セプヴァーン城2
言われている間はこらえていた我慢がぶちんと切れて、パトリシアの細い身体、皺が入っても貴族らしく美しい顔、骨ばかりとなった指先などに心の中でさんざん悪口を並べたあと、
「……ちょっとくらい庭を見て回るくらいならいいかしら」
と、いらんことを思いついた。どうせなら、と思ったのだった。
大人しくしておくべきだ、けれどそれはやみくもに大人しくしていればいつか事態は好転すると信じているからすることで、どうやらここは、この状況はそうではない。
(私の中の血を全部貴族の方の血に入れ替えても、私が貴族になるわけじゃない)
つまりはそういうことなのだった。
夜だった。入浴をすませて、冷えた水を取りに来る人はいなかった。マイヤが階下まで返しにいけばいいのかどうかもわからなかった。余計なことをするなと人は言うが、どこからどこまで余計なことなのかくらいは教えてもらえれば――教えてもらえたら、きっとうまくできるから。
さて、マイヤはこっそり部屋を抜け出し、廊下を進んだ。マーネセンに滞在した短い間、塔の廊下にさえ絨毯が敷かれ、松明が芳香を放っていたことに驚いたものだった。薫香が仕込まれた松明なんて。さすがに灯りは魔法灯ではなかったものの、お城の謁見の間なんかは魔法灯がぴかぴか光っていたとユリウスが教えてくれた。セプヴァーンのお城はさすがにそこまでではない。松明は灯るものの、香りまではしない。伯爵の出陣についていった分、兵士が足りないため衛兵も立っていない。
さて、セプヴァーン城には中庭といったものはない。正確には中庭にあたる部分に厩があり、武器庫があり、真ん中に井戸があって、一番端に使用人の中でも最下層とされる亜人の人々が寝起きする粗末な小屋がある。
花を育てる慣習もないようで、窓脇に花瓶は見かけても植木鉢は見なかった。野菜を育てる畑は城の裏にある。マイヤはそこまで息を殺し、足音を忍ばせて歩いた。寒い。上着を取ってくればよかった。
城の中は静まり返っている。地上部分は貴族階級にある者が使い、地下一階からもっと下を平民身分の使用人が使う。兵士たちの大半がいないせいだろうか、女のひそひそ声が風に乗って届くようだ――と、思えば、確かにそれは聞こえた。
マイヤは声がしたと思った扉にそっと耳を澄ましてみた。
「グリモアの所持者よ。私たちに異世界を垣間見させてください。鉄の道と四角い光を見せてください……」
聞き覚えのある、マーネセンからついてきた侍女の声である。
扉の向こうでは火があかあかと燃えているらしい、温かい空気が流れてきた。侍女の声に唱和して、他にも複数の女の声がする。
「グリモアの所持者よ。月の光に浸したボアの葉を捧げます。これは異世界への鍵。どうか異なる世界を見せてください……」
抜き足差し足でその場を離れ、外に続く使用人用の裏口まで小走りに走った。
油をさしていない音のする戸口を開けて、ようやく裏庭に出る。しんとしたものである。月は今日は災厄を司る青い月だった。青い月妖精の目が地上を見守り、すべてのものが不気味な青色に染まる。そうか、だから誰も外を見ることもせず、あの子たちはあんなまじないをやっているのだ。
「んふふふ、んふ、んっふっふっふ!」
笑を噛み殺しながらマイヤは青く染まった畑を見て回った。野菜、それも寒冷地にふさわしいインゲン豆やらニンジンやらで、青々とした葉が綺麗だった。収穫はもう少し先。そして麦畑もそうだから、本格的な収穫期が到来すれば男たちが帰ってくる。
マイヤは意地悪く笑いながら野菜たちを見て回る。
「ばっかみたい! ふふふっ。異世界? グリモア? ばあーか」
小声である。しかし悪意を隠しもしていない。
マイヤというのはこういうところのある小娘で、両親や弟や街の同胞や、味方に対してならいくらでもかわいくも素直にもなるけれど、そうでないと判断したらとことん敵対しようとするのである。トロールのグリーグだって、初対面が殴られる被害者でなくコヤの街に迷い込んできた流浪民という立場だったらマイヤは彼を白い目で見て、みんながそうしたなら石でも投げたかもしれなかった。
どうしようもなく小心者で、田舎者なのだった。とはいえ状況が状況である。見えない悪意と無視に突き回されて、すっかり心が荒んでいる。元々持っていた悪い部分が出てくるのも、無理もないことなのかもしれなかった。
「ばあーか、ばあーか。異世界はね、こんなところに顔を出さないのよ。何も知らないのね、ばか娘たちっ」
ひとしきり言い募って落ち着いた。
見たことのない野菜がたくさんあって、畑は面白かった。カボチャのような小さな実をつけているの、苺のような花を咲かせているの、名前のわからないナスのような茎。
畑のさらに向こうには雑木林があって、そこが青い月に照らされてきらきらと妖精の宮のように輝いていた。マイヤの足は自然とそっちに向かった。
土が剥きだしの白い道を青く染まった足で歩き、雑木林につくと落ち葉を巻き上げてわけもなくその中をさまよった。松の幹から滲み出る樹液や、下草に絡んだ夜露さえ青い。マイヤの手も足も、裾も月は青く染める。
「ふん。ばかばっかりよ、貴族なんて。大嫌い。私の知る人たちはそりゃ、爵位なんて聞いたことも食べたこともなかったろうけれど、もっとずっといい人たちだったわ。貴族ってみんなそうなの? かわいそっ」
蔦の絡んだところをなんとなく手で撫でて、落ち葉を蹴って歩いて。夜空を眺めて星がまたたくのを目で追って。視線を手元に戻した。細い何本かの倒木に沿って絡み合った蔦の群れのむこう、夜行性の何かがちょろちょろ動く。
ふと、立ちすくみながら夢を見た。トランス状態じみて不吉な夢だった。
――雪の降る深夜。国道沿いのアパートのバルコニー。ダンプカーの騒音と排気ガス。隣のビルの影だったので誰にも存在を気づかれなかった。
足に当たる落ち葉の感触が、冷たさに凍らないようやみくもにこすって痺れた足先のそれに似ている気がした。ぴか、ぴか、うっすら開いた目にうつる青い月の光。ヘッドライト。青い自動車の赤いテールランプ。ナンバープレートを覚えている。いち、はち、の、きゅう……。
その車がアパートの駐車場に止まると、バルコニーで一晩過ごさなくてはならない。
我に返った頃にはまだ身体は雑木林の青い月明りの下にあって、コンクリートはかけらもない。マイヤは笑い、落ち葉を空にすくい上げて放る。
ずっとそうやって、一人で遊んでいた。――驚くほど楽しかった。
やがて夜が更けて、青い月がウパロ山脈のてっぺん、天まで届くウパロニニチカ山の頂上に差し掛かる。目の前がチカチカ青く染まって見えた、青い夜に惑わされていた。月明りがあんまり綺麗で、悪い妖精にそうされたように光のあるところから離れたくない。
結局、部屋に戻ったのは明け方近くになってからだった。




