晩餐会
ハインリヒ六世が死んだのは、王宮でフェサレアの騎兵と切り結んでの果てだったと言われている。けれどもどうやらそんなわけはない、というのがカーレリン貴族の共通認識らしかった。
「あの……信心深い王陛下にそのようなことがおできあそばされたかどうか」
とは、コトヴァが重々しくも目をそらしたように、ハインリヒ王は文弱の王、優しいばかりのお飾りだったらしかった。
ユリウスは自分にも、そうなるべきだという圧力を感じることがある。まだ若い剣の腕さえおぼつかない王子である。そっちの方が操りやすい。貴族たちはすでに戦後、フェサレアの重圧が消えた先のカーレリン宮廷での身の施し方を考えているらしかった。
それほどフェサレアは与しやすく見えているのだろうか、フェサレアに取り込まれながらカーレリンに忠節を尽くすのは、むしろ自らの権益を考えてのことなのだろうか。
(愛国心や貴族の誇りは、俺が考えていたようなものではないのかもしれない――)
とユリウスは思い、それは少年にとって苦い失望だった。
くしくもマイヤが同じように希望を砕かれて嫁いでいったことなど、さすがのユリウスにもわからない。コヤの街が滅びて以来、姉弟の心は常にぴったりと寄り添ってひとつに等しかった。同じ部屋で寝起きしていたときよりも、マイヤが塔に、ユリウスが王の部屋に釘付けられていた時の方が心の距離は近かったのかもしれない。けれど今となっては、物理的な距離が気持ちさえ引き剥がしたような日々だった。
ハンスは相変わらず憎まれているのかと思うほど厳しく、けれどどこか面白げな、屈託のない教育者の笑顔がそれを裏切る。彼はユリウスに才能があると言ってくれた。少年の心に火をつけるのはそれだけで十分である。
――マイヤが行ってしまって数週間が過ぎたころ。
マーネセンの領主タイタスとユリウスは会談の場を設けていた。マーネセンに滞在する貴族の軍勢の食費および草原への移動費が、
「端的に申し上げますとかかりすぎてございます」
ということだ。
「マーネセンにも限界はありまする。いくらダンジョンがあるとはいえ、我が財は無限ではございません。どうか他の貴族諸兄らにもご負担を願うよう、殿下よりお言葉を賜りますよう……」
と、いっそ慇懃に見えるほど冷たい視線だった。
「すまない、タイタス。俺……あ、私からも、きちんと諸侯に伝えておく。次の会議で、必ずそうしよう」
とつっかえつっかえ、ユリウスの言葉はぎこちない。いくら話し方を矯正されようと、豪華な服を身に纏おうと、コヤの街のユリウスはまだユリウス本人だ。
タイタスの表情は片眼鏡がなくても読み切れるものではなかった、ただこの年齢不詳の男がユリウスに内心呆れているのは、火を見るより明らかである。
このままでは部屋の奥に控えたコトヴァ老が出張ってくるかもしれず、それは心強かったが恥でもあった。さすがのユリウスにもそのくらいのことはわかる。ギルベルトは前線になる草原に出向き、今か今かと合戦開始を待っている。もうそんな時期なのである。ここで王子(であると確信さえ持てないままなのが、彼のこうした態度の原因の一つなのかもしれなかった)が頼りなげでは、命がかかっている将兵があまりにかわいそうだ。
「それでは、私はこれで。しかと、しかとお頼み申し上げます、殿下」
とタイタスが席をはずそうとしたとき。
「タイタス、今晩の予定は?」
と、ユリウスは聞いた。思わずといった口調になってしまったし、実際あまり考えずそう言ったのだった。タイタスに見下されたままでいたくなかったのかもしれない、マーネセンのご領主はみんなの憧れだった。彼の経済政策の手腕があればこそ、ダンジョンの富がこれほど早く、闇に流れることもなく合法的に利用されるに至った。そしてユリウスはマーネセンが栄えているのを見て、ダンジョンに挑もうと家を飛び出したのだ。
