」
「なにをなさいますの、先触れもいただいておりませんわ」
と、若い侍女が二人、するすると滑るように近づいてきたのを邪険に押しやって、パトリシアの前に立つ。年老いても美しい先代の愛人は、凍るようなまなざしでマイヤを睨んだ。
「無礼な娘だこと。詩の朗読をしていたのに。邪魔しないでよ。仲間に入れてもらえるとでも思っているの?」
まるきり小娘の言い方である。そう――最初からこの人はどこかおかしかった、はじめは普通の貴婦人に見えても、その実は違う場合があるのだ。パトリシアは娘時代から中身がひとつも成長していない。
「クレトをどこにやりましたか。十歳の男の子です。黒い髪で茶色の目の」
フンッとパトリシアは鼻を鳴らし、マイヤを無視して詩本に目をやった。細い高い震える声で読み上げ始める。
マイヤはつかつか近づくと、本を払い落した。パトリシア、それから侍女たちがカン高い悲鳴を上げた。小鳥の群れのように。
「――あなたのように卑怯な人は見たことがない!! トゥラウベラが憎いなら彼女と直接対決すればいい、子供を巻き込んで何がしたいの!?」
ぎいいいいえええええええ、とパトリシアは叫んだ。金切り声ともまた違う、動物じみた絶叫だった。侍女たちがしんと静まり返った。
「キャヴェロはローゼン家の血を継ぐ名門なのですよおおおおお! その正夫人たるあたくしに向かってえええええええ!!」
マイヤは身を翻して駆け出した。隅々まで探すのだ、誰か、使用人が見ていないか聞き回るのだ。クレトが危ない。殺されかけているかもしれない。
「誰か! 誰かっ、あの女を殺すのよっ! 早く早く! 殺しちゃってよおおおおお!!」
とパトリシアの声がキンキン響いて追いかけてきた。
階段を駆け下り、文字通りマイヤは血眼になってクレトを探した。どんな隙間も見逃さない気持ちで、侍従と女中が逢引している空き部屋にさえ踏み込んだ。
道すがら、年かさの女中が追いすがってきた。マイヤの捜索は、暗い階下の使用人たちの私室が並ぶ廊下に差し掛かっていた。
「お待ちください、お待ちください若奥様――あの子をどうするおつもりで?」
「ユリウスのところへ連れて帰るわ。もうここにはいられない」
「危険です!」
と太った女中は喘ぐ。
「あなた、あなたは――セプヴァーンのお城がどんなところがご存じでない」
「知ってるわ。もう一年もいるんですもの」
マイヤはぱっと彼女を振り返る。肩で息をして、結った髪がほどけている。
「あの子がほんとの跡取りなんでしょう? だからパトリシア様はあの子がお嫌い」
女中はぜいぜい息をつく。顔を覆う。
「トゥラウベラ様はそこまであなたに話して……」
「いいえ、いいえ。話してはくださらなかったわ。でも私が知っていることを知っていた。そして、これからすることをお止めになったりしないでしょう」
上の階では使用人が走り回っている気配がした――若奥様が? ご乱心? ええ? どこにいらっしゃるって、そんなの知らない……探せって。探せってご命令よ……奥様の!
