再び、アマルベルガ
婚家におけるマイヤの立場はまったくもって失墜してしまった。なにもかも青い月の夜の夜歩きのせいである。つまり自業自得だ。姑パトリシアの鬱憤はこの上ない。とはいっても肝心のお説教が、
「まったく、ローゼン家に連なる我がキャヴェロ家の名誉をなんと心得ているのです? セプヴァーンには夜露に濡れた女の幽霊の伝説がありますが、あなたはそれそのものです!」
といった調子なのだ。貴族らしい自覚のないマイヤにはあまりピンとこないのだった。
ひたすらすみません、と頭を下げて謝るものの、その仕草が貴族と違うからあまり謝意は伝わらない。
子供に会ったことは誰にも言わないでいた。万一あの子がそのせいで何かひどい目にあったら耐えられない。セプヴァーンにきてはじめての友達だったから。
パトリシアの言い分はどんどん過激になっていって、
「親の顔が見たいとはこのことですわねええ!?」
という金切り声に変わる頃にはさすがに顔を上げた。
「お義母上様、うちの親のことは関係ないじゃありませんか。確かに勝手をしたのは申し訳ありませんでした。でもお城の敷地の外に出たわけじゃありませんわ……」
と、口答えはいつだって相手の神経を逆なでするものだ。
「本性を現したわね!? ばれないとでも思っていたの!? あなたがどこかおかしいことはわかっていましたよ!! 王族が親元を離れて養育されることはよくありますが、それは高貴なるお家にて大切に保護されてはじめて意味をもつのです! こんなのがいたところで育ったなんで、きっと王子殿下にお悪い影響が出ているのだわ、そうに違いないわ!!」
絶叫である。
一瞬で熱が冷め、というか我に返ってマイヤは反省した。この人はあんまり、家の外に出ない貴婦人なのだ。そこにのこのこと平民上がりの女が嫁ですといって入ってきて、好き勝手して、拒絶反応が出て当然だ。
さすがに王家への侮辱は危険すぎる。侍女たち、女中たちが総出でパトリシアを捕まえて、丁重に彼女の部屋へ連れていった。
最後にマイヤを振り返り、マーネセンからついてきた娘が、
「呆れたこと。これでもうあなたは死んでいるのも同じよ」
と、目を伏せる。バタン、と扉が占められて、かんぬきがかけられた。その向こうからパトリシアの絶叫が響いてくる。
「恥さらしよー! もう終わりよ! あんな嫁がいるなんて、キャヴェロはもう終わり!! 崩壊します! 崩壊します!」
「ううん……」
マイヤは唸る。思っていた以上におおごとになってしまった、たかだか一回、夜に出歩いただけで。コヤの街の人々は夕涼みに夜の散歩をしたし、マーネセンもそうだった。いつだって赤、白、青いずれかの月は出ているから明るいので、そういう習慣があった。
しかしそれこそ貴族と平民の感覚の違いというもので、普通、貴族の奥方がひょいひょい単独行動していれば不倫を疑われる。そのあたりのことを身を持って教えるはずだった侍女はマイヤを見限った。しかしその原因も、彼女があまりに平民のまま変わらなかったせい。誰が悪いというわけでもない話だった。
そのまま再びのろのろと時間は進み、マイヤにとって今のところ外界との接触といえば扉の外を通る使用人の噂話くらいである。布も糸もとっくにない。針を磨くのにも飽きてしまった。
「しなきゃよかった、あんなこと……」
と寝台に突っ伏す。嫁いできて半年目、くらいだと思う。
身の回りの世話は変わらずしてもらえる、ただ外に出られないだけ。恵まれた環境だと自分でも思う。けれどすることがない日常というのは倦んでいくようなものだ。
聞きかじりの噂をつなげてみると、ユリウスは死んでも負けてもないらしい。フェサレアを追い詰め、カーレリンの領土を回復したそうだ。あとは同盟を組んでくれた勢力への義理立てとして、そっちの戦にも加勢しなくてはならない。
「戴冠式はいつになるかしら? ああ、カーレリンが帰ってくるのね」
と扉の向こうではしゃいでいたのは、記憶違いがなければどんぐりまなこの娘だろう。あの、夫に縋りついていたかわいい子である。またこれは記憶違いではないのだが、
「ねええ。旦那様もすぐ帰ってくるわ。赤ちゃんももうすぐだもの。お顔を見せるのが楽しみね!」
と、もう一人の娘の声も聞こえたので、おそらくマイヤに聞かせるために言っていたのだと思う。
とはいっても、本当に二、三回しか話したことのない夫である。嫉妬もなにもあったものではない。お幸せに、ついでに出してくれませんか? といったところである。
思えばマイヤという娘は昔からこうだった。自分の感情をうまく制御できない。逃げてもどうにもならないことを知っているくせに、時々、逃げる。だから怒られるのだ、バルコニーに出されるのだ。国道から吹く風は冷たい。この部屋も、あんまり薪をもらえないので寒い。
暖炉に立って火かき棒でかき回してみても、火の粉がたつばかり。部屋の温度は上がらないのだった。ため息ついて襟元をかき合わせたときだった。
コンコン、と扉がノックされる。え?