年齢不詳の質素なマーネセン領主は、若干驚いた顔をする。
「いいえ、とくには。陛下」
「ならぜひ、夕食を共にしよう。色々教えてくれ。マーネセンの現状や、私の知らないことを」
王の夕食に招かれるのは貴族の名誉である。タイタスは表情の読めない顔で丁重に礼を言い、実際にその日の晩やってきた。
それは本当に開戦直前の、いわゆる決起集会じみた会だった。重要な会合はすべて終わったあと、互いの顔色を再確認するためだけの貴族の集まりである。
長方形の重厚なテーブル、真っ白なテーブルクロス、真ん中にゆらめく燭台、飾られた薔薇の花。
アウレリオ家のフリードリヒは草原から戻ったばかり。髪を撫でつけ胸元に花を挿し、そうするとユリウスより王子らしい。最近成人したばかりの双子の人狼は、それぞれ正装で主の壁際に控える。
レディ・ヴァネッサとその夫の間には、若く美しい長女がちょこんと座る。
そのほかには財務卿とその書記官、おのおのの将軍が並び、ユリウスのすぐ左隣にコトヴァ、右隣にはタイタスが座る。なごやかな雰囲気の元に食事が始まった。みんな見知った顔である。
会話は国際情勢やそれぞれの領地の話を一通り巡り、タイタスの番になると彼は意外にも面白おかしくマーネセンの現状を語り、一同に聞かせてくれた。
「ダンジョンからの実入りは確かに大きいですが、それを上回る事件が起こるのが考えものです。日々走り回っております」
「まあ、ご冗談を」
「いいえ、本当ですとも。たとえば毎晩バイオリンを弾く男が近所から嫌われておりました、うるさいとね。男はパーンの血が入っていたので音楽が好きだったのです。ある晩、男の演奏に感銘を受けた少女が彼に近づきました。彼女は彼の音楽に心を打たれ、彼を支えることを決意しました。けれど彼女はセイレーンの孫娘だったのです……」
といった具合である。続きが気になる話し方、目くばせや声の調整の仕方といい、社交に慣れた貴族らしい如才ないやりとりだ。
レディ・ヴァネッサはしみじみとワインの入った杯をくるくる回した。
「なんて悲しいお話かしら。まるで卑怯な陰謀により滅びてしまった我が祖国を想うようですわ」
彼女の兵糧運搬計画、およびその見事さは卓越したものである。そしてフェサレア国内いたるところにいる彼女の友人たちの支援がなければ、今回の合戦は始まる前から負けていただろう。
シェンブルクロー女侯爵が混血らしい鷹揚さで頷きながら、軍人らしい簡潔さで、
「私は寓話を受け取る教養を持ち合わせておりませんが、そのように思います。タイタス卿は立派な教養をお持ちですね」
とにっこりする。ワーキャットのくっきりした青い目、縦長の瞳孔が綺麗だった。
ざわざわと話し始めたのが年配の将軍たちで、フェサレアに指揮権を取り上げられ、訓練場などに送られ似合わない教官などをやらされた者が大半である。つまりは戦場で散るべき身を飼い殺されたというわけで、多くが人狼の血が入っていた。純血のコトヴァをはじめ、その境遇に不満を持たない者はいなかった。
「私たちには使命感があるのです、殿下。貴族に生まれた者ならば、戦って家族や領土の名声と繁栄を守るべきだ!」
と言ったのは誰だったか、たちまちそうだそうだと賛同が上がり、野太い声に夕食会は席巻される。タイタスが涼しい顔で魚の切り身など口に運ぶのを見、ユリウスはこっそり見習おうと思った。
皆、フェサレア相手に死ぬことを熱望していた。将校たちは戦を知っていた。
「――殿下におかれましては勝利の暁に、フェサレアの貴族連中をどうなさるおつもりか?」
「我らと同じように活用の名の元生かしておかれるおつもりか?」
「それはなりませんぞ、殿下。お若い方にはまだご理解できぬかもしれませぬが……」
なんの、と声を張るのはフリードリヒである。