女中は顔を上げた。覚悟を決めた目をしていた。
「……お手伝いいたします」
マイヤも同じ目をして応えた、
「森の女神の涙にかけて、心からの感謝をあなたに」
そうして使用人部屋のうち一つのクローゼットの裏板を外し、城の外へ出る抜け道を女中は教えてくれた。マイヤが何をするつもりか、もうわかっていたのだろう、当座の間の食糧と薬などを詰めて渡してくれさえした。
マイヤは彼女を抱きしめて礼を言うと、暗い地下のその道を教えられた通りに進んだ。
あまりにも長く進んだために、セプヴァーン城の敷地からも外れただろうと思われた。古い塔の地下に出たことは、空気が違うので分かった。マイヤはすっかり軽装のまま、寒さに身を震わせる。それ以上に怒っていた。鮮烈な怒りだった。子供がなんらかの目にあっている、それを見て見ぬふりするならマイヤはユリウスに顔向けできない。もしそうしたら、マイヤはマイヤでいられなくなる。
そう決めた、もうずいぶん昔に。
「クレト、クレト!」
呼びながらマイヤは塔を登って行った。昔は牢獄として使用されていたのかもしれない、錆びた鉄格子が崩れかけて突き刺さった小部屋、見えた白いものはひょっとして人骨? いいえ、考えないように、見ないようにしよう。
塔は丸く小さく、思ったより醜かった。埃に咳き込みながら、マイヤは朽ちかけた木の階段を上った。
最上階からかたりと音が聞こえた、と思った、見上げるとクレトと目があった。マイヤは階段を駆け上った。
クレトは縛られて転がされていた。マイヤは黙ってその縄を、爪を剥がしそうになりつつ解いてやり、抱き着いてきた小さな凍えた身体を抱きとめた。双方、言葉はなかった。ただお互いの心音がトクトクと響いて、ああ――ユリウスと同じだ、と思った。
「逃げよう、クレト」
子供は頷いた。
「ユリウスなら助けてくれるわ。私の大事な弟なの」
それで、クレトの手を引いてセプヴァーン城を出た。ひたひたと背後に迫る足音を聞きながら。使用人用の狭い通路を抜け、そのままウパロ山脈に逃げ込んだ。もっとも標高の高いウパロニニチカ山が見守る白銀の世界は、夏だの冬でもおかまいなしに雪が積もっている。
マイヤとクレトは寄り添うようにして山の中腹までを上った。マイヤは知らなかったのだが、その道は墓地へと続いていた。セプヴァーン城に生きた人間は皆、そこに眠るのだ。貴族のための墓地だった。不吉な道とされ、めったに人は通らない。今頃城で二人を探しているだろう使用人たちも、まさかその道を使うだなんて思いもよらない。普段は人の意識から乖離した道なのだった。迷い込むようにしてそこに至ったのは、トゥラウベラの導きか。
急峻な山の斜面を越え、中腹にさしかかり、隠れるため森の中へ入った。木々はあの雑木林とは比べ物にならないほど太くたくましく、まっすぐに天へ伸びている。シラカバとマツが大半で、腐葉土はふかふかしていた。
突然、
「さ――むい、よう……」
とクレトは泣きだした。堰切ったようにぼたぼた涙を溢れさせ、
「痛い……」
と丸くなってうめく。
「クレト、あなた……」
喋れたの、と聞く前にマイヤはその服を脱がせて腹を探った。大きな痣がある。蹴り上げられなければつかないような痣だ。マイヤは唇を噛み締め、年かさの女中がくれた荷物の中から薬と包帯を出してできるだけの手当をしてやった。
日が暮れてきた。山で夜を越すにはあまりに軽装である。マイヤはクレトを引き寄せた。子供は喉をくるくる鳴らし、意を決したように、
「――ぁ、あ。おかあさま、死んで、しまった……」
「ええ……」
「おれ、ころされるの?」
「いいえ」
子供の肩をぎゅっと掴むと、薄い骨の感触が手のひらに当たって痛々しい。
「そうはさせないわ」
一応、……本当に一応、だけれども宛はある。
ニニト谷の奥にあるセプヴァーン城から切り立った山を登り、さらに奥へ高くへと昇ってきた。トロールたちの村が近くにあるはずだった。
マイヤは岩が剥き出しになった窪地を見つけると、そこに跪いた。トロールは岩と石に共鳴するのだと、グリーグは言っていた。すなわち、そこをコンコンコンと三度叩いて、
「森の女神の子が山の王の子にご挨拶いたします……」
と、この口上は知っていた。コヤだけでなく【大森林】の周りで暮らす者なら誰でも、目に見える見えない関わらず亜人と諍いなく話すための手段を心得ている。
ここから先が、アマルベルガの背に運ばれながら、マイヤの気を保つためグリーグが話してくれたこと。
「魔法使いアルダリオン、あなたは魔石の生みの親。大いなるグリモアの所持者よ、アルダリオンの直弟子たちよ。どうぞ森の女神の子の嘆きにお力をお貸しください」
クレトは興味深そうにマイヤの背中を見つめていたが、やがてはっと気づいて男の子らしく彼女を背中で庇った。まだ眦に涙が残っていた。
そしてひとつ、またひとつとトロールの影が増えていき、人間にはのそのそと、としか思えない速さで二人を取り囲む。
「どーうしたもんかのう」
と囁きながら、トロールたちは困り顔で迷い込んできたヒューマンを見下ろした。山の短い夏の日が暮れようとしていた。




