セプヴァーン城
時は少し遡ってその日、マイヤは馬車に乗り込んだ。行く先は伯爵の待つセプヴァーン。
ユリウスは見送りに来なかった。早朝から新しく到着した軍勢と具体的な合戦の打ち合わせがあるらしい。昨日きちんと話せてよかった、時間をとってもらえてよかった、と思う。彼がかつてなく忙しく、そして楽しく輝いているのがマイヤは嬉しいし、寂しい。
御者、護衛兵に守られ、侍女たちと一緒に四頭立ての馬車に詰め込まれているのは正直、人いきれでのぼせそうである。しかも取り立て話題があるわけでもないから、気詰まりな沈黙が馬車の中には満ちていた。がたごと、がたごと、マーネセンの街から出るとすぐに舗装されていない道に差し掛かり、揺れがひどくなる。
マイヤの身分が急ごしらえの貴族であることが、侍女たちの沈黙の理由の一部である。貴族というのは血によって伝達される血に付属する要素であり、成り上がりものは嫌われる。最低限でも功績を立てて取り立てられた学者や魔法使いや医者であればよかったのに、まったくそんなことはないマイヤは、パトロンに腰を振って妻に収まった元女優の愛人のようなものだった。
マイヤは分厚いカーテンの隙間、気泡のない窓ガラスごしに外を見た。右手に【大森林】。けれど見たことのない風景だった。マーネセンを背後に、コヤから正反対に遠く離れて、北のウパロ山脈の麓にセプヴァーンはある。
目を閉じて新しい生活を思った。ユリウスが向かう戦場を思った。そう、弟が味わうかもしれない苦難を思えば、マイヤ自身の心情などどうでもいいと思えた。
行く先々の宿や民家で部屋を借り、セプヴァーンについたのは四日後だった。マーネセンからコヤまでよりはるかに遠い。
ウパロ山脈の合間、ニニト谷のさらに奥にその城はあった。ニニト谷は古くはトロールたちの村があったが、カーレリンが建国された二百年前から徐々にウパロ山脈へと追いやられ、今では人里でトロールを見ることはないという。
セプヴァーン城は二百年以上前、カーレリンの建国以前の国家が建設した古い古い城である。まるでダンジョンのように真っ白で優美な姿をした、白鳥のように美しい城だった。不思議と壁に継ぎ目がないので目を凝らしてみると、一枚の巨大な岩をくりぬいて造り上げられていることがわかる。防衛に適した土地に建てられた、いにしえの堅牢な城である。
話には聞いていたが、失われた技術による壮麗な建築にマイヤは呆然と立ちすくむ。背後で次々馬車から降りてきた侍女たちは、綺麗な顔した下級貴族の娘たちで、そんなマイヤを無感動な目で見つめた。彼女たちはこれから数年はマイヤに仕え、あとはどこかしら親の言うところへ嫁ぐ予定だ。つまり行儀見習いなわけだが、はたしてこの平民そのもののような女主人から何を学べるものか。貴族の奥方として必要な人脈を広げることさえかなわないのではないか。貧乏くじを引いたと裏で地団駄踏んだ娘も、いたのかもしれない。
城の大門の前に夫となる人が立っていた。横に立つ年配の女性は母親らしい。母に促され、花婿はざくざく土を踏みしめてマイヤに向かって歩き出した。マイヤは慌てて、スカートの裾を整えた。
「はじめまして。マイヤ嬢。私がレオポルドです」
「は、はじめまして。……レオポルド様。ユリウス王子の姉で、マイヤと申します」
と言ったきり、マイヤは絶句してしまう。さんざん暗記してきたというのに、文句を忘れたのである。
侍女たちはひそひそし、夫になる人は柔和な微笑みを浮かべたまま、どこか遠くを見る目をした。姑となる貴婦人、パトリシア・シャロンが進み出てきたのはそのときである。
「我が家はローゼン家の血を継ぐ名門です」
と、彼女は凛とした声で言った。マイヤは固まった。貴婦人の白髪交じりだがきりりと髷を結った頭に、宝石づくりの髪留めが光る。後ろでは護衛兵たちが城の兵士と申し送りをしている、こっちに気づかないふりをしている。
「あなたのような人には来てほしくありませんでした。品性とは、名誉とは血によってもたらされるものですから」
そうして彼女がさっと踵を返すと、見事に細かい刺繍を施したストールがしゅんっと風を切る。夫となる人は苦笑して母親のあとを追った。侍女たちは一泊遅れ、マイヤを追い越して彼女たちに続いた。一瞬の判断でどっちにつくべきかを見極めたのである。あっぱれな生存本能だった。
取り残されたマイヤは立ちすくみ、使用人が案内に来てくれるまでそうしていた。
セプヴァーン城の城門は立派であり、内側の大門もとても大きく立派だった。谷間の風がびょうと吹く。山から下りてきた冷たい風は鼻の奥まで凍らせ、夏間近だというのに雪の味がした。
城門が轟音を立てて閉まると、左右にそびえる急峻な崖により一気に日光が遮られる。また、足元に口を開ける大堀にはなみなみと雪解け水がたたえられ、ここが天然の要塞であることを示した。
(牢獄)
のようだ、とマイヤは思ったが、なんとかそれを顔や態度に表さないことは、できたのだと思う。