「殿下は勇敢なお方です。おのおの方はまだご存じないかもわかりませんが、この方はこの若さでダンジョンに挑もうと単身、戦ってこられたのですぞ。家を飛び出し、着の身着のままで。私とてそのような難行に挑んだことはありません。たとえ市井の平民の中で育とうと、殿下がオウル家のお血筋の王子であられる証拠ではありませんか。そんな方が――」
ユリウスとしては勘弁願いたい。あの日々をそんな言葉で、まるで英雄譚の一節のように語るフリードリヒに顔に熱が集まるのがわかる。
「まあ待て。待て」
とコトヴァが金の杯の底で机を叩き、がつんと響いた音に場が静まる。
「諸兄らのいうこと、正にその通りだ。この戦争でカーレリンの復活と栄光の再来は間違いない。しかしいまだ開戦のラッパさえ聞いていないのにあとのことを考えるとは、いかがなものか。若人の早合点を笑えまい」
場は笑いに包まれた。
「しかり、しかり!」
「まずは勝利ですな、閣下!」
「このようではいやはや、――見よ、殿下もお笑いになっておられる」
「おお、殿下。肝が据わっておられます」
など、など。ユリウスはひきつった口元を杯で隠した。ちらり、視線が合ってそれはタイタスだった。彼らは別に何の感情も交わし合うこちはなかったものの、やがて話題が流れていったあともユリウスはタイタスの目を忘れない。彼は貴族将校たちの会話をまるで自然の一部のように受け入れ、流すように見せては同意し、のらりくらりとマーネセンからの資金提供の言質は取らせなかった。その手腕はユリウスには必要な技術だったし、おそらくはタイタスがそれをあえて見せてくれている、ということに頭が回らないほど愚鈍ではなかった。
レディ・ヴァネッサのころころした笑い声。その長女の追随する可憐な含み笑い。唯一のフェサレア人で、妻子のためカーレリン側に寝返ったドルド・モレット子爵の穏やかで感情が一切ない笑い顔。
明日には戦場である。
貴族らしい口調、優雅な表現、複雑な手や扇の動き。それらが戦場での戦略的な動きと連動していた。
勝利のため一群となって戦う絹のごとき水の都カーレリンの軍勢など、出現しないだろう。作戦通りに動かない軍はいなくても、作戦通りすれすれに思惑を覗かせて動く軍は出る、必ず。それは兵たちによる火事場泥棒かもしれないし、不利になればカーレリンを裏切りフェサレアに寝返る貴族の心の動きかもしれない。
ユリウスはそれらを見極め、それぞれの高貴な人にとってよい君主ろなるべきなのだ。理想の君主を演じなければならない、せめて最大多数の貴族が納得し、持てる力を発揮してくれるよう、彼らが快く働いてくれるように。
(王族の仕事、ってこういうことなのか――)
と、ユリウスは微笑みながら、さもおいしそうに食事をとりながら、信頼すべきカーレリンの人々と目を合わせ、彼らに愛されるよう努める。
ハインリヒ六世の気持ちが、かけらなりと分かるきがした。無気力で女好きな王だったと聞く父親の姿は、決して尊敬できるものではなかったが、そうやってぷらぷらと生きることで貴族同士に揃ってため息をつかせ、衝突を減らすことには成功していたのだろう。
たとえ六歳の子供だろうが、たとえなんの罪も咎もないのだとしても、王の家に生まれた以上王族としての責任が発生する。六歳のユリウスが王宮の崩落に巻き込まれ、他の兄弟が軒並み死んだように。だって、九歳だったというすぐ上の兄になんの罪があったのだ? 十五歳だった長兄は女官を孕ませて知らんぷりくらいはしていたようだが、それだって王族であるならば殺されるほどの罪だろうか。
生贄のように。その義務を果たせと生まれたのであれば、その役目につかなくてはならない。
彼らにはユリウスにとってのマイヤはいたのだろうか。そう考えてしまえば、その息苦しさを思ってしまえば、もはやユリウスに己の運命を恨む気力は残らなかった。
(ああ、父上……)
あなたの気持ちがわかるかもしれない、とユリウスは思った。
それはあながち、間違ってもいない想像だった。