マイヤは戸惑いながらそっちに向かった。向こう側からかんぬきが外されていた。
扉を開ける。そこにあの人がいた。アマルベルガ。薄い色の金髪に灰色の目の彼女が、旅装用コートの姿でにやりとする。
「お久しぶり、マイヤ」
「えっ……」
絶句して、マイヤの腕の力が抜けた隙に、アマルベルガは器用に室内に滑り込んだ。ここはただの城ではなく要塞の、暗い奥まった突き当りの部屋である。貴族の館に特有の守りの呪文も施されている。いくら今は警備が手薄とはいえ、部外者が入り込めるところではない。ユリウスもそれを知ってマイヤの嫁ぎ先にここを選んだくらいだから。
「な、なにしてるんですか?」
「ちょっとね。あ、グリーグさんはご無事に娘さんと再会なさったわよ。たまたま行き会ってね。一緒に行動してたら、避難してきた娘さんご夫婦と会えたのよ」
「あら、そうですか。それはよかった――そうじゃなくて、ここにどうやって忍び込んだんです!?」
「秘密」
「見つかったら殺されちゃうわ」
アマルベルガはうふふ、と拳を頬に当てた。
「壁や使用人ごときがわたくしの進むことを阻むなんて許されなくてよ」
マイヤは追及を諦めた。助けてくれた恩人であり、憧れを抱いている相手だし、強くは追及できないのである。強い魔力を持った女魔法使い、難関にも関わらず資格を手にした女医師、王女や女王、それから魔女と呼ばれることも厭わずに予言の魔法を続ける女予言者を見た多くの女が感じるように、マイヤだって強く生きる同性への憧れがある。
「どうしてセプヴァーンに?」
「どうしてって、あなたに会いによ。ちょっとお話したくって」
「えっ。あ、ありがとうございます……」
アマルベルガはますますにっこりするのだった。そそくさコートを脱ぐと、レースがあしらわれた素晴らしいドレス姿である。何重にもなった薄い生地が海のようだ。
「すみません、何も出せるものがなくて」
とマイヤは恐縮するが、さっさと一つしかない卓の、古い椅子に腰かけてしまったアマルベルガは意に介していない。
「お気になさらず。もっとひどい部屋で暮らしていたときもあったのだもの、驚きやしないわ」
「まあ……」
マイヤもとりあえず、アマルベルガの前の席につく。窓を閉めても隙間風が入り込み、寒冷な山の風は容赦がない。
「どうしてこんな生活なさっているの? 伯爵様の新妻として、楽しく暮らしているかと思っていたのよ」
「それが……」
と、マイヤはいきさつを話した。つまりは生まれと育ちが違う者同士がぶつかって、相手の方が数も多ければ主張も正しく、押し負けたという話である。よくある話だったが、話せば話すほど自分の幼さ、至らなさを白日の下にさらけ出すようで、身悶えするほど恥ずかしい。
「コトヴァの殿様は私の……ユリウスと同じに物怖じしないところがキャヴェロ家に新しい風を吹き込むだろうと、おっしゃいましたけれども」
アマルベルガはふっと苦笑した。
「そりゃ、地球温暖化が氷河期にぶつかって相殺されるなんてことはなさそうだし、近視の人が老眼になったら対消滅して普通の視力になる、なんてことはないわよね」
