セプヴァーンの子供2
さくさく、と軽い足音が近づいてきた。そっちを見ると見知らぬ老婆が立っていた。子供が嬉しそうに彼女に寄っていくのを見て、マイヤは慌てて立ち上がった。
「あ、こんばんは……」
「……子がお世話になりまして」
「いいえ、いいえ、私が遊んでもらったのです」
どぎまぎしながら髪の乱れなど直すマイヤを、老婆は目をしぱしぱさせながらじっと見つめた。
年老いた人であったが、老婆というよりは老婦人と言った方がよかったのかもしれない。仕立てのよいくたびれたドレスに肩掛けをぐるぐる巻き、その肩掛けもほつれてはいるが元は上物の毛織りだったようだから。ユリウスとは違って老年のためそうなった白髪はきれいに撫でつけられ、背筋はぴんと伸びている。背は高くないのに侮れない気配があるのはそのためだろう。薄い唇と鼻筋の通った顔に、若いころの美しさの片鱗がまだ滲んでいた。
「レオポルドの妻ですね?」
「え、ええ。はい。マイヤと申します」
子供は老婦人の膝に頬を摺り寄せる。
「召使いたちが噂していました。草原の民が嫁入ってきたと」
マイヤはそのとき今までしなかったことをした。それほどまでに人と喋りたかったのか、老婦人の毅然とした態度を前に誤魔化しができなかったのか。あるいは子供の金茶の瞳があんまりにもとろんと温かそうで、うっかりしてしまったのかもしれない。
「私――私は、草原の出身ではありません。姿形はよく似ていますが、それよりもっと遠くの出身なのです」
「まあ、そうとは知らず失礼をいたしました。……弟御が戦っておられるとか」
「はい」
老婦人は悲しげに眉を寄せ、子供の頭を撫でた。
「さぞかしご心配でしょう」
「いいえ、いいえ。戦争はもう終わったのです。あとは帰ってくるのを待つだけですから」
「敵からどれほどのものを獲れるかで、尊い方は判断されます。殿下と呼ばれようが、陛下と呼ばれようが、下々からどう見られるかは重要です。カーレリンはそれをないがしろにして滅びたようなものですから。王子殿下の真価を人が決めるのはこれからですよ」
子供がくしゅんとくしゃみをした。空では月がこうこうと照っていた。明日には満月だ。
白い光の中で老婦人は嫣然と笑った。
「よろしければ、拙宅へ。おもてなしいたしましょう」
それで、そのようになった。
案内されたのは小さな家だった。雑木林のさらに先、ほとんどウパロ山脈に向かう山道の裾にあった。二人の服装のように古びていたがあばら家というには遠く、庵を結んだ、という言葉が脳裏に浮かぶ。
子供は会話の内容をよくわかっているようで、家に入ると早々に水瓶に飛びつき、やかんに水を汲みはじめる。家の中央に鉄製のストーブと煙突があり、もう一つある向こうの部屋は寝室らしい。すべてが片付けられ、清潔に保たれ、整頓された空間だった。
マイヤは勧められた丸卓につき、その小さな木製の椅子がギイと鳴ったのに不覚にも涙が出そうになった。……うちと同じようなおうちだ。コヤの街の私の家と。
「私はトゥラウベラと申します。先代キャヴェロ当主の妻でした」
「ま、あ……それは、」
マイヤはうまく言葉が紡げない。貴族に嫁入りしてはじめて、その血をつなぐ仕組みがどれほど残酷かと知った。女中や侍女たちが教えてくれた。夫の名誉を傷つけたと判断された妻はたとえ貴族の出身であろうとも追いやられ、庭に建てられたレンガの小屋に押し込められ、あるいは塔に監禁されて、一生出ることはかなわないのだ、と。
まさか、冗談だと、マイヤを脅すための嘘だろうと思っていた。まさかそこまでするなんて。そして夫がそれを容認するだなんて。
トゥラウベラは頷く。
「ええ。子供が産めませんでしたので夫にここに住めと言われましたの。もう二十年も前の話になります」
「それだけの理由で?」
首を横に振る。
「信じられない。……旦那さんが奥さんにそんなことをするなんて」
子供は一生懸命に小さな手を動かし、今度は棚から陶器瓶からお茶っぱを取り出している。
トゥラウベラは貴族らしい薄い微笑みで胸に手を当てた。
「今となっては恨んでおりません。家を存続させるためには必要なことでした。召使いが通ってくれますから不自由もありませんし、それに――今はあの子の面倒を見て、とても楽しく暮らしております」
