戦支度2
マイヤは相変わらずユリウスが怪我するたびに悲鳴を上げる。今の彼女にできることはせいぜいそのくらいだ。日当たりのいい塔の一室を与えられ、そこから出ることはできず、また本人もそれを望まずに、日がな一日針仕事をしているらしい。きっとスープを煮る時間をはかるためそうしていたように、女神の歌を口ずさんでいるのだろう。
マイヤの嫁ぎ先はとんとん拍子に決まり、夏を待たずに嫁ぐことが決まった。
昔からの風習で、戦のあるときには結婚式を挙げない。戦が終わり、花嫁が懐妊、または出産を経てはじめて式が挙げられる。それまでは婚家に慣れるため、一緒に暮らすのだ。
マイヤは結局、自分のことを自分で決められなかった。彼女はいつだってそうだった。ユリウスも寝ずに考えて、ユリウスに比べればマイヤのことなどさほど重要に思っていないギルベルトたちの意見も聞いて、
「俺がこれから戦いにいく間、毎日姉さんのことを心配しているわけにもいかないから――」
と、幼児を宥めすかすようにして話を受けさせたのだった。
コトヴァ老の元で働くカーレリンの女性たちもまた、ずいぶんマイヤを説得したと聞く。
やっぱり人は、若い娘には早く落ち着いてほしいと願うものらしい。
確かに姉が身辺からいなくなることについて、思うところがなかったわけでもない。新しい毎日が楽しすぎて古い家族を見捨てることにした? そう――そういわれても、仕方がない。
けれどユリウスはマイヤに安全でいてほしかった。トロールを助けるためにならず者につっこんでいくような目には、矢で追い回されて夜の街を走り回るような目には、二度とあってほしくない。頭の中で信じている倫理や女神の教えに忠実であろうとするあまり、姉は現実の自分がどれほどちっぽけなのか忘れてしまうから。
(俺から離して、ちゃんと自分のことを考えられるようになってほしい。弟離れしてくれよ、姉さん……)
もう姉の身の安全を心配しなくてもいいと思えば今に集中できた、というのもある。本音を言えば、肩の荷が下りた。姉のことをユリウスは愛している。愛しているし、大切だし、幸せになってもらいたいが――そのすべてを背負わなければならないことは、十六歳の少年には間違いなく重荷だったのだ。
だからユリウスは、忙しさの合間にふと顔を上げて、
(マイヤが行っちゃうまであと……)
など内心、指折り数える。平民は機を見て盛大なお披露目の式を、などという考え方をしない。平民らしい考え方に染まった彼にとって、式もせずに姉が結婚するなんて変に思える。
――思えばこのとき忙しさにかまけずに、一回でいいから立ち止まって考えてみればよかったのだが。
その日、城の二階にあたる踊り場でタイタス・ロアン・テル・ヴァニゼリアとユリウスは行きあった。ちょうど新しくドラゴンで到着したというカーレリン貴族に顔を見せに行く途中で、ユリウスの後ろにはコトヴァ老、フリードリヒ・ヴォン・アウレリオと双子の狼少年たち、数名の護衛兵士がいた。
タイタスはマーネセンの領主である。そしてそれ以外に特別な肩書も持たない男だった。純血のフェサレア人でありながらカーレリンに協力しているのは、ひとえに彼がダンジョンから得る利益を吸い取り私腹を肥やしたいからである。
「私はフェサレアの都では這い上がれませんでした。官職試験に合格し、死に物狂いで領主と呼ばれる立場になったのです。折を見て引退するつもりです。あしからず」
とはユリウスと初対面の際に言い放った言葉だが、周りをぐるりとカーレリン人に取り囲まれながらよくも言いきったものである。
タイタスの後ろにはあのひょろ長いユーピテが控えており、相変わらず誰よりも尊大そうだった。従者を見れば主がわかるともいうが、なるほど一理あると思う。