時間が止まったようだった。
偶然か、それともアマルベルガがこの日を選んだのか。青い月の夜であった。不吉な夜だ。することもなく迎えた退屈な。窓ガラスごしに青い光が降り注ぐ。
「……地球温暖化」
「どんどん夏が暑くなっていって、大変だったわね、あの頃は」
マイヤは沈黙したまま、不自然な笑顔を貼りつける。ふうん、とアマルベルガは首を傾げる。
「どうやらこのままだと、わたくしの知っている未来と違ってしまうみたいなの、この大陸の歴史」
「どういう――?」
「ユリウス王子が挙兵なんてヘンだわ、ってこと。わたくし、これから起こることならなんでも知ってたはずなのに。ぜんぜん知識が役に立たなくて」
ううん、とアマルベルガは伸びをした。
「単刀直入に言うわね。本当ならカーレリンを再興するのは別の王子なのよ、ユリウスじゃなくて」
卓の上には出しっぱなしにしていた裁縫箱があった。唯一の手慰みもなくなってしまい、片付けるのもいやで放っておいたのである。マイヤは裁縫バサミを掴んだ。大きく黒光りする鉄製の刃がついている。アマルベルガはその手の動きを目で追い、けれどなんの反応も示さない。
「ユリウスをどうにかするつもりなの……?」
王子の姉である小娘の声は震えていた。
「ユリウスがいると、何かあなたに都合が悪いの?」
「いいえ? 何も。年代がズレていて、知らない人がいるはずのないところにいて。困っていてよ、わたくしが好きな物語が始まらないかもしれない」
「わかる言葉で言って!」
ほとんどはじめて、マイヤは大声を出した。セプヴァーンに来てからはじめて喉を使った気さえする、こんななにもない日々の中で、ようやく頭が動き出した気がする。
「じゃあ教えてあげましょうか、転移者さん。わたくしの前世と同じところから来た人」
アマルベルガはくるりと腰に差していた扇を抜いて、マイヤを指し示した。
「ユリウス王子は十年前に死んでいるはずだったのだわ。カーレリンの水晶宮殿が焼け落ちたときに、王妃の腕の中で彼女と一緒に。なのに生きている。きっとそれが歴史が変わった原因なのよ」
マイヤは深呼吸した。頭の中で血がバクバクと渦巻いた。
「あなたは――日本人なのね?」
「ええ、そうよ」
「そうは見えないわ」
「肉体はアマルベルガにもらったの。たぶんあの子自身はそんなつもり、なかったでしょうけれど」
アマルベルガと名乗った人はぺろりと舌を出した。潰した苺のように赤い。
「ひょっとしたらあなたがわたくしと同じに、この物語を結末まで知っていて、それで自分にの思う通りにしようと動いてるんじゃないかしらと思ったのよ。もしそうだったらいやだわと思ったの」
「物語?」
「その様子だと知らないみたいね」
貴族然として美しく、アマルベルガは嫣然と微笑む。足を組みかえればドレスがさやさや鳴って、夢のように綺麗だった。マイヤはくらくらした。こんなにお姫様として正しくあれる、強い、変身魔法を使えるような人が日本人?――そんな。
――私と同じところから来たの?