それからは城の中の一室を与えられ、それは新妻のために用意されたというよりは物置と化していたところを急遽片付けたといった方がいい、小さく日当たりの悪い部屋だったのだが、とにかくマイヤはそこに落ち着いた。案外、居心地の良いところだった。住めば都とはよくいったものである。
朝、起きるとお湯が運ばれてきて洗顔。朝食は大広間へ。そこで家族全員が揃う。姑と夫に挨拶して食事を取り、それ以降はすることもない。昼食、夕食は部屋に運ばれてきて、夜には入浴のためのお湯ももらえる。侍女たちは下級貴族だからか、侍女というよりは召使いがするような仕事もやらされているようだ。お湯だの食事の盆だの、重たげに持ってきてくれる彼女たちの顔色から察するに、徐々に食事やお湯が故意に忘れられていく、という可能性もあり得る。
「お手伝いできることはありませんか」
「けっこうです。これは私たちの仕事ですからね」
というのが、マイヤとパトリシアが交わした唯一の会話である。それ以外は何を話しかけても無視されている。
夫はといえば、そんな母親と妻をにこやかに見つめていて、何も言わない。そのうちに彼も合戦に参加するため旅立っていった。
大門の前での見送りにはマイヤも参加したのだが、
「レオさぁあん……」
と、泣きながら夫に縋りつく女中の娘がいて、ああ、と察するものがあった。周りの家令や従僕が緊張し、また面白がっているのがわかっていたたまれなかった。
マイヤと儀礼的な会話を交わしたのを最後に、夫は馬に乗り兵士を引き連れて出立した。召使いの娘はかわいい緑色のどんぐりまなこに涙をたっぷり貯め、マイヤをぎりっと睨んで城に駆け戻る。
部屋に戻ってマイヤは寝台にごろんと横になり、腕で目元を抑えた。
「でも……これもまた一つの幸せだから」
だって殴られもせず飢えもせず、ここにいる。間違いなく幸せの一種だ。
ユリウスとの約束は違えていない、たぶん。
――細切れの日々がはじまった。何せやることがない。張り合いもない。苦痛も喜びもない。
輿入れ道具として持たせてもらった針と糸で刺繍などしてみるものの、図案も知っているのは限りがあるし、布地にも限りがある。新しい糸をくれと侍女に言ってみたこともあるが、どうやらそれが果たされるのは百年ほどかかるようだった。
マイヤとしては侍女たちの不満もわかるつもりだ。下級貴族や有力商家の娘たちは行儀見習いに出る。そのときどこの貴婦人の元で働いたかで派閥が生まれ、将来の人脈に繋がり、自分が嫁ぎ先で内助の功をどれほど発揮できるかに直結するのだ。
確かにマイヤでは彼女たちに美しい貴族令嬢や奥方を紹介できない。だからといって彼女たちに自分から何かをしたつもりはないのに、
「やれやれ、また刺繍ですか。たまには外に出られてみてはいかが?」
「よほどお暇なんでしょう、やっぱり赤ちゃんがいない人はだめですねええ」
「お姉さんって言ったって、王族じゃないくせに……」
「王子様もいらっしゃいませんね。もう忘れられちゃったのかしら?」
この通りである。
マイヤはしょぼくれた。侍女たちはすっかりパトリシアの元に通いつめ、まるで彼女に仕えているようである。
そのままひと月が経ち、ふた月が経った。パトリシアの方は今日もお茶会などで華やかである。いつの間にかマイヤの世話をするのは領民から雇い入れられた平民の使用人たちになった。そっちの方が気を遣わずすむのでありがたい反面、やっぱり向こうにも好奇心や侮りがあるようで、興味津々にユリウスのことを根掘り葉掘り聞かれたり、どう考えても見ていないところで荷物を漁られた形跡があったりするのに困り果てた。
――しょうがない。一度こうなってしまった状況は、一人の努力では覆すのは難しい。
マイヤは気持ちを切り替えることにした。植木鉢の世話に花壇の様子見に、店で働き家の中で働きと忙しくしてきた娘だから、座ってぐじぐじしているのは性に合わない。
さっそく、姑……は目を合わせてくれないので、その侍女などに、
「あの、慈善活動をしてみたいのですが。孤児院や養老院に差し入れを……」
「家の恥です」
「では、家政のお手伝いをさせていただければと」
「お金を盗むおつもり?」
「……」
「ところで王子殿下はセプヴァーンにいらっしゃいますかしら? ぜひ遊びにいらしてくださいとお伝えくださいね」
合戦中である。戦場は転戦を重ね、戦線は定まらないと聞く。平原の南部分を縦横無尽に駆け巡り、逃げるフェサレア軍を追う戦だという。遊ぶ余裕はないだろう。
侍女はマイヤから眉をひそめて上品に目をそらすと、向こうへ行ってしまった。
それからまたひと月が過ぎただろうか、
「懐妊はまだですか?」
と、事情は知っているだろうにわざわざパトリシアが部屋までやってきて小言を並べたて、満足するまで延々と話し続けた日があった。
「まさか不妊ということはありますまい。あなたは健康だと言うお墨付きでお嫁にきたのですものねええ」
ぷっつんきたのはその日の夜である。