「ご領主――、これから嘆願の間ですか」
とユリウスは声をかけた。身分の高い方から話しかけられなければ、低い方は顔を上げることもできないのが作法である。いまだにぎこちなさは拭えないし、あやうくご領主様、とうやうやしく頭を下げるところだったのは、コトヴァにはばれているだろう。
タイタスは表情の読めない顔で片足を引き、頭を下げる。片眼鏡の細い鎖がチャリリと揺れる。短く刈り込まれた黒髪といい、たっぷりと布地をとりつつも黒ずくめで装飾のない恰好といい、質実剛健な男だった。ユリウスは急に、自分の服のごちゃごちゃした意匠だの宝石飾りだのが恥ずかしくなった。
「お声がけ賜りまして恐縮です、殿下。ええ。月に一度の義務ですから」
嘆願の間には長い順番待ちの行列がいつでもある。庶民が貴族に徴税人や代官の不条理を訴えたり、いつまでも収拾のつかない揉め事の仲裁を願い出る唯一の機会が、嘆願の間での直訴だった。それでもマーネセンの領主は慈悲深い方である。民の声に耳を傾けるのが貴族の義務とはいえ、生涯一度も嘆願など聞いてやらないという者もいるのだから。
「最近は、どうです。民はざわついていると聞きますが」
「ええ、おのおのの方々がそれぞれの領地より兵士を連れてこられましたからね。マーネセンの財をもってしても養いきれるものではありませぬ。軍隊が長く都市に留まれば必ず瓦解します。早く潮目が変わってほしいものです」
実直すぎてもはや豪傑な申し出だった。コトヴァの静かな怒り、フリードリヒが緊張したのがユリウスにはわかった。
「ええ。軍事機密ですからお教えできませんが、着々と準備は進んでいますよ」
麦の収穫が始まる前に合戦は平原で行われる予定だった。すでに宣戦布告の使者が出立したあとだった。
タイタスは片眼鏡の奥で目を細め、それはユリウスから滲む平民らしさを笑ったようにも見えた。この男には王家に対する畏敬もなければ、フェサレアへの忠誠もない。富を貯め、どこかに小さな島を買い隠遁するのが夢なのだという。むしろこんな男がただ効率性を重視して政策を整えたからこそ、冒険者たちはあそこまで自由にダンジョンに挑むことができたとも言えた。
ユリウスとマーネセンの領主は礼を交わし合い別れ、ひょろ長のユーピテがひょこひょこ己の主のあとに続いた。向こうの足音が消え去らぬうちからコトヴァの渋面がぬっとユリウスの視界に入り込んで、
「あれは御身を軽んじておりますぞ。不敬ですな。殿下も君主らしく叱りつけなさいませ」
などと忠告する。
「う。はい、……難しいなあ」
ユリウスは苦笑して肩をすくめた。
実際、ただの少年がいきなり王子、ひいては王らしくなど振る舞えるはずもない。ユリウスは今まで数々の失敗をやらかしている。たぶん、自分の気づかないところでも。
そのたびに生粋の貴族たちは表面上にこやかに、内心を押し隠すのだった。
すでにカーレリン以外の国々もまた、ユリウスの名前で出された激文に呼応して集結しつつあった。敵の敵は味方、というわけである。
魔法王国と呼ばれたクロノトエルの魔法使いの生き残りたちが、次々とマーネセンに瞬間移動してくるさまは壮観だった。草原の民たちは静観の構えだが、一部の部族からはどこが戦場になるのかと探りが入っている。戦が終わったあとの敗残兵を捕虜にし、また身に着けたものを奪うことが彼らの生計の手段の一つだからだ。テルリットの騎馬隊は全滅していたが、子供たちが女たちに連れられ生き延びていた。彼らは父の名と遺志を継ぎ、カーレリンに与してのちはテルリット自治領の復興を望んでいる……。
ユリウスはこれからこの内乱状態に突き進む国を、勝ち上がらねばならない。