(ずるい)
と思ってしまうのを止められない。だって、もしマイヤに彼女のような力があれば母を救えた、瓦礫の下から連れ出せた。父のところに風の速さで駆け戻ってやれた。ユリウスにまだ帰る家を残してやれた。
(同じ……なのに、ずるい。ひどい)
手がゆるんでハサミを取り落とした。卓の上に転がったそれは、新しくもらったものだから全然錆びていない。
じわじわ癇癪のかたまりがお腹の下からせり上がってくる。こめかみが疼く。全身の血が耳に集まったようにドクドク音がする。
もう少しマイヤに世間知や知識や、追い詰められたときでも優雅に落ち着いて振る舞える貴婦人の言動を学ぶ機会があったら、おそらくアマルベルガからもっと重要な情報を聞き出せただろう。
けれどそこまではマイヤの手に負えない。彼女はいつだってコヤの街の娘のひとりで、父母の娘でユリウスの姉だった。それこそが望んで得た幸福だったから。
アマルベルガはしばらく取り乱すマイヤを眺めていたが、やがて視線を外した。裁縫バサミに丁寧に布のカバーを被せ、散らばるものを箱に順繰りに詰めていった。……この子はこの世界の住民の一人でありそれ以上ではない、といことを納得したかに思われた。
「わたくしはね、もしわざと物語を破綻させている人がいたら、どうしてそんなことするか知りたかったの。だってわたくし、この世界が大好きですもの。続いてほしいもの」
笑顔だった。テキパキと裁縫箱を片付けてしまうと、
「はい、終わり。さあさ、もう泣くのはおやめ。悪かったわ」
「泣いてなんかない……」
「ええ、ええ」
そうして平穏な空気が部屋に戻った。マイヤは力なく座り込み、アマルベルガは誤魔化すように両手を合わせた。レースの手袋に縫い付けられたスパンコールが、熾火の暗い炎を反射してきらきら光る。
「たとえ破綻してしまったってわたくしはここが大好きだわ。それは信じてちょうだい」
「……ええ。それは、わかるわ」
マイヤは目頭を押さえる手を下ろし、上がってくる狂ったような笑いを飲み下す。
「あっちよりこっちの方が何百倍も幸せだわ。何千倍かもしれない。私は――私は、ユリウスが好きだわ。ユリウスのためにこっちにいるの」
アマルベルガの目に憐れみが宿った。
「あなたのその言語はこちらのものだわ。覚えたのね?」
「ええ、そう。最初は言葉が通じなくて苦労して。母さんが、この子は怖い思いをしすぎて馬鹿になったんだって、近所の人に言ってくれたの。母さんも怪我をしていたから、二人で家に引きこもって、その間に覚えたの。嘘つきゲームみたいで楽しかったわ。私は、……私はユリウスのほんとうのお姉さんで、母さんの娘で、そう見えるよう普通にしてなさいって言われて。そうして過ごしてきたの」
マイヤの言葉はときどき日本語に置き換わった。ふたつの言語が入り交じり、単語だけ日本語になったり、あるいはその逆も。
彼女は生まれて初めて、その大切な思い出を他人に語ることができたのだった。
――あの日々の心からの歓喜をなんと呼べばいいのだろう。
ここがおうちで、私がお母さんよ、と母は言った。ユリウスはぐったりしていた。父は複雑な顔をしていた。
マイヤは胸元を抑える。そこにはハンカチに包まれて、父母がまだいる。ここにいる。
アマルベルガは小さな子供の嘘を見守る大人の目をする。やがて気づいたように懐を探った。
「そうだわ。これあげる」
渡されたのは小さな小指ほどの鍵である。
「窓の鎧戸の鍵よ。不用心よね、この城の窓は全部同じ鍵なのよ」
「どこから?」
「鍵束から。大丈夫、一本くらいくすねてもばれないわ」
ふふふっとアマルベルガは笑った。芯から貴族に馴染んだ令嬢の笑顔だった。
「夜分に騒がせて、悪かったわね」
「いいえ、いいえ」
まっすぐ扉に向かう彼女に、マイヤはとことこついていく。アマルベルガはついと身をかがめた。とろり、輪郭が融けてするすると彼女は違う人間になる。緑色のどんぐりまなこの、可愛らしい娘の姿である。
「この子、やり手よね。きっと本当の物語に出演する予定だった子だわ」
「ふぅん……」
「じゃあね」
召使いの娘の姿をしたアマルベルガは、ひらりと手を振って暗い廊下に滑り出た。表からガシャンと、かんぬきをかける音がした。
マイヤは扉に手を当てて、彼女の無事を祈る。アマルベルガはマイヤの敵でも味方でもなかった。けれどいつの間にか憧れと、親しみが湧いていた。そして彼女がもたらしたものはそれだけではなかった。
――嫁いでまもなく夜歩きをした若奥様、さっそく罰として謹慎させられている馬鹿な娘。それがこの城でのマイヤの評価である。直接顔を合わせる女中たちも、姑も、侍女たちも誰も彼もマイヤを軽んじる。もちろん夫も。
元からそれに、それほど傷ついているわけではなかった。当たり前だ、平民育ちの娘が貴族に嫁いだのだから。
マイヤは手の中に窓の鍵を握りしめる。ぴったり閉められた鎧戸は、もう障壁ではない。
思い出した、思い出した。そうだった。ユリウスが願ったようにマイヤはなる。意のままだ。最初の日に何もかも彼に預けた。大好きだ、ユリウスのことが心から好きだ。
マイヤはそれだけでいい。それだけあれば生きていけるのだ。