子供はくるくるの髪をぱさぱさ頭を振って後ろに落としながら、にこっとした。器用な手つきがお茶が淹れられた。
「あの子はクレトと言います。可哀そうな子です。母親に名づけさえされず」
「お母上様はもういらっしゃらない?」
「ええ、そうです。私が母代わりですの」
クレトはカップに入れたお茶をマイヤに差し出した。重さに耐えているのはわかったので、すぐに受け取る。
「ありがとう。いい香りね」
頭を撫でられるとくすぐったそうにする、その顔はごく無邪気に見えて、そんな出自を背負っているとは思えない。
お茶を受け取ったトゥラウベラは一口口をつけ、頷く。クレトはさっきよりもっと嬉しそうにした。
「パトリシアは今、どのようですか?」
「戦勝の報せに感激しておいでです。レオポルド様がお戻りになるのを今か今かと待ちわびておられます」
「困った子です。このばか騒ぎもあの子の主導でしょう」
それからトゥラウベラは淡々と、セプヴァーンのマイヤの知らなかった情報を教えてくれた。
十年前に戦死した先代キャヴェロ伯爵、つまりトゥラウベラの夫は妾を取り、生まれたのがレオポルドであった。パトリシアがその妾である。男爵家の娘だったが家はカーレリンとともに没落し、途方に暮れていたところを先代に拾われたらしい。
「少しばかり、旦那様に忠義が過ぎたというべきでしょうか。正妻の立場にすでに私がいたことにたいへんご立腹でした。自分のいるべき場所を横から奪い取られたと思ったのでしょうね」
「それはトゥラウベラ様のせいではありませんわ」
「ええ。巡り合わせです。実際にレオポルドはあの子が産んだのですからね。星はパトリシアに味方したのです」
クレトは部屋の隅に行き、大人しくパズルで遊んでいる。
「ああ、誤解しないでくださいね、マイヤ。私はその巡り合わせを恨んではおりませんし、今の生活に満足しているのですから」
「ええ。わかっておりますわ。小さくてもお手入れの行き届いた、素晴らしいおうちです」
こればかりは本気の賞賛であることがトゥラウベラにも届いたのだろう、朗らかに笑う。額や目じりに深い皺が寄ってもなお、彼女の笑顔は若い女のようになめらかだった。
一方のマイヤの正直は感想としては、
(やっぱり女同士で悪口言うのは楽しいわね!)
であった。どうしようもない小娘である。
まあ、確かにパトリシアがやりすぎなところは否めない。自分の好きなときに若妻を呼び出し、閉じ込め、嬲るのを楽しんでいるふしがある。侍女も女中も執事も侍従も皆、最高権力者の言いなりで味方はいない。些細な失敗を理由に出自から仕草から声の質までくどくどダメ押しされ続け、胃が痛むこともある。
「女中が子を産んだというのは本当ですか」
とトゥラウベラは何気ない様子で聞いた。もう目は笑っていなかった。
「……ええ。男の子だったそうです」
「そうですか。それでは気をつけなさい」
――私のようにならないように。
とは、聞かなくてもわかるのだった。
礼儀正しい会話がいくつか繰り返され、生まれ育ちの違いはあれど二人して意気投合した。なんといっても、どちらにも押し隠したパトリシアへの憎悪があるわけだから。トゥラウベラは貴族女性らしく品のよい嫌味であげつらい、マイヤは田舎娘らしく決して自分を表に出さないまま聞き知ったあれやこれやを言いつける。似た者同士だった。
やがてクレトがつまらなそうにしているのにマイヤは気づいて、それからは思い切り遊んでやった。クレトはとてもいい子で、だが少しだけ幼かった。トゥラウベラ以外と会うことがないからだろうか。
「クレトはいくつなんですか?」
「十になります」
「まあ」
それにしては天真爛漫というか、ぽやぽやととらえどころのない表情をする。今だって積み木と鞠で遊び、芯から嬉しそうにしている。
――この子はどこの子ですか、とは聞かなかった。出自のよくない、つまり親の間違いから生まれてきた子が追いやられるのはよくあることである。命があるだけよしとしなければならない場合も、ある。
月が昇り切る前に小さな家を辞して部屋まで駆け戻った。それからもちょくちょく、訪れるようになった。トゥラウベラとクレトと仲良くしていると、忘れていたぬくもりを思い出せた。あまりに居心地がよく、自分の家のようだった。




